鎌倉幕府の誕生を描く。
源頼朝は貴顕の生まれであり、武家の棟梁にふさわしい家柄ではあったが、現実には大きな武力も後ろ盾も持っていなかった。だが平氏に戦いを挑み惨敗した「石橋山敗戦」からたった40日で、不可解にも関東の大豪族千葉介、上総氏などが味方につき、一気に鎌倉に新政権を打ち立てるのである。
頼朝は、天才的な政治才覚と読みの深さ、外交的バランスに恵まれ、カリスマ的な存在となった。彼は武士社会が抱えていた2つの課題を解決し、それによって広範な支持を得た。その2つとは、土地所有と訴訟である。
平安末期、かつての公地公民制が瓦解して荘園制へと進んだが、これは場当たり的な土地所有制であったために、その制度は複雑怪奇でしかも不確かなものであった。例えば、自らが開発(開墾)した土地の所有を確実なものとするため、土地の権威者に寄進をし、自身はその現地管理者として収まるといったことが多かったが、その権威者はさらに上位の権威者(例えば大寺院)に寄進するといったことが繰り返された。こうして権利関係が網の目のように張り巡らされ、その結果として土地所有は何重に承認された。しかし現代のように法務局があってそこに登記された、というような確実なものではない。「悔返し」と言って、譲渡したはずの土地を取り戻す行為も多かった。そしてひとたび土地の所有者に疑義が起これば、関係者同士の水掛け論へ陥ってしまう危険性を孕んでいたのである。
だから開発領主たる東国武士にとっての大きな課題は、土地所有を確実なものとすることと、訴訟の際に公平公正な裁定を行うことであった。頼朝は、土地所有については頼朝自らが土地の所有権を認める(=所領安堵)という関係に一本化し、所領安堵した者を「御家人」とした。つまり「御家人」とは、単に頼朝の部下であるということではなく、土地を介した主従関係であった。そして訴訟については、全て頼朝の親裁とした上で公平で的確な裁定を下したのである。
頼朝は、土地や訴訟の問題を解決するだけでなく、関東の独立性の高い武士たちを巧妙に編成していった。そして社会の上部構造にほとんど手をつけることなくほぼ政治的手腕のみによってそれら武士の一団を国家の支配構造の中に組み込むことに成功した。頼朝は、いわば国家の執行機関(国衙)を合法的に乗っ取ったのである。その一例が、一種の徴税官である「地頭」であり、また警察・公安・軍事指揮者である「総追捕使」、後の「守護職」である。
しかし頼朝の政権は、頼朝のたぐいまれなカリスマ性に基づいていたし、その基本政策(土地の支配権の保護と公正な裁決)は2代目以降には引き継がれず、頼朝死後には混迷が訪れる。かつての重臣が次々と粛正され、将軍は形骸化、ついに3代将軍実朝は暗殺される。こうして幕府の実権は執権の北条家へと移っていった。それが確定したのが承久の乱である。
承久の乱の台風の目になったのは後鳥羽上皇であったが、それに呼応したのは将軍独裁時代に特権を教授していた重臣であった。この乱が平定されたことで、そうした特権層が解体され、「評定衆」という合議制機関に基づいた、代表としての執権・北条泰時を推戴する武家による武家のための政権が成立するのである。その到達点が「御成敗式目」の制定だ。「御成敗式目」は、律令のように立派であっても理念的な法規とは違い、極めて実践的かつ平易な、武家の生活実態に即した「道理」を表現した画期的なものであった。
そして現実にも泰時は道理を重んじ、強い者が勝つような不公平を廃して温情的な政治を行い、執権政治の黄金時代を作った。ところがこの合議制に基づく執権政治も、やがては得宗専制政治(独裁政治)へと変質してしまうのである。
本書ではこうした政治史の他、鎌倉文芸の到達点としての「平家物語」や貴族文化の革新、特に東大寺再建や慶派(運慶・快慶など)の活躍、鎌倉新仏教の対称的な実践者であった親鸞と道元についてなど文化史的な面についても筆を割いている。
ちなみに私が本書を手に取ったのは、「地頭や守護とはそもそも何か?」という疑問を抱いてのことだった。それについて本書はかなり丁寧に説明しているがその前提として「「守護地頭問題」…(については)…かつての古い通説的見解はもはやまったく色あせ、全面的な改訂を迫られるに至った。だが一方、学説の戦国時代ともいうべき状況のなかで、新しい統一的結論はまだ生みだされていない(p.174)」としており、暫定的な説明であると断っている。これについては最新の学説も確認したいところである。
鎌倉幕府成立の意義がよくわかる良書。
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