古代から鎌倉時代まで、天皇と関係の近い皇女が斎王(さいおう)として伊勢神宮に仕えるために派遣された。斎王が居住した場所が斎宮(さいくう)である。本書は、斎宮・斎王とはいかなるものであったかを豊富な情報量かつ親しみやすい語り口で紐解くものである。
斎王とは、「天皇の代替わりごとに未婚の皇族女性から選ばれて、その天皇一代の間、伊勢神宮に仕える人(p.1)」である。その人選は建前としては亀卜(占い)によるが、かなり恣意性があったと考えられる。1年に3回伊勢神宮(内宮・外宮)に参詣するのがその主要な任務であった。そしてその居住地が斎宮であり、これは条坊制を持つ小規模な都ともいうべき場所であった。斎宮には斎宮寮という維持機関が置かれ、さらにその下には21の司が置かれた。斎宮は本格的な官僚機構を持つシステムなのである。
また賀茂神社にも嵯峨天皇の時代から皇女が派遣された。こちらは賀茂斎王といい、その居住地から斎院ともいわれる。賀茂斎院は9世紀前半から13世紀前半まで存在し、斎宮よりも存続期間が短かった。
なお、斎王は伊勢神宮の主宰者ではなかったのはもちろんである。伊勢神宮には祭主が別に存在し、古代には祭主は都に住んでいた。現地にいる斎王と、都にいる伊勢神宮の祭主という対照は興味深い。祭主は12世紀には伊勢に土着するようになり、実質的な支配者となった。伊勢神宮を祀るために斎王が必要だったのではなく、祀るのはあくまでも祭主であったと考えられる。
では斎王はなぜ伊勢神宮に置かれたのか。伝説では、『日本書紀』にあるトヨスキイリビメとヤマトヒメがその元になったとされるが、これは『日本書紀』編纂時の作為と見られる。7世紀前半の理想的な斎王像が彼女らに投影されている。5~6世紀にも伊勢神宮に皇女が使えているが、こちらには「どうもダメな雰囲気が漂っている(p.15)」。具体的に言えば、不祥事を起こして更迭されたり、そもそも不在だったり、3代の天皇にわたって斎王を務めたりしている。要するにこの時代ではまだ制度的に不完全なのである。
斎王が成立する前提となったのは、大王(天皇)の娘が特別な存在とされたことであり、大王の血縁集団の聖性の確立と関わっている。その意味では「伊勢神宮の祭祀は「大王家」の確立と連動して整備が始まったといえないこともない(p.17)」。
そもそも天照大神自体が、壬申の乱後の皇統の確立にあたって天武天皇が「感得」したものであり、「中央集権体制にふさわしい神として創出されたもの(p.41)」である。また天照大神が女性神とされるのは、女性(天皇)に護られていた天武の状況を反映したものである可能性がある。そして天武は自らの娘大来皇女を伊勢に派遣し祀らせた。彼女は天照大神の「グレードをたしかなものにする役割を負った(p.42)」。つまり人工的に創出した天照大神/伊勢神宮の特別感・隔絶感を演出するために派遣されたのが大来皇女だったと著者は考える。この時代には斎王という職名もなく、斎宮寮のような官司もなかったと思われるが、これが実質的な斎王の始まりである。続く持統天皇はおそらくは天武とは異なる伊勢神宮体制を志向し斎王を置かなかったが、この頃に伊勢を完全に支配下においたと考えられる。
天武朝以降の斎王の特徴として、選ばれてすぐに伊勢に向かうわけではないということがある。彼女は一年ほど泊瀬(はつせ)斎宮という仮の宮で過ごした。9世紀には「野宮(ののみや)」と呼ばれた。これは京外の適地がその都度選ばれた。そして9月に数百人を従えて伊勢に下っていった。これを群行(ぐんこう)という。
斎宮寮が本格的に整備されたのは聖武天皇の娘、井上内親王の頃で、『続日本紀』によれば121名の官人が任命されている。斎宮はミニ内裏のようなもので、宗教施設ではなく「皇族の生活維持のために置かれたシステム(p.30)」であろう。
先述のとおり、斎王は年に3回伊勢神宮にお参りしたが、その3回とは9月の神嘗祭と、6月・12月の月次祭であるとされる(『延喜斎宮式』)。そして斎宮の役割は「三節祭の二日目に内宮・外宮の内玉垣御門に入って拝礼して、太玉串を奉ることである。実はこれが何を意味しているかはよくわからない(p.32)」。8世紀には4月と9月に行われる神衣祭(かんみそのまつり)にも参加していた可能性がある。またこのほか、斎宮内で新嘗祭や忌火祭(いんびのまつり)などの神事もあった。面白いのは、元日には斎王は拝まれもした。天皇の拝賀と似たように、斎王は斎宮寮の職員から拝賀され、また3日には伊勢神宮の宮司、禰宜、度会郡の神郡の郡司が斎王を拝賀した(p.185)。
斎宮の財政は国家と独立しており、常陸国から京までの各国が調庸を負担した。国家からの給付を受け取るのではなく独自に徴税機構があったのである。どうしてこのような仕組みで運営されたのか極めて興味深い。条坊制を持つ広大な斎宮が整備されたのは桓武天皇の時代で、520人以上が働き、2、3000人が関係していたとみられる。『大和物語』では斎宮が「竹の都」と呼ばれている。斎宮とは一つの都市だったのである。斎宮頭は伊勢守や介を兼任することもあり、斎宮寮は「伊勢南部地域のもう一つの国府(p.117)」のような存在になった。なお斎宮は淳和天皇の時代に多気郡から(伊勢神宮近傍の)度会郡に移転している。これは斎宮を通じて伊勢神宮の支配を強める政策であった可能性が高い。しかし承和6年(839)に度会の斎宮は消失し、再び多気郡に戻った。ここから「斎宮と伊勢神宮が対立しつつ棲み分けるという平安時代の体制(p.120)」になる。
斎王は任期を終えると(天皇が交代となると)、難波津に下って3か所で禊を行った。そして僧侶によって風誦が行われて数か月してから自邸に戻っていたらしい。往還それぞれに数か月~1年をかけているのが不思議でならない。深い意味があったと思われるが不明である。
本書では、斎王のケーススタディとして7人が取り上げられている。すなわち大来皇女、井上内親王、朝原内親王、徽子内親王、嫥子内親王、良子内親王、媞子内親王である。これらの人物は多くの人にとって「名前を聞いたことがあるかも」という存在であるが、著者はその伝記的事実を詳しく述べている。彼女らはそれぞれドラマチックな生涯を生きており読み物として面白いが、ここでは彼女らの伝記は割愛してポイントのみ述べる。
まず、斎王には非常に幼い頃に任命される場合があった。斎王は独身が務めるものとされており、年少であったのは当然だが例えば井上内親王は5歳、朝原内親王は4歳で斎王に任命されている。なお斎王を務めた後に結婚するのは可能だが、平安期には内親王の結婚相手は少なかったので一生独身だった人が多い。
なぜ斎王は幼少で任命されたのか。それは天皇の即位にともなって選ばれたことが大きいようだ。まだ天皇も若いので、基本的に天皇の娘が務めた斎王は自然と幼少になった。娘(内親王)がいない場合は女王でもよいとされたが、10世紀後半からは女王の方が普通になった。皇女にとって斎王は有り難い役職ではなく、できれば任命を避けたかったため、女王にお鉢が回ってきたということのようだ。「この時代には伊勢斎王になることは一つの悲劇と認識されていたふしもある(p.135)」。
斎王の任命を避けたかったのは、京を離れ伊勢に赴任しなければならなかったことと(賀茂斎王=斎院はそれほど嫌がられてはいなかった)、仏教から隔離されたこと、神への捧げものとしての「聖なる犠牲(p.141)」であると考えられていたことなどが要因であると考えられる。『源氏物語』でも六条御息所の怨霊は斎宮にあって仏教から離れていたので恋の執着から離れられないと告白している。
では斎王は仏教を遠ざけて精進潔斎の生活をしていたのかというとそうでもなく、普段の斎王は「都の姫君とほとんど変わらない装いをしていた(p.96)」。どうも常日頃から神に奉仕するようなものではなく、三節祭を中心とした年に数回の祭の日のみに任務を負ったようだ。あまり働いたようではない。また都を離れて寂しい暮らしをしていたわけでもないようで、斎王の周辺には文化的サロンがあり、また都とのネットワークもそれなりにあったらしい(もちろん斎王によって違いはある)。
そして斎王を務めた女性は、かなり優遇されていた時期がある(それだけ斎王が敬遠されていたということかもしれない)。元斎王という肩書きは貴族社会では重く、たとえ短い間でも(白河天皇の皇女媞子(やすこ)内親王の場合は3歳から9歳の間だけ)斎王を務めることは重要なキャリアと見なされた。媞子内親王は未婚でありながら女院(郁芳門院)となっている。
ところで、元来は皇女が務めた斎王を女王(天皇の孫や姪など)が務めるということになると、父親にとっては娘を斎王として差し出すことが政治的な得点ともなった。本人とその父親にとってのキャリアアップの手段として斎王が捉えられたケースもある。キャリアアップはしなくても、元斎王には天皇から贈られた荘園などによってその後の生活は保証されており、「羽振りがよければかなり安楽で、社会から大事にされる生活も送れた(p.172)」。だが軽視された時代もあり、たとえば藤原実資の妻の妹(恭子女王)は22年間も斎王を務めているが、『小右記』では彼女の記録は全くない。この頃の斎宮はかなり簡素化されていたようで、都の人も斎王に対する関心を失っているように見える。「天皇と摂関、あるいは皇太后との一体性が強まれば、家長的性格は摂政や関白に移り、斎王への期待度は薄まる(p.269)」。
ところが院政期になると再び天皇家は家長権を摂関家から取り戻し、斎王は再び重視された。後白河院が4人の娘を斎王にしている(p.231)のは、自らの権力基盤を確立する一環であったと考えられる。
しかし伊勢神宮でも神仏習合が進んでくると斎王の意義が低下してしまう。さらに伊勢神道がおこると、「神話の組み替えのなかで、斎王はしだいに時代遅れな存在となっていた(p.270)」。斎宮は神仏習合には全く対応していなかった。「鎌倉時代後期、斎宮は神宮からも社会からも、よくわからない存在と化していたらしい(p.271)」。「後嵯峨天皇の皇女ので亀山天皇の時代の愷子内親王を最後に斎王の群行は行われなくなる(p.278)」。むしろこの時代まで群行があったのも驚きだが。
そして治承寿永の乱(源平の合戦)では斎王の任命が中絶した。しかし内乱の直後、7歳の少女(故高倉天皇の娘で後鳥羽天皇の異母姉、潔子(きよこ)内親王)が斎王に任命された。「神仏にすがる気持ちが特に強くなっていた(p.160)」のかもしれない。また「頼朝はかなり本気で斎王制度復活に助力していた(p.161)」。彼は平氏勢力が強い伊勢の地に斎王を通じて影響力を及ぼす目的があったようである。
こうして鎌倉時代には斎王制度は維持されたが、建武の新政が崩壊すると斎王を選んだり派遣したりすることができなくなっていった模様で、14世紀頃には形骸化していった。「当時の権力者会がもはや斎王を不可欠なものとは考えていなかった(p.177)」し、斎王の前提となる天皇の権力が空洞化した結果でもある。
この他、本書には斎王にまつわる多様な話題が盛り込まれているが(面白いのは、斎藤という名字は斎宮に務めた藤原氏に由来するということ)、ここでは割愛する。
終章(第5章)は「斎王とは何だったのだろう」と題されているが、この「何だったのだろう」という書き方にも著者の戸惑いが現れている。著者は本書で詳しく斎王について述べながらも、斎王を「ほとんど何の役に立っていたのかよくわからない存在(p.39)」だと率直に言う。斎王の置かれる理由は律令にはその規定がなく(p.259)、『延喜式』の「祝詞式」では「天皇の在位や寿命が長いことを祈念するため」とし、これは天皇と一対一対応するという斎王の在り方とは一応論理的に接続する。しかしながら、どうして未婚女性が務めるのか、わざわざ伊勢に居住するのはなぜか、といった点はそれだけでは説明できない。
著者は、斎宮、すなわち小さな都・行政庁としての斎宮が置かれたことを重視し、これが天皇家による伊勢神宮の支配のための機関だったと考える。つまり斎宮の造営に画期的な意義があり、「斎王が誰であっても構わな(p.281)」い体制となったと考えるのである。そもそも伊勢神宮は天皇家がその権威を潤色するために創作した存在と考えられるが、政権の思惑を越えて一人歩きし出したので、それを再び政権のコントロール下に置くために設けられたのが斎宮・斎王であるということになる。「9世紀以降の斎王は、天皇ごとに天照大神と再契約したことの象徴としての性格が薄れ、国家を安定させるためにシステマティックに守護神の祭祀を行う存在にシフトチェンジしたと考えられる(p.262)」。
そして斎王にはもう一つの役割があった。それは「天照大神のセンサーのような役割(p.263)」である。斎宮では毎月の晦日に卜庭神(うらにわのかみ)の祭が行われ、斎王の肉体に異変がないか調べる占いが行われていた。斎王が伊勢に居住しなければならなかったのは、このセンサー的役割を果たすためであると著者は考える。
要するに斎王は天皇の身代わりであったようだ。ではなぜ斎王は未婚の女性なのか。巫女的な性格が期待されたのだろうか。あるいは神への捧げものとしての女性だったのか(『今昔物語集』などによれば、神への生け贄としては女性が献げられている)。巫女(みこ)と皇子(みこ)が同じ訓なのもなんだか示唆的だがこれは考えすぎかもしれない。ところで天皇が女性であった場合は「置かれたり置かれなかったりしている(p.195)」。ただしそもそも女性天皇がいた奈良時代には、天皇と斎王との関係は制度的に安定していなかったこともその背景にある。
本書が全く触れていない斎王の謎は、群行であると私は思う。斎王は多くの(しばしば数百人の!)官人を連れて伊勢へ下向したわけだが、なぜ多くの官人は斎王とともに人事異動したのか。天皇の代替わりで大量の官人がいっぺんに人事異動したとは聞いたことがない。そもそも大量の人事異動を行うと仕事がスムーズにいかないのは容易に想像される。にもかかわらず斎宮の場合は斎王とともに多くの官人が伊勢に赴任した。交替するのは斎王だけで、官人は留任するという仕組みの方がずっとスムーズなのにどうしてこんなことが行われたのか。しかも斎宮末期の後嵯峨天皇の時代まで群行が行われていたのだから、何らかの意味があったに違いない。このあたりに斎王・斎宮の意味を解く鍵があるような気がする。また、同じく条坊制を持ち、そこへの赴任が忌避されていた大宰府との類比も考えたくなる。
以上のことから、私なりに斎王・斎宮制度が確立した桓武朝におけるその意義について考えてみると、斎王・斎宮とは伊勢神宮の託宣への対策であったように思われる。
まず、斎王がなぜ未婚皇女が務めたかであるが、これは天皇を裏切る可能性の最も少ない人物であるからではなかろうか。天皇が自分の名代として誰かを伊勢に派遣することを考えると、最も避けたいのはその人物の裏切りによって「○○を天皇にすべし」といった託宣を出されることである。よって皇子は絶対に避けたい。その人物が伊勢神宮の託宣だといって自らを皇緒に就けよと言ってきた場合の政治的混乱は避けがたい。だから皇子および王は論外であり、女性が望ましい。さらに未婚であることも望ましい。結婚していては外戚の力が侮りがたいからだ。これが斎王が未婚皇女(または女王)が務めた理由であろう。女性天皇が一般的であった奈良時代はこの部分がイレギュラーになり、斎王があったりなかったりした可能性がある。
次に避けたいのは、斎王が傀儡化することである。つまり斎宮に務めている官人が伊勢神宮と癒着し、斎王を傀儡にして政権にとって不都合な託宣を出すというのも困る。よって斎宮の幹部を斎王とともに総入れ替えするのが安全である。これが群行ではなかったか。伊勢は大宰府よりは京に近いが、コントロールしきれない程度には遠いと思われる。斎王というアイコンがあり、伊勢神宮の権威を借りれば斎宮は政権にとって十分脅威となる。群行という制度にはこの対策が織り込まれていると考えるのが自然である。
桓武天皇は、2代前の称徳天皇の時代に「宇佐神宮神託事件」で道鏡が天皇になりかけたのを心に刻んでいたはずである。「宇佐神宮神託事件」の舞台となったのが大宰府である。この事件は大宰府の官人が道鏡と癒着して偽の託宣を報告してきたことが発端となっている。同様な事件が伊勢で起こったらどうするのか。それを避けるためには、伊勢神宮から託宣が勝手に出されないように対策しておく必要がある。そこで古い時代にあった斎王制度を修正し、巨大な行政機関を付属させることでよりシステマティックにした仕組みとして斎王・斎宮制度を再構築したと考えられるのである。
実際に、斎王からの託宣の事例がある。 斎王・嫥子内親王が、斎宮頭の藤原相通を弾劾する託宣を暴風雨の中叫んだのである。藤原相通はその地位を利用して受領のように私腹を肥やしていたらしい。そして託宣では祭主の大中臣輔親を斎宮頭に据えるように述べるのである。理路整然とした託宣には作為的なものが多く含まれ、そもそも都にこの託宣を報告しているのが大中臣輔親であることから、藤原相通の横暴に困った嫥子内親王が地位向上を目論む大中臣輔親と結託して神託を演じた可能性が極めて高い。この託宣の結果、藤原相通は罷免され、大中臣輔親が斎宮寮の大別当に任じられるのである。大中臣輔親はその後急死したため斎宮の権限が祭主・大中臣氏に回収されることはなかったが、この事件は斎王と伊勢神宮が結託すれば大きな政治的影響力を行使しうることを示唆している。
この事件は例外であるが、斎王が伊勢神宮の託宣対策であったとすると、託宣の力が無くなっていけば斎王の存在意義がなくなるのは当然である。そういう観点から斎王の歴史を読み解いてもいいかもしれない。
斎王・斎宮の歴史をいろんな側面から辿る良書。
【関連書籍の読書メモ】
『伊勢神宮の成立』田村 圓澄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_17.html
伊勢神宮・天照大神がどのように出来上がったか推測する本。天照大神の成立を『日本書紀』の丁寧な読解で明らかにした堅牢な本。
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