幕末を生きた蘭方医の伝記。
桑田立斎は、小児への種痘に取り組んだ蘭方医である。幕末には西洋医学がさかんに流入し、特に天然痘のワクチン「種痘」についてはかなり普及した。種痘の接種に取り組んだ蘭方医は多く、特に長与専斎は有名だ。そうした中で、本書の主人公の桑田立斎はそれほど有名な人物とはいえない。
立斎がやや独特だったのは、彼が小児科の開業医だったことと(当時「小児科」という概念があったのか不明であるが、本書では「小児科医」ということになっている)、幕命で蝦夷地(北海道)に行き種痘をしたこと、7万もの人に種痘をしたことである。
私は本書を2つの興味から手に取った。一つは、幕末の蘭方医がどんな存在だったか知りたかったこと、もう一つは、蘭方医がどんな髪型をしていたかということである。どうして髪型が気になるのかと訝しむ向きも多いだろうが、当時の髪型は社会的地位を示すものなのである。
ただし、本書は史料に基づいた評伝ではなく、桑田立斎を広く知ってもらうための小説である。よって、髪型のことも触れられてはいるが、それが事実なのかフィクションなのか判断がつかず、本書は私の興味に完全には応えてくれなかった。以下、髪型を踏まえつつ簡単にメモする。
桑田立斎は、文化8年(1811)、新発田藩の下級武士の次男、村松五八郎として生まれた。彼は明王院という地蔵菩薩を祀る寺院で生まれ地蔵菩薩のお弟子となっていたので、元服を過ぎても稚児髪を剃り落とした時のままの坊主頭であった。武士ではない、という徴(しるし)だろう。
ちなみにその頃、蘭方医の町医者(島田本道(竹斎))は総髪をしていた、とある。既に蘭方医の町医者がいた、ということ自体が興味深い。では蘭方医ではない医者(つまり漢方医の医者)は、どういう髪型をしていたか。医者は法橋とか法印といった僧侶としての位を持っていた(持っているものもいた)ので、剃髪していたようにも思うが本書には髪型の記載はなかった。
村松五八郎、改め村松和は蘭方医を志し、江戸に2度遊学する。しかし十分に西洋医学を学ぶことはできず、帰郷後、島田竹斎の蔵書に接して勉強した。ここには『西説内科撰要』18巻などがあった。西洋医学書は、維新前に漢訳され、少ないながら流通していた。
村松和は再度江戸に出て、蘭方医坪井誠軒の日習塾に入った。和はこの頃も坊主頭だったという。当時、江戸には戸塚静海、大月俊斎、竹内玄同、伊東玄朴ら蘭方医の大家がいた。彼らは幕府か諸藩に仕えて侍医となっていた。また高野長英、渡辺崋山、小関三英、鈴木春山らの尚歯会も西洋文明の積極的輸入を図っていたが、尚歯会は「蛮社の獄」で弾圧される。彼らは政治批判の廉によって捕縛されたが、西洋医学自体は弾圧の対象とはなっていない。
村松和は坪井誠軒の紹介で蘭方医桑田玄真の養嗣となり、32歳の時に深川西大工町に小児科医院を開業した。結婚して子どもを設けた後、嘉永2年に伊東玄朴から牛痘種痘の痘苗を分けてもらい、牛痘種痘を開始。それを機に立斎と号した。39歳の時である。
立斎は種痘を進めるために『済幼私説』『済幼問答』という小冊子、『牛痘発蒙』という本を出版。そして実際に多くの人びとに種痘を施した。また小児養育に関する本『愛育茶譚』や『宝ハ子ニ勝ル物無きの弁』という冊子も出版するなど、多くの啓蒙書・パンフレットを送り出した。立斎は、民衆に種痘を広めるための啓発活動に力を入れたのである。
こうした活動が注目されたのか、彼は老中阿部正弘から幕命を受け、当時天然痘が流行していた蝦夷地に渡ってアイヌに種痘を施すことになった(深瀬洋春という江戸の蘭方医も同じ幕命を受けて蝦夷地に渡ったが、二人は別々に行動)。
アイヌへの種痘は狩り出して無理矢理接種するというようなものだったらしいが、立斎は人道的な方法によって行った。また立斎と助手などの一行は、箱館から十勝へ渡り、根室から国後島にまで行った。これは当時、立斎の養父桑田玄真の実子、関谷順之助が国後島(箱館奉行所国後出張所)で勤めていたからであった。なお蝦夷地行きから立斎は頭髪を生やすようになった、とされている。総髪になったのだろうか。
蝦夷地では、幕府から出た費用の他に200両ほどの私財も投じ、6400人に種痘を施した。江戸に帰還して安政5年(1858)には、江戸でコレラが大流行する。また同年、伊東玄朴らが種痘所を江戸に設置することを幕府に申請し認められた。これは蘭方医82人の醵金による私設の種痘所である。これは文久元年(1861)に西洋医学所と改称され、東京大学医学部につながっていくものである。
文久2年(1862)には、麻疹が江戸に大流行した。麻疹は天然痘以上に致死率が高かったので、江戸市中だけで26万人以上の人が亡くなった。「坂下門外の変や生麦事件よりも、全国的に大流行した麻疹のほうが、一般庶民にとって、はるかに身近な大事件だったのである(p.179)」。麻疹の治療にも立斎が必死で当たったことは言うまでもない。
立斎は、生涯で10万人に種痘を施すという目標を立てており、維新の混乱で江戸から避難する人が出る中でも医院を開き続けた。ところが種痘の注射を打とうとしたところ、注射器を握ったまま突然死した。慶応4年(1868)、享年58歳。生涯に種痘を施したのは約7万人であった。「幕末のジェンナー」と評される。
本書の著者、桑田忠親は立斎の子孫で(忠親の曾祖父が立斎)、本家に蔵されていた『桑田立斎年表』と『遺言状』という史料に基づいて、フィクションを適宜交えて本書を書いている。著者の専門は戦国時代から織豊時代、特に茶道の歴史について研究した。よって幕末を舞台にした本書は、専門から外れる。
先述の通り、蘭方医やその髪型についての情報は期待通りのものではなかったが、本書を読みつつ、幕末における西洋医学の受容について改めて興味が湧いた。さらには、それは洋学全体の受容の中でどのように位置づけられるのか。今後勉強してみたい。
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