2017年4月6日木曜日

『契沖の生涯』久松 潜一 著

江戸時代の国学者、契沖(けいちゅう)のコンパクトな伝記。

契沖といえば、江戸時代の国学者の中でも最も早く頭角を現した国学者の嚆矢とも言える人物であるが、本居宣長や平田篤胤に比べるとあまり知られていない。私も契沖の研究業績については多少知っているが、どんな人物であったのかよく知らなかったので手に取ったのが本書である。

没落しつつある武士の子として生まれた契沖は、11歳で出家し真言宗の僧侶となった。幼少の頃より抜群の記憶力だったようだ。13歳で高野山に入って約10年間仏道を修行した。この頃、快賢という僧侶について学んだが、この快賢が仏学のみならず神道や和学(日本古典文学)にも通じていて、このことが契沖を真言僧侶でありながら国学の道へ進ませた大きな要因であると見られる。23歳くらいの頃、契沖は高野山を下りて曼荼羅院という寺の実務を担当するようになった。

契沖は寺務をこなしながら、古典研究に励むようになる。そして彼は曼荼羅院を去り山寺にこもって修行したり、各地を放浪したりして30代を静かな研鑽の時代として過ごした。現実の人生に飽き果てた彼は、隠棲にも等しい生活をしながら、仏典漢籍の研究や悉曇(サンスクリット)学の研究を進めていったらしい。この頃に、彼は大阪は和泉の伏屋家へと寄寓したが、伏屋家には日本古典文学がたくさん蔵書されていた。日本紀などの国史、和歌、歌書といったものである。契沖はこれらを読破し、やがて日本古典文学の研究を極めていくことになる。

契沖は39歳で大阪の妙法寺という寺の住職となり、ここに身を落ち着けた。契沖としては、俗務に携わることは本意ではなかったかもしれないが、この頃にはすっかり家運が傾いていて、母や兄を養って行かなくてはならないという事情もあったようである。

ところで曼荼羅院時代の下河辺長流との出会いが、契沖の研究人生には大きな影響があった。徳川光圀は下河辺に万葉集の注釈書を執筆するよう依頼していたものの、下河辺は病気のためこの仕事が果たせず交流が深かった契沖を紹介。契沖は求めに応じて主著となる画期的な万葉研究書『万葉代匠記』を完成させ、光圀から白銀千両と絹30匹という当時としては異例な褒美をもらった。

しかしその褒美は貧しい人に施したという。光圀からはこの他にも生活支援も受けていたようである。契沖としては、そうした支援を受けることは心苦しかったが生活のためやむを得なかったようだ。『万葉代匠記』を完成させた後、父母の最期も看取って身軽になった契沖は、元禄の初め頃、妙法寺を去って大阪高津の圓珠庵に移った。ここでは寺の事務もなく、光圀からの援助も受けて悠々として学問に専念することができた。契沖が50代に入ったこの時代が、彼の学問の完成期に当たっていた。

契沖は控えめで謙虚な人柄だったらしい。本居宣長とは違って、弟子もほとんど取らなかった。契沖は天下の青年を指導しようというよりは、深く自己に沈潜して精神を陶冶していこうというタイプであった。そういう契沖が、圓珠庵で気心の知れた弟子たちに向かって行ったのが、万葉集講義であった。その研究の集大成となる万葉集講義を終えてほどなくしてから、契沖は62歳の生涯を閉じた。

本書は昭和17年が初版であり、かなり古いものではあるが割合に読みやすく、契沖の温かい人柄への愛情が伝わってくる好著である。ただし、あくまでも契沖の生涯を辿るという構成であるため、契沖の研究成果についてはほとんど何も述べられない。学者の人生を辿るのにその研究内容について触れないというのは、ちょっと無理があるのではないかという気もする。

そういう意味では物足りないが、契沖という人物を知るにはちょうどよい入り口の本。


0 件のコメント:

コメントを投稿