2017年9月17日日曜日

『ある英人医師の幕末維新—W・ウィリスの生涯』ヒュー・コータッツィ著、中須賀哲朗 訳

幕末明治の頃に英国公使館の一員として来日し、医師として活躍したウィリアム・ウィリスについてまとめた本。

著者ヒュー・コータッツィは駐日英国大使だった人物で、本書はその在任中に書かれたものである。ウィリスは本国の親類や友人のアーネスト・サトウに向けてたくさんの手紙をまめに書いており、本書はそうした書簡を元にウィリスの日本での活動を辿っている。

ウィリスというと、私たち鹿児島の人間には馴染みが深い人物で、西郷隆盛がウィリスをとても信頼していたという話もあるし、ウィリスは鹿児島大学医学部の学理上の祖でもあるのに、その知名度にも関わらず、彼の人間的な側面についてはほとんど知られていない。

本書は、ウィリス自筆の手紙で構成されるものであるから、自分をよくみせようという彼のささやかな虚栄心があるとしても、個人的な手紙がほとんどであり、彼の内面を雄弁に物語るものだ。

そういう彼の内面を一言で表すなら、間違いなく「ヒューマニズム」ということだろう。本書には、ウィリスが会津戦争に医師として従軍した記録が数多く収められているが、無償で敵味方関係なく傷病者を治療・看護したその情熱がよく伝わってくる。そして、彼がいつも気にかけていたことは、負傷した捕虜が一切見当たらないことであり、それは敵兵を皆殺ししていることを暗に示していた。彼は、敗者への人道的な扱いを一貫して主張するのである。

そして、日本で直面した外国人へのいわれない敵意にも、彼は極めて紳士的に対応していたように見える。英国人というものは立派なものだ、と思われるように、と彼は述べるが、とにかくどんなに敵意を示されても、寛容で親しみのある姿勢を崩さなかった。一方で、非合理なことに対しては毅然として正論を主張したのも彼であった。

しかし、ウィリスがヒューマニズムに燃えた聖人君子だったかというとそうでもない。そもそも日本への赴任は、一種の人生からの逃走の側面があった。イギリス在住中に、ある看護婦との淫らな関係により私生児を産ませてしまったこと、そういう負の人生から逃れるために遠い日本までやってきたという見方も出来るのである。

事実、日本へ赴任してきた当初のウィリスの手紙は、日本への不満、未開な文化への軽蔑的な見方といったものも散見される。次第にウィリスの声望が高まり、副領事として活躍するようになるとだんだん日本という国にも親しみを覚えていったようである。

そしてウィリスは、日本政府から請われて東京医学校を任されることになる。英国大使館を休職し(本書では「賜暇」と表現)、日本政府のお雇い外国人となって、西洋医学を日本に広めようとした。だが東京ではオランダ医学を学んだ蘭方医が幅をきかせており、蘭方医たちはドイツ医学を輸入したがった。ウィリスは「日本における医学の父の一人」となりたいと孤軍奮闘するが、遂にその願いが叶えられることはなかった。

ウィリスは公使館へ戻ることもできたが、あくまで医師として生きていきたいという希望もあって、戊辰戦争以来親交のあった薩摩藩に招かれることになる。といっても、彼は失意の中で、お金のためにしょうがなく僻地の薩摩に行く、というような心持ちだったようだ。

鹿児島に「都落ち」してからの手紙は、苦渋の毎日を伝えている。外国人への敵意、暑すぎる気候、たった一人の英国人という孤独、そして漢方医からの反発といった逆風の中で、浄光明寺跡に設けられた西洋医院を任され、そこを拠点として鹿児島での医療と医学教育、公衆衛生、食生活の改善などに取り組んだ。やがて彼の働きぶりは高く評価され、その医学校・病院は発展していった。私生活においても、江夏八重との結婚、そして息子アルバートの誕生もあり、孤独は癒えていったようである。八重との結婚は、お雇い外国人にありがちな現地妻としてではなく、生涯の伴侶として考えていたようで、鹿児島に一家の生活のための宏壮な住宅も建築している。

しかしようやく手に入れた幸せな生活も、西南戦争の勃発によって壊されてしまった。彼は八重や息子たち(前妻の子ジェームズも含む)を連れて東京まで避難するが、やむなく家族をおいて彼だけが英国に帰国することになった。戦後にはまた鹿児島に戻るが、そこにはもう彼の居場所はなかったらしい。外国人排斥から彼を守り温かく迎えた大山綱良や、よき友人であった西郷隆盛はいなくなり、ドイツ医学の方が重んじられたという背景もあって、仕事をみつけることができなかったのだ。

こうしてウィリスは息子アルバートだけを英国に連れて帰った。その後おそらくはアーネスト・サトウのはからいによってバンコクの駐在英国総領事館の医師として働いた。ウィリスはタイで8年ほど過ごし、日本でと同じく高い名声を博したが、体調を崩して英国に帰国し、58歳で亡くなった。

ウィリスが日本に滞在したのは、25歳から40歳までという、人生において最も活動的な時期にあたっていた。本書を読むと、ヒューマニズムに溢れた青年が理想と現実との間で悩んだり、人を助けるために危険を顧みず奮闘したり、待遇改善のため地味な事務仕事に勤しんだりといったウィリスの息づかいが感じられるようである。そんな中で、ようやくつくり上げたのが鹿児島での生活だったのだ。

彼が主催した西洋医院は鹿児島医学校兼病院となり、西南戦争での中断ののち、鹿児島県立医学校、鹿児島県立病院を経て現在の鹿児島大学医学部へと継承されている。本書は絶版状態にあるが、少なくとも鹿児島ではもっと読まれるべき本であろうと思う。

青年ウィリスの生き様が感じられる良書。

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