著者のフィリップ・アリエスは、アナール派の歴史家である。彼は熱帯植物の研究所に入り、その後開発途上国向けの技術協力研究所となったその研究所に37年間在籍した技術者であった。アリエスは本業でもそれなりの業績を残したらしいが、自ら「日曜歴史家」を標榜して、本業の傍らで歴史研究に打ち込んだ。代表的な著作として『〈子供〉の誕生―アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』(杉山光信・杉山恵美子 訳)がある。
本書『図説 死の文化史』がいかなる本であるかは、アリエスのもう一つの主著『死を前にした人間』(成瀬駒男 訳)から説明する必要がある。彼は1950年代に図像と文学作品の中で子供がどう表現されてきたかを研究し『〈子供〉の誕生』を執筆した後、弟の死から感じてきた死への尊崇の念について研究することを決意した。彼は遺言書や墓碑銘を収集して、哲学や神学の観点ではなく、テクストに基づいて人々が死をどう表現してきたかに取り組み、1976年に8か月、W・ウィルソン国際学術センターの特別研究員になった時、一気呵成に書き上げたのが『死を前にした人間』である。その方法論は、「均質的資料の量的分析(墓の形態、地形、墓碑銘、奉納額などへの統計的方法の適用)とは対照的なもの、すなわち様々な非均質的資料から集団的感性の無意識の表現を解読する方法(『死を前にした人間』訳者あとがきp.582)」であった。
アリエスは多くの文学作品で、人が死ぬ場面(やそれにまつわる場面)がどう描かれているか、絵画作品でどう死や死体が描かれているか紐解き、ヨーロッパにおいて人が死をどう捉えてきたかまとめたのである。これは原著で650ページ、日本語訳で2段組み580ページもある大著だ。なお、この『死を前にした人間』も手元にあるが、これを読むには私のヨーロッパ文化の前提知識が足りないのでまだ読んでいない(最初だけ読んだ)。ともかくこの著作により、アリエスはヨーロッパにおいて人々の死への感性と葬送儀礼が大きく変化してきたことを、キリスト教の教えをほとんど援用せずに(!)説明した。まさにそれはアナール派の考え方――国家の動きとは無関係に社会は変化していく、という社会と歴史の見方を死について応用したものであり、アナール派の巨頭リュシアン・フェーヴルがいう「心性史」の一つの実践であった。
この大著『死を前にした人間』には一つの図版もなかったのだが(ただし日本語訳には参考として口絵が掲載されている)、アリエスはこの執筆に先立って1940年代から墓・墓碑・教会の納骨堂・芸術作品などの図像を収集しており、『死を前にした人間』を5分の1ほどに圧縮して図像を中心として改めて死の受容や表現についてまとめたのが本書『図説 死の文化史(原題:死を前にした人間のイメージ)』なのである。よって、本書は『死を前にした人間』が前提となっている。ただし本書は単なる図版付きの前著の要約ではない。また、前著で提示した枠組み(「飼いならされた死」「己れの死」「遠くて近い死」「汝の死」「倒立した死」)は、本書ではそのままは受け継がれていない。このように、本書は『死を前にした人間』を図像の歴史によって修正し発展させたものであり、それが完成したのはアリエス自身の死のたった4か月前であった。
私が本書を読んで最も驚かされたのは、ヨーロッパ文化≒キリスト教文化では、死体を写実的に表現したいという観念が、古代から近代にいたるまで強固に持続してきた、ということである。アリエス自身は、そのことを当然と考えて何も指摘していないのだが、日本人の私からするとこれ自体が日本人とヨーロッパ人(といってもアリエスは東欧をほとんど無視しているが)の死に対する大きな違いを象徴していると思う。
日本文化において死が表現されている図像作品というと、例えば中世の『餓鬼草子』があるがこれはかなり例外的なものだし、『一遍上人絵伝』のような作品では死も描かれるがそれはストーリーの構成上控えめに描かれているだけだ。文学作品では、どのように死を迎えたか、辞世の句は、といった死の表現は豊富であるにもかかわらず、図像となると日本の場合は死や死体を直接に描くということは少ない。この日欧の心性の違いは何に起因するのか、極めて興味深い。
「第1章 墓地と教会」では、古代から16世紀あたりまでの墓地が概観される。
本書が対象とするのはキリスト教世界である。ローマ帝国がキリスト教化した頃には、墓地は都市の外の街道筋に設けられていた。墓は都市から遠ざけられ、また貧しい人々は市外の捨て場のようなところに葬られたと考えられる。ところが紀元後2-3世紀頃に都市の中に墓地が出現する。それらは、(日本でいうところの)甕棺墓とか、整然とした地下の納骨堂(ローマのヴィニア・コディーニにある)のようなものだ。一方、4世紀頃には農村に墓地が出現する。畑の中(しばしば小高い場所)に、居住地から離れて集団的な墓地が設けられたのである。これまたアリエスは指摘していないが、すでにこの時期に家族ごとなどではなく、個人の墓がずらずらと並べられていることに日本との大きな違いを感じる。そして石棺の向きが整然と揃えられていることには、深い意味があるに違いない。アリエスはそれを「ひとつの世界イメージをあらわしているようにみえる(p.19)」という。
こうした墓地文化に決定的な影響を与えたのが聖人の存在であった。聖人の墓も当初は市街にあったが、聖人崇拝の高まりの中で聖人の墓が聖地と見なされて参拝されるようになり、そこに教会が建てられていった。元来キリスト教の教会に墓地の機能はなかったが、こうして教会に墓が付属するようになったのである。こうした教会墓地の発掘資料(5-6世紀)を見ると、そこには立派な(ほとんど定型化されていたと思われる、大きさの揃った)石棺がギチギチに並べられていて壮観でさえある。木棺ではなく石棺だったのか、木棺もあったが朽ちてしまったのかは本書からはわからないが、この頃の墓には石棺が本質的に重要だったことが窺える(それは死体を永久保存しようとする試みだったように思われる)。また重要な人物の石棺には入念な彫刻が施されていた。そして10から11世紀ごろには、すべての教会に墓が付属するようになった。日本で寺院に墓地が付属するようになったのはこの少し後だが、同じような歴史をたどっているのが面白い。
こうして教会墓地が都市内に設けられるようになった。具体的には、15-16世紀の墓地は教会に隣接した歩廊で囲まれた広場状の部分で、共同墓穴に遺体が何層にもわたって無秩序に積み重ねられて埋葬されていた。整然と石棺を並べた頃の墓地とは全く違うのだ。ここでは、墓に個人的な要素はなく、教会の敷地に埋葬されることだけが重要で、乱雑に死体が扱われていた。さらに面白いことに、新しい遺体を埋葬するために死体が定期的に掘り起こされ、その骨が納骨堂に乱雑に積み上げられたり、墓地の歩廊の上に芸術的に並べられたり(しかも個人ごとではなく骨の種類ごとにまとめて!)、装飾に使われたりした。 ナポリの納骨堂では整然としゃれこうべが並べられ、ブルターニュの納骨堂では骨が乱雑に投げ込まれていた。捨てることもできないからしょうがなく保管している、という感じである。これが16世紀までのヨーロッパの墓地であった。
「第2章 墓碑」では、再びアッピア街道の時代までさかのぼって墓碑が概観される。
整然とした石棺の墓地が設けられていたころ、墓碑も盛んに作られた。そうした墓碑は故人が何者であるか述べるとともに、しばしば故人の肖像があしらわれていた。個人のアイデンティティが重視されていたことは墓碑から見ても明らかだ。石棺にも碑文が刻まれていたり、または石棺が空の墓碑として使われたりすることもあった。後者はどういうことかというと、石棺が二段重ねになっていて、遺体が入っている下の段は埋められて見ることができないが、そのすぐ上の地上に空の石棺(つまりダミーの石棺)が乗せられて、ときに装飾が施されていた。これはあまり多くなかったものの、石棺が持つ意味を象徴する特異な事例である。つまり、石棺は元来は見えていることが重要だった。おそらく死体の存在を主張するためにだ。日本の中世ならば墓塔や供養塔が果たしている役割を、石棺が担っているのである。
ところが先述の通り、5世紀頃から墓から個人要素が希薄になると墓碑はなくなり、約5世紀にわたって姿を消した(!)。「これはまったく、とてつもない現象です(p.55)」。代わりに現れるのは十字架である。石棺の使用はいくつかの場所では13世紀まで続いたが、それらの石棺にも装飾や碑文はなく、教会の中にありさえすればよいという調子で、誰の石棺ともわからない状態となっていった。
この状況が変わったのは11世紀頃で、墓碑銘と似姿が造られるようになった。フランスの修道院長イザルズの墓碑は、長い碑文と故人が横臥している像が組み合わさったもので、これは後に広く製作された横臥像の初期の作例である。さらに13世紀末の教会参事会員エメリックの小さな墓碑は、その後の墓にかかわる図像の全てが詰め込まれている。それは、①死者の戸籍情報、②横臥像(死んでいるのか寝ているのかはともかくとして横たわった像)、③天使が魂を天上へ連れていく様子、④中心にいる父なる神(審判)、⑤祈禱像(故人が祈っている姿)で構成される(※)。11世紀頃、ただ教会に埋葬されればよく墓は匿名的なものだという意識から、故人の魂を昇天させ、それを長く記録に留めたいという意識に変わっていったようなのだ。そして墓碑は、「銘文つき墓碑」「横臥像の墓碑」「祈禱像の墓碑」の三系列によって構成されるようになった。これらの形態が普及したのは16世紀頃のようだ。普及に500年もかかっているのも面白い。
※アリエスはこの他に「⑥終末論的な要素」があるというが、私にはそれが具体的に何なのかわからなかった。
なお留意すべきことに、墓碑と墓(埋葬の位置)は必ずしも一致しなかった。墓碑はしばしば教会の内壁や外壁に据えられたが、埋葬は地下墓地であったりし、人々は死体の場所には無頓着であることが多かったように見える。また墓碑銘は最初は「修道士〇〇ここに横たわれり」といった簡素なものであったが、やがて長文になっていった。
「横臥像の墓碑」は、寝そべった姿の故人の彫像を墓碑とするものである。これは死んでいるのでも寝ているのでもなく、当初は明らかに立像が横倒しになったものであった(なぜ横倒しにしたのかは不詳)。なので横臥像ではなく立像の墓碑もある。本書に掲載されている13世紀から15世紀の横臥像の墓碑は、等身大で作られたとみられる大理石の立派な彫像で、かなり高位の人物であることは間違いないが、王族だらけとも限らず、騎士や宗教者でも作られている。また横臥像はしばしば石棺(や石棺に擬えられた石の台座)の上に表現されたが、例によってそこに死体が収納されていたわけではなかった。
さらに、アリエスは当然のこととして指摘していないが、この芸術作品のような横臥像には、しばしば作者の名前が刻まれているのに驚かされる。フィレンツェで1453年に死去したカルロ・マルスッピーニという人の横臥像の墓碑は、デジデリオ・ダ・セッティニャーノという人の「作品」である。この墓碑は、華麗な装飾が施された石棺を模した台座に、目をつぶった故人が横たわっており、墓碑ではなく芸術作品であると言われてもおかしくないものだ。日本でも、華麗な装飾を施した石塔の墓碑はあるが、これに石工の名が刻まれることは(絶対にないとはいわないが基本的に)なかった。墓碑の製作は彫刻家にとって「作品」を作るのと同様の仕事だったということになる。これも日欧の大きな違いであろう。
また、このマルスッピーニの横臥像は、明らかに立像ではなく横臥した彫像であり、さらには死んだ姿であると思われる。先述のとおり横臥像は最初は横倒しになった立像であったのだが、これがいつのまにか寝姿の像になり、死んだ姿を記録するもののようになっていった。ただし、これは死そのものを記録するというよりは、天に召された「至福者」の像であったというのがアリエスの考えだ(生きている時はまだ天に行っていないのだ)。
しかし15世紀以降、個人の死骸の表現は写実の度を増していった。1525年の傭兵隊長グイダレㇽロ・グイダレㇽリの横臥像は、恐ろしく写実的で完成度が高い。彼は明らかに昇天の至福に満ちているのではなく、死の苦痛に眉を顰めている。それにしても、非常な高位ではない人物が、高い完成度の芸術作品のような横臥像を製作されているのは、ルネサンス期の繁栄を考えても驚かされる。
ちなみに横臥像の墓碑は男性から興ったが、女性にも作られるようになり(それも読書する姿で!祈祷書なのだろう)、夫婦そろった横臥像墓碑も作られるようになった。それにしても16世紀の横臥像墓碑は、とんでもなく芸術的であり、技巧的だ。これらは教会から移動されることがないから日本人の目に触れることはほとんどないが、ヨーロッパの彫像史の重要な潮流になっているのは間違いない。
次に祈祷像とは、故人の立像が横臥している姿で祈りの体制をとっている像から始まり、横臥像とそれほどはっきりとは区別できなかったが、教会の壁面に据えられることが多かったという点に違いがあったのと、これは写実的な表現よりも、聖書のストーリーによって墓碑を(しばしば過剰に)装飾するという方向へ向かっていった。16世紀フランスの、城館の礼拝堂にある墓碑では、像の台座に「ラザロの蘇生」の場面が入念に浮き彫りされている。故人の記録や顕彰より、聖書物語の場面の方が中心になっているのである。ブルゴス大聖堂にある1536年の副司教ペドロ・デ・ビリェハスの墓碑は驚異的だ。大聖堂の壁に据えられた祈祷像の上方に、受胎告知からの場面が途方もない規模で彫刻され、その頂点には父なる神が据えられている。まるでロダンの「地獄の門」を髣髴とさせる壮大な墓碑なのだ。もはや墓碑は墓碑であることを超えて、天上の世界への入り口のような扱いになっている。
つまり、横臥像の系譜と祈禱像の系譜は、同じように横たわる人物という基本的デザインから出発したが、一方は死体の表現へと向かい、一方は昇天する魂の行き先(天国)の描写を含むより多様な表現を包摂する方へと向かった。そして横臥像の系譜は16世紀に途絶え、祈禱像の系譜が貧しい人の墓にも展開するようになるのである。そして、もはや祈禱像は横臥せず、合掌した祈りの姿勢をとって、昇天することをひたすら祈るようになった。17世紀のヴィルロワ大公廟には、一族が合掌して跪いている(おそらく等身大の)写実的な大理石彫刻がずらずら並んでいる。死してなお祈り続けているのである。
そして、もはやこの祈禱像は、墓碑であるというより、はっきりと故人の肖像を志向していた。そもそもそこに死体が埋葬されていなかったことは言うまでもない。であれば、それは墓碑であるよりも故人を記録し顕彰するための肖像彫刻であると考えるべきだ。そのため、彫刻家は、故人が生きている時に製作を準備したが、それができなかった場合、死後まもなく石膏で型を取って(→デスマスク)、それを元に彫刻がつくられた。こういう流れから、墓碑は死の瞬間の故人を固定するようなものになっていくのである。14世紀にはすでにそうした「作品」が散見される。つまり「死面」(死んだときの顔だけの彫刻作品)とか死者の胸像のようなものが造られたのである。これまた、日本的感覚からするとちょっと異様な墓碑の形態だ。生前の姿の肖像ではなく、死体の肖像が写実的に表現されるようになったのである。ただし先述の通り、本来は生きている間に肖像を準備するのが望ましかったので、墓碑は生前の姿と死体の姿という二系統が存在していた。だが生前の姿の系統の方は、(墓碑ではない)単なる肖像彫刻と区別がつかなくなり、やがて溶解していったように見える。ヴェネツィアのサンタ・マリア・ゾベニーゴ・オ・デル・ジーリオ教会の正面には、17世紀のバルバロ家の一族の生き生きとした彫刻が並んでいるが、これは墓碑であるという性格が希薄になっている。そしてこの17世紀の大きな像からなる墓碑は、横臥像から始まり祈禱像まで続いてきた一連の動きに終止符を打つものであった。
なお、一般の墓碑の大多数が、こうした高度な芸術性を持つものでなかったのはいうまでもない。大多数は平面の石板に銘文を刻む墓碑銘という形式を好み、そこには図像があしらわれることも多かったが、やはり浮彫りの費用がかさばったためか、大多数は文章の方が中心であった。そこには面白いことに、「教会には〇〇を遺贈し、その引き換えに永続的な回向を依頼する」というような契約の文面が広く見られた。しかもそこには、故人とその相続人と同資格で、公証人の名前が刻まれているのである! 故人は教会との契約に基づいて確かに天国へ召されたという証明書のごときものとして墓碑銘が刻まれたということになる。逆に言えば、それがなければ人々は天国に行けないものと観念していたのかもしれない。
「第3章 家から墓まで」では、人が死ぬときはどんな状況で、死んでからどう埋葬されたのかを絵画資料を基に述べている。ここでは、古代の資料はなく、中世(11世紀頃)から始まっており、ほとんどは14世紀以降だ。
14世紀、人が死ぬときには大勢の人が集まって、最後の罪の許しを請う儀式を行った。これは死にゆく人に長いロウソクを持たせて行うものらしい(後には、参列者の方が長いロウソクを持つように変わったようだ)。修道僧や高位聖職者の場合は、今わの際に教会に運ばれ、最後の聖餐と終油を受け、息を引き取った後に「最後の祈禱」を受けた。ともかく、人が死ぬときには聖職者が呼ばれ、告解とか聖体拝領とか、さまざまな儀式が行われたのである。そしてその場には聖職者だけでなく大勢の人が集まっていた。これまた驚くべきことに、この臨終の場面は画題として好まれ、芸術作品には様々な人の入滅の場面が描かれた。またこうした臨終の場面でなくても、死の間際はよく画題となった。有名なところでは、『ソクラテスの死』(ダヴィッド)、『聖母の死』(カラヴァッジォ)などが想起できる。これも日欧の違いを感じさせる事象だ。
そしてそれらの作品を見てみると、19世紀には司祭が描かれなくなっていることが注意される。「キリスト教的な死の荘厳な儀礼は、迷信的なものだと見なされ(p.164)」るようになったらしい。そして参列者の数も減っている。かつては大勢が死に立ち会ったが、もっとも近親で悲嘆にくれる親族のみに限定されるべきものとなっていった。アリエスはこれを「死の死化(p.165)」という。しかしながら、高貴な人から貧しい人まで、臨終の場面が大量に描かれたことを考えると(それにしても、貧民窟で死ぬ母親がどうして画題になったのか理解に苦しむ。誰がどこにその絵を飾ったのだろう⁉)、死が秘匿すべきものでなかったことだけは確かだ。
次に人が死んだ後について述べる。ここは時代が行ったり来たりしてわかりにくい。まず中世では、遺体は裸にされて屍衣という布によってくるまれ石棺に安置された。中世では屍衣をぴったりと縫い合わせて死体を覆っていた(顔も見えない)。13世紀頃に、死体が目に見えるのはよくないことだという風潮になったためらしい。また中世の半ばには木の棺が普及する(アリエスは強調していないが、これは大きな変化だ)。それでも屍衣の習慣は変わらなかった。ただし南ヨーロッパでは頭部だけは見えるようにされた。
遺体の葬送は、中世の初期ではかなり簡素だったらしく、それを描いたものは残っていない。聖職者とか高位の者が死んだ場合も特段の葬送行列はなかったらしい。一方で、埋葬には意味が付与されており、13世紀の墓にはしばしば副葬品が伴っている。盃や壺、水差しといったものが副葬品として出土しているが(何が入っていたのか不明)、不思議なことにこうしたものを埋葬することについて同時代の記録がない。おそらく知的エリートにとって不合理な習俗だったのであろう。なお、先に「人々は死体の場所には無頓着であることが多かった」と書いたが、それは全ヨーロッパ的な現象ではなかったようだ。
中世半ば以降には、徐々に葬送行列が儀礼化する。また都市においては、敬虔な俗信徒たちの団体(信心会とか兄弟団などと呼ばれる)は貧者たちを葬送する手伝いをしていたらしい。14~15世紀には大勢での葬送行列がありうべきものとして観念されていた。
そして徐々に、(少なくとも高位の人の場合は)死体は人々に示されるべきだと考えられるようになり、防腐処理が施されたり(内臓が腐りやすいので取り出すなど)、遺体の代わりの蝋人形のようなものが代わりに葬送行列で見せられたりした。こういう代理の像は言うまでもなく本人に似ている必要があったから、デス・マスクが取られるようになった。また中世末頃からは、葬送行列は土葬の前に教会の内部へゆくようになった。聖壇でミサをあげるためである。臨終の儀礼や埋葬の意義が退潮して、死後のミサの方が大事になっていったのである。
こうした変化に基づいて、16~18世紀では、死体の安置は(貴族を別にすれば)家の門口や通りにおいてなされていた。そして19世紀には全く新しい死の文化が登場することになる。
「第4章 あの世」では、あの世や死者の世界が中世以降にどう表現されてきたかを墓碑や芸術作品に基づいて述べている。
古代(カロリング朝)の人々は、死者の魂は天使に連れられて天国へ行く、とシンプルに考えていた。ところが中世になると、死者は天国へ行くのではなく、一種の待機場所に置かれ、キリストが解放してくれるのを待つと考えられるようになった。すなわち、死者の魂は「最後の審判」を受けるまで待機するというわけだ。「最後の審判」という観念は壮大に表現された(1335年ポルトガルのイネス・デ・カストロの墓碑を見よ!)。復活した死者は一人ひとりが人生の決算表を持って裁きを受け、悪しき行いをした人間は地獄に落ちることとなった。地獄はビザンツの宗教画ではつつましやかなものだったが、13-16世紀には厖大で雑多な世界へと発展する。
なお、待機場所の観念は14世紀に神学者たちによって否定され、死者の魂は直接に天国や地獄に行くように考えられるようになったらしい。ただし、待機場所の観念は公式には否定された後も長く影響を持ち続けた(後述)。16世紀には「最後の審判」は墓碑からは姿を消し、地獄がしばしば表現された。墓碑に地獄を表現するとはいったいいかなる心象なのか不思議だ。
15世紀に流行した『往生の術』という小さな印刷本には、人が死に直面した時に、誘惑するために、あるいはそれを妨害するためにいろんな存在が取り囲む様子をありありと表現されており興味深い。そして死は生の終わりというより、一種の救済でもあった。最後の審判ではなく、死の瞬間に全生涯が清算され、それが神によって認められるというのが『往生の術』の死生観なのだ。
同じ時代、「主流とはいえない(p.240)」が、全く別の死の潮流があった。それは「マカーブル(おぞましい)」(死)と呼ばれており、その主人公は「トランジ」すなわち腐乱しつつある死体である。アラス(フランス)の旧サン=ヴァースト修道院にある15世紀の横臥像は衝撃的だ。骨と皮ばかりになって、体中に蛆が湧いているのだ。このような横臥像がなぜ製作されたのか理解に苦しむ。一体、この横臥像で表された人物はいかなる考えでこのようなおぞましい像で表現されたのだろう。ともかく、この潮流では、死は思い切りおぞましく表現され、絵画には死神がおどろおどろしく死体を取り囲んだ。この潮流は、14-15世紀のペスト禍が生み出したものと解釈されている。
少し時代が遡るが、11−12世紀にあの世観に大きな変化があった。それは煉獄の発見である。煉獄とは、地獄に落ちることはまぬかれるが、一定の罰を受けてから救済されるという場所である。これは先述の「待機場所」に取って替った。煉獄のイメージは長いこと表されなかったが(地獄っぽかったり天国っぽかったりして固定的イメージがなかった)、17世紀以降に爆発的に表現された。煉獄は、あの世ではあるが未だ天国や地獄には行っていないという意味で現世に近い。故人が煉獄にいるという観念によって、故人の魂をより身近に感じられたようだ。故人は、アイデンティティ(=精神や肉体)を保持したまま、いまだに存在し続けていると考えられたのだ。なお、煉獄はキリスト教の教義にはうまくはまらなかったのだが、民衆側が主体となってその観念が成長した。
本書には詳らかでないが、17世紀には横臥像にしろ往生術にしろ、あるいはトランジにしろ、死の表現は下火になったように見受けられる。それは、カトリックとプロテスタントの抗争が影響しているのかもしれないがよくわからない。ともかく、18世紀になるとそれまでの伝統的な死者の表現は影を潜め、ふたたび屍衣のヴェールに包まれた立像として表されるようになった。そして18-19世紀は死にまつわる豊かなイメージは姿を消し、不信仰を咎める教会プロパガンダ(壮大ではあるが個人的・個性的な要素が希薄でひたすらに教会への服従を喧伝する作品)が大量に表現されるようになった。
このような中、19世紀にあの世は「愛しあっていた者どうしが再会できる場だ(p.263)」という新しい観念が登場する。19世紀といえば、幽霊との交信術がまことしやかに研究されたが、人々は死者と再会することを求めていたのである。
「第5章 すべては空なり」では、16世紀から始まる死を芸術に表現する潮流について概観される。
それは「暴力と恐怖とセックスと(p.272)」が、生と死を媒介として混じりあったものである。この潮流では、おどろおどろしいトランジは、乾いた骸骨になって戯画化される。トランジは個別的死者であったが、この骸骨は抽象的な「死」を表すアイコンになっているように見受けられる。そして死神は骸骨によって表徴された。また若い娘と死(骸骨やトランジ)がエロティックに絡み合う絵画が制作されるようになった。若い娘の死が画題になるのはわかるとして、その陰部に手を伸ばすのが骸骨であるというのは今日的感性からすると全く腑に落ちない。
また死体や骸骨は、解剖学的な興味のまなざしを向けられるようになった。解剖の様子は画題となり、解剖標本も芸術作品のように扱われた。もしかしたら、学問的な興味にかこつけて、実はエロティックな興味が先行していたのかもしれない。ともかく、解剖学的に正確で戯画化された骸骨はいわば「市民権」を得て、多くの芸術に登場した。「死を想え(メメント・モリ)」だけではその現象は説明できない。
17世紀後半、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会に設置された彫刻家ジョヴァンニ・バッティスタ・ジスレーニの墓碑は、上部に本人の肖像があるのに、下の方に骸骨になった本人の彫刻が安置されている。何のための骸骨なのだろうか。18世紀前半、ルクセンブルクの教会に納められた葬礼メダルでは、骸骨になった夫婦が抱き合った姿が表現されている。なぜ二人は骸骨で表現されなければならなかったのかこれまた不明だが、この作例からは骸骨の表現が広く受け入れられていたことが如実に窺える。
さらに骸骨は、天使のように羽を生やし、故人の魂を天に連れて行く表現もされるようになった。羽を生やした骸骨がキリスト教の教理の中でどう理解されたのか極めて興味深い。このように、骸骨が活躍する一方で、同時にあの世観は地殻変動を起こしつつあった。それを象徴するのが、1709年のローマの墓碑だ。それは夫婦の墓碑で、夫の彫像の下には「虚無(ニヒル)」と、妻の彫像の下には「闇(ウンブラ)」とだけ刻まれているのだ。もはや確固たる信仰は退潮していた。日常的なものの中に骸骨が置かれた静物画は、「空虚」なるジャンル名を以って呼ばれる。死はいつもそばにある無で、生ははかないのだ。
また骸骨そのもの(かつて教会の納骨堂に放り込まれていたもの)やミイラが、展示されるようになった。ローマのサンタ・マリア・デㇽラ・コンチェツィオーネ教会の地下礼拝堂(カプチン会のもの)は、18世紀におびただしい骸骨で装飾が施されている。特にイタリアではこのような顕示が長い間続いていたらしい。
これまでは骸骨の系譜であったが、再び16世紀に戻って別の系譜について述べる。それは、人の死体を写実的に表現するものである。第2章では写実的な死体が表現された墓碑を見たが、16世紀には絵画でも死体が好んで描かれた。故人を表現するにしても、生き生きとした姿ではなくなぜ死んだ姿を描くのか、不思議だ。特に17世紀の『死んだ子供』という絵画など、「どうせなら楽しく笑った子供のを絵を描いてもらったらよかったのに」と思ってしまう。アリエスはこうした作品を「家の室内にかけられるためのものだったにちがいありません(p.318)」というが、誰が好き好んで死体の絵を掛けたのかと思う。
17世紀には死体の写実性はさらに進み、絵画の中ではリアルな死が劇的に表現された。ルーベンスの『墓に納められる聖ステパノ』などはその際立った例である。19世紀には、死はもはや官能的に表現されている。これは日本で切腹が美化されているのと似たような部分がある。こうした動向を総括して、アリエスは「わたしたちの文化には16-17世紀の前後で、驚くほどの差異があることに、目を奪われます(p.331)」としているが、私にはその差異が明確にはわからなかった。ただ、やみくもに昇天を願うとか地獄を怖れるとかではなく、好奇のまなざしが「死」に注がれ、死にロマンが付与されるようになったようには感じられる。
「第6章 墓地の回帰」では、18世紀末から登場した新しい墓地のモデルについて述べている。
第1章では教会付属の墓地が述べられたが、一方で野外墓地もなかったわけではない。野外墓地で重要なアイコンになったのが十字架である。墓に十字架を立てるのは意外と古くメロヴィング朝からと考えられる(仮説としている)。そうした墓地では、墓石の上部に丸い枠の中に表現された十字架が刻まれていた。十字架に終末論的要素を付与するのは、元来のキリスト教の教義にはなく、「たぶん、キリスト教圏の神経中枢にあたる部分ではなく、孤立した、あるいは周辺的な地域(p.338)」に墓に十字架をあしらう習慣が続けられたと考えられる。
しかし墓石に十字架のみをあしらうことだけでは人々は満足せず、16世紀頃からは徐々に故人の個性を墓石に反映させるようになった。墓石自体が十字架型に加工されて、その内部に職人の道具が刻まれている、というような調子である。そして18世紀頃になると、農民や職人など、これまで個別的な墓を持てなかった人々が墓を建立するようになり、個性的でエネルギッシュな墓石が創作されるようになった。そして「墓碑が個人別で目に見えるようなものになっていったとき、それは十字架とはちがった形を、むしろ採ってゆきます。すなわち、頂点の部分が丸くなった長方形の墓標、という形(p.346)」になった。第2章で見た墓碑は全部が教会内部に設置されたものだったが、ここでは野外に設置される墓標に墓碑があしらわれるようになったことを述べている。墓標という小さな壁面に、十字架や、故人の立像や、故人の商売道具など様々なものが素朴に表現された。それらから感じるのは、「自分らしい墓石をつくりたい」という自己確認の欲求である。
そして18世紀に、水平状の墓石が現れる。さらに19世紀前半に「それまでは別々だった三つの要素(十字架、垂直に立った墓標、水平状の墓石)が接合され、(中略)一般的な型の墓がひとつのものとして形成された(p.354)」。先述のようにヨーロッパでは長く、墓碑の場所と遺体の埋葬場所は違ったが、この墓地では、遺体の場所を正確に表示するのが墓石の役割となり、埋葬場所を覆うために水平状の墓石が採用されたのである。これは野外墓地の場合であるが、教会に埋葬される場合も遺体は匿名的なものでなくなり、バラバラに遺骨を投げ込むようなやり方はもはやされなかった。遺骨は個人ごとに分けられて管理された。南欧では、「たんすの引き出しのような納棺用の蜂の巣状の小穴(p.361)」の教会墓地(納骨堂)が設けられることとなった。いわば墓地のマンションである。
そうでもしなくては個人の遺体を埋葬するには土地が足りなかったので、やがて墓地は郊外の風光明媚な場所に公園のように作られるようになった。それは、伝統的な宗教の墓地の在り方からは全く導き出せないものである。そして「生き残った人たちは、死によって引き離された人たちの墓を定期的に訪れるという、かつてはなかった習慣を、身につけ(p.367)」た。いうまでもなくキリスト教では年忌法要がないから墓参の習慣はこれまでなかったのである。なおこうした墓地は、ほどなく墓で埋め尽くされてしまい、また都市の膨張によって市街地へ吸収された。
「第7章 他者の死」では、19世紀以降の死生観が述べられる。
前章で述べたように、19世紀には墓は大激変を迎えた。そこには死生観の変化をも伴っていた。1815年にアメリカの女の子が学年末の実習課題で作った壁掛けの詩集は、それを象徴的に示している。それは「ABC…」と文字を刺繍する練習課題なのだが、そこに亡くなった兄弟の墓誌情報まで刺繍されているのだ。さらに、その時にはまだ死んでいなかった兄弟については、後に追加で刺繍された。現代人には「そんなことは子供むきのテーマではない(p.373)」と思うが、子供が練習課題で作ってしまうくらい、当時は普及したものであった。死者を記録し、追悼することは「残された者のつとめ」として受け取られた。
こうして現代まで続く「服喪の拡大」「想い出の崇拝」「墓地通いや墓参り」という死の習俗が出来上がった。アリエスはそう言っていないが、死は準備すべきものであるという観念が発達し、その手続きに沿って処理することに人々は美徳を見出していたように思われる。さらにその観念には、意外と信心・信仰が影響していないようなのも注目される。
そして死者との想い出を記録する、肖像や墓参の様子をあしらった小物(ペンダントとかブローチ)が誂えられ、さらに死後の肖像も盛んに描かれた。これは、第2章で見た死者の横臥像のリバイバルである。死産によって死後硬直した母子と悲嘆にくれる親族を描いた19世紀アメリカの絵は、死の想い出という観念の要諦を饒舌に物語っている。現代日本では、「こんなものをどこに飾るというのか」となりそうな画題が、当時は人気があった。19世紀末に写真が登場すると、死んだ子供の写真を(晴れ着を着せて)撮ることが人気となった。子供との楽しい想い出を記録するならばわかるが、死んだ子供の写真であるのがポイントだ。美化された想い出よりも、おどろおどろしくてもリアルな死に顔を記録することに意味があった。そもそも16世紀以前には子供の墓はなかったが、19世紀以後には子供の墓が一般的になったのも大きな変化だった。
もちろん写真や絵画だけでなく、上級の人々は手の込んだ彫刻を作った。それはさすがに死に姿ばかりでなかったが、死んだ子供を彫刻で表現することは愛情の表現でもあったに違いない。「19世紀の新しい墓地に立てられた墓は、悲愴感と想像力とにおいて、その先行者である17世紀バロックのものをしのいで(p.388)」いる。そしてこうした墓地での肖像彫刻は、やがて家族全員が表現されるようになった(犬まで含め!)。まったく集合写真のような墓碑彫刻が出来上がったのだ。もっとも、死んだ時の姿をリアルに記録する潮流はそれとは別に続いた。この二つの潮流が組み合わさって、死体と、それに寄り添う遺族をドラマチックに表現した墓碑もある。ジェノヴァの墓地にある1879年のラファエル・ピエノーヴィの墓碑彫刻はその驚異的な例だ。この彫刻では、若い女性が、ベッドに横たわる死んだ夫に語りかけている。二人の愛は、この墓碑によって永遠に記録されたのである。「19世紀の墓地は、いわば家族愛の博物館です(p.394)」。19世紀の人々は、故人がいかに家族から愛されていたかを劇的な表現で記録したがった。
もちろん、庶民の場合はそんなコストをかけられなかったが、墓石にレリーフをあしらうなどして家族愛を天真爛漫に表現した。それすらもできなかった人々は、集合写真で故人との想い出を記録した。写真は、一種の墓碑として扱われた。
「第8章 そしていま」では、現代の死が扱われる。現代では、死は見せびらかすものではなくなり、家の私的な空間、あるいは病院でひっそりと処理される。もはや死は神との関係ではなく、単なる生の終わりであり、豊穣な(というよりも過剰な⁉)象徴性はそぎ落とされ、原初的なものへと回帰しているのかもしれない。
***
本書は全体として、時代が行ったり来たりし、ヨーロッパの死の文化を一緒くたにしてまとめているので、文章は平易ではあるものの、なかなかわかりづらい。死の文化は、イタリアやスペインなどの南欧とフランス・ドイツ・イギリスにはやや差異があるようなので、2本立てにして語った方がわかりやすかったように思う。またテーマごとに語っているのは理解はしやすいが、テーマの内部でも編年的ではない記述となっているのがややこしい。要するにアリエスの筆はあっちに行ったりこっちに行ったりする。また、ヨーロッパの死の文化について疎い私には判断ができないのだが、なんとなく「つまみ食い」的な部分があるようにも感じる(本書は400ページ以上もある大著であるから「つまみ食い」というのは失礼だが)。
というような不備があるものの、本書はヨーロッパの死の文化を語る上で画期的なものであると私は思う。おそらく、本書に書かれていることの多くはヨーロッパでは常識的なことなのだろう。ところがそれを総合し、文化史として結実させたことに大きな意義を感じる。
また私は日本の死の文化に大きな関心を寄せているが、日欧の比較を行う上で本書は啓発的な価値が大きい。冒頭にも述べたが、ヨーロッパでは死を写実的に表現しようという流れがずっと続いていた。日本では死そのものを観念的に美化する方向へ向かったが、ヨーロッパでは死は肉体的でありおどろおどろしく表現された。特に鋭い違いを見せるのは、ヨーロッパではリアルな死体が好んで表現(彫刻・絵画・写真)されたということである。
では、なぜ死体はリアルに記録されたのか。実はアリエスは、「どうしてこうなったか」について本書ではごく簡潔にしか書いていない。しかもそれは象徴的な理由に留まり、その考察は埒外に置かれている。もしかしたらそれは前著『死を前にした人間』で展開されている可能性はあるが、どうやらそうではなく、意図的にそういう考察を排除している感じがする。少なくとも、本書ではキリスト教の教理の変遷についてほとんど説明していない。アリエスは、死に対する感性は、キリスト教がどう教えたかとは無関係に変遷したと考えているようだ。考察はともかくとして、死の文化がどうであったかを総合することに注力されているのが本書なのだ。
ところで、本書を読みながら日欧の違いを面白く感じた一方で、そこには巨大な共通性が横たわっていることも指摘せざるを得ない。それは、ヨーロッパ文化は一見キリスト教に支配されているように見えるが、実際のところ庶民はそこまで思想的に統制されていなかったことを示唆している。要するに庶民は、自分たちが自然と思える方法で死に向き合った。そしてそれは日欧でそれほどの違いはなかったのだ。庶民がつくった素朴でしかも個性的な墓は、そういう共通の心情をはっきりと伝えている。そこにキリスト教も仏教も関係ない。故人の魂を天国(や浄土)へ向かわせ、故人の戸籍情報を記録し、埋葬した場所を大切にするという心情は不変なのだ。
ヨーロッパの死の文化を図像によって総合的に述べた労作であり名著。
★Amazonリンク
https://amzn.to/4p499WQ

0 件のコメント:
コメントを投稿