世にも名高い、デカルトの画期的哲学書。
デカルトは本書を発表する前に、より踏み込んだ『世界論』という本を出版準備していた。が、ガリレオが地動説を発表した廉で逮捕されたことを知り衝撃を受ける。それはデカルトからすれば何ら信仰上の問題を惹起するものとは思えなかったからだ。そこでデカルトは自分の哲学についても慎重にならざるを得ないと考え、出版の途上にあった『世界論』をお蔵入りさせてしまう。そして結局これは死後に発表されることになる。
しかし『世界論』の発表は控えるにしても、その結論に至った「方法」だけでも世に訴えたいとデカルトは考えた。 それは、今日的に言えば「科学的な方法」といういうように言えるだろうし、もっと適切な言葉を使うならば「科学的世界観」である。
言うまでもなく、当時はカトリックの考え方が真理と思われていたし、その土台になっていたアリストテレスの大きな影響下にあった。その考え方を乱暴にまとめるなら、「この世は第一原因(神)から演繹的に導ける」ということになろう。例えば「科学」について述べれば、個別の現象を観察して理論を組み立てていくというよりも、より上位の理論から演繹して理論を組み立てていくのが正しいやり方と思われていた。
本書においてデカルトは、そういった演繹的な理論はなんら真実性を保証せず、真理に到達するには実験・観察に基づいて帰納的に求めるべきである、というような趣旨のことを述べている。すなわちデカルトは、本書においてアリストテレス的世界観の代わりに科学的世界観を確立しようとする世界観の大転換を図ったのであった。
しかし本書はその成立の背景から分かるように、当局(教会)に対して相当遠慮して書かれたものであるため、今風に言えばポリティカル・コレクトネスを気にして、奥歯にものが挟まっているような表現をとっている箇所が多い。それに、科学的真理に到達するための「方法」そのものの説明というよりも、その「方法」を見つけるに至った自らの精神の遍歴をなぞる書き方をしているので、それがなおさら遠回しに感じられる。
また、その「方法」の基礎となるものは、真実であると明証されていないものは信じない、という徹底的懐疑にあるのであるが、敬虔なキリスト教徒であったデカルトらしく、神の存在については割と簡単に証明した気になっているあたり、今日的に見ればやや懐疑主義も不徹底な部分がある。
しかしながら、本書は小著ながら世界観の大転換を図るという壮大な意図をもったものであり、そういった点は後世の安全圏にいる人間からの後付けの批判であって、本書の価値を減ずるものではない。
しかも、このような画期的な大転換を図る本をラテン語ではなく、女性や子どもでも読めるようにという配慮からフランス語で発表したのも意味があることである。そして本書には遠慮がちな表現が多いのは確かだが、文は平易であり、難解さは微塵もない。中世哲学の迷宮に比べ、この霧が晴れたような明晰さは爽快である。
なお、ここに述べられた科学的世界観は現代では当たり前のものであるから、今の人間にとって当然な部分も多いが、現代日本でもEM菌、マイナスイオン、コラーゲンの経口摂取、江戸しぐさ等々、科学的根拠のないものが跋扈しているわけで、今でもデカルトの「方法的懐疑」に学ぶことは意味があると思う。
近代哲学の始まりとなる不朽の名著。
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