日本の政治・行政機構はバブル崩壊までは世界的に称讃され、研究もされてきた。世界一優秀な教育システム、倫理感のあるエリート、「日本株式会社」と呼ばれ官民一体で通商を振興する体制、そういうものの秘訣はどこにあるのか、多くの欧米の研究者が日本を訪れた。
また一方では、神秘的な日本文化——茶の湯や能、禅や古寺といった伝統文化も世界的に称揚されてきた。こうしたことから、ジャパノロジストと呼ばれる日本研究者が「神秘的な日本」、「東洋と西洋が融合した日本」、「技術立国であるとともに伝統的な価値観が残っている日本」という日本賛美の声を惜しげもなく注いできた。
しかしそれは本当だろうか? 日本の社会はそんなに褒められたものだろうか? いやそれどころか、今の日本は世界的に見て後れを取っているのではないか? 本書は、そういう観点から著者なりに問題だと思うところを延々と挙げていくものだ。
まずやり玉に挙げられるのは「土建国家」である。日本経済は土木工事なくては立ちゆかなくなるほどに土建業に依存してしまっている。余剰労働力を吸収できるところが土建業しかないために土建業に過度の税金が投入されている。そのため不必要な工事が無定見に行われ、美しい国土がコンクリートで覆われてしまった。どれくらいすごい量のコンクリートが使われているかというと、
「94年の日本のコンクリート生産量は合計9160トンで、アメリカは7790トンだった。面積当たりで比較すると、日本のコンクリート使用量はアメリカの約30倍になる」(p.52)とのことだ。だだっ広いアメリカと面積当たりで比較するのはやや的確でないとしても、人口当たりで考えてもアメリカの倍はコンクリートを使っている計算だ。
しかも多くの日本人はそのことを当然だと考えている。災害の多い日本は、治山・治水に力を入れなければ手痛い目に遭うと思っており、土建業への依存はやむないこととされている。特に震災後は、土建業者がいつでも遊軍として控えていることが一種の防災であるかのように認識されてもいる。
確かに、日本は雨が多く山がちであり、舗装されていない坂道があろうものなら大雨ですぐに通れなくなってしまう。今でも東南アジアでは雨が降ると通行止めになる山岳地帯の道は結構あると思うし、気候条件がかなり違うアメリカやヨーロッパとコンクリートの多寡を単純比較することはできない。道路をアスファルトで舗装すること一つ考えても、日本と欧米では必要性の度合いが違うと思う。
しかし問題は、そうした土木工事が本当に意味のある工事となっているか、ということである。もちろん、例年、年度末になると予算消化のための工事が行われることを知っている我々は、とても全てに意味があるとは言えないことは本書に指摘されるまでもなく分かっていることだ。
そして治山・治水に必要な工事であっても、環境と周囲の景観に配慮し、最小の構築物で最大の効果を生む工事を行うべきだ。しかし日本では、本来の必要からかけ離れた大規模な——モニュメンタル(記念碑的)な、といってもよいような工事が好まれる。ほとんど車の通らない山道に、立派な橋が懸けられる。海岸線は、目を覆うばかりのテトラポッドで埋め尽くされる。山は切り開かれ、斜面全体がコンクリートの奇っ怪な格子で覆われるのである。こうして国土は醜くなっていく。
そんな工事は、本当に必要なのだろうか? いくら護岸工事が必要といっても、テトラポッドをむやみやたらに積み上げて効果があるのか? ちゃんと専門的な調査に基づいて護岸しなくては、逆効果なことだってある。護岸工事をしたら海岸の浸食が激しくなった、というような皮肉な話は、日本にはゴロゴロ転がっているのである。
このように、日本では、必要性は低いが金がかかる派手な工事はバンバン行われるが、逆に必要性は高いのに地味な事業には全然手がつけられないのである。
こうしたことは、新聞やテレビでもよく糾弾されていることであるから、あえて本書に指摘してもらうまでもないと思うかもしれない。確かにそういう面もある。だがそうした日本の「リアル」を外国人が英語によって発表(原題 "Dogs and Deamons")したことに意味がある。また著者ならではの視点での問題提起もたくさんある。
例えば、都市と景観の問題。日本でも都市計画はあるにはあるが、そもそも都市を美しくしようという意志に全く欠けており、電線の埋設一つとっても全然進んでいない。それどころか周囲の環境と調和しない奇抜な建物がドンドン建てられる状況にあり、例えば世界的な観光都市といえる京都ですら、一部の古寺を除けば電線とコンクリートの建物に溢れ、古都の情緒など微塵も存在しない。それどころか市内中心部の京都駅は古都らしからぬ醜悪な「現代建築」で、外には京都タワーが聳える。そして周りを見回せば品のない看板ばかり! どうしてこんな無秩序な景観になってしまったのだろうか?
日本は規制が多い社会と思われており、実際に煩瑣な規制はたくさん存在しているが、本質的に意味のある規制は少なく、ほとんど形式的なものであることが多い。よって規制が多いのに無秩序が横行している。景観や都市計画といった面では諸外国の方がよほど規制が多く、しかもその規制が実質的だ。しかし規制の多寡が問題なのではなく、規制によって実現しようとする理想の社会があるかどうか、ということが重要だ。
さらに、膝を打つ思いだったのが街路樹の管理の稚拙さ! 日本では街路樹の落葉が迷惑がられるためか、秋になると無残にもバッサリと街路樹の枝が落とされることが多い。それも不要な部分をバサバサちょん切ってしまい、非常に無様な姿になる。こんな無様な街路樹管理をしている都市は他の先進国にはないのではないか。一方で、盆栽を始めとして日本の庭木管理は高度な技術を持っているはずである。技術は持っているはずなのに、街路樹の管理がどうしてこうもおざなりなのか?
このように、本書は日本への愛のムチとも言える本であり、耳が痛いを通り越して不愉快な部分もある。時に少し偏った紹介の仕方もあるし、日本人として完全に同意できない点もある。しかしその主張は総じて「普通の日本人」の感覚に沿ったものである。普通の日本人が、「この国はどこかおかしい」と感じるそのボンヤリとした違和感を、外国人の視点からスバっと具体的に指摘してくれている。
才覚と能力に溢れた若者にとって、この国はもはやさほど魅力的ではなくなってきている。海外で一旗揚げた若者は、もう日本には戻りたがらない。「平和を謳歌している自由で裕福な国が、そこに属する最も優秀で野心ある人々にとって魅力がないというのは、世界史を見てもほかに例のないことだ。(p.343)」この一文には目が醒める思いだった。日本はまだ裕福で自由な国と呼べるだろうが、優秀な人間に見捨てられるほど、大きな問題も抱えた国なのだ。
ではその問題をどうやって解決していけばよいのか。本書は問題提起の書であり、処方箋を提示するわけではない。ある意味では言いっぱなしである。解決策を考えるのは我々の責任だ。日本社会には巨大な問題があるが、それを解決していくのは超弩級にやりがいのあることでもある。
日本の姿を率直に捉えて、これを改善していこうじゃないか、そういう気持ちにさせられる重要な本。
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