2019年7月2日火曜日

『中世島津氏研究の最前線』新名 一仁 編

中世島津氏研究に関する書き下ろし論文集。

本書は12本の書き下ろし論文によって構成されており、中世の島津氏について多角的に検討していくものである。

「第一部 島津氏の系譜と分国内の諸勢力」では、島津氏の発祥から織豊政権期までの政治的な動きが述べられる。島津氏は南九州において必ずしも軍事的には圧倒的ではなかったが、薩隅日の守護職をほぼ世襲化して「三州太守」は島津氏のアイデンティティとなり、同地を長く治めることとなった。これは、武力によるのと同じくらい、島津氏が政治的にうまく立ち回ったということに起因するのである。第一部では、島津氏を動かした政治力学についてトピック的に分析している。

「第二部 島津氏の外交政策」では、室町幕府や明との関係、琉球との交易について述べられる。島津氏はこうした外部との関係を自らの正統性を確立するためにも利用した。島津氏は近衛家を権威付けに使ったし、明に対しては独自に朝貢関係を持とうとした(成功はしなかったが草の根レベルで交易は行われた)。琉球に対しては、はじめ臣下として近づいたが両国内が安定すると強硬的な態度で臨むようになり、これは琉球出兵へと繋がっていく。

「第三部 島津氏権力の領国支配の特質」では、海上交通、宗教政策、城郭構造について述べられる。ここに紹介される浦役人の経歴は非常に動的であって、中世の港湾管理のイメージを一変させるものである。港湾管理の具体的な部分については立ち入った記述はないが、興味を抱いた。また、宗教政策については、島津氏と修験道との繋がりが要領よくまとめられており参考になる。

「第四部 近世大名島津氏への移行期」では、島津氏とって画期となった豊臣政権下での動向と、近世家譜編纂前の島津氏の歴史編纂が述べられる。島津氏には半独立の一族や家臣が多く存在し、それらを掌握しきれなかったのが課題であったが、それを島津氏一極集中の権力構造に収斂させたのは皮肉なことに島津氏にとっての危機でもあった豊臣政権であった。朝鮮出兵や太閤検地は島津氏の力を殺ぐことになった一方で、島津氏が豊臣秀吉から南九州の支配者として認められたことは、結果的に家臣団をまとめることに繋がったのである。

また本書中、簡単にしか書いていないが気になったことに次のようなことがある。
  • 島津忠良・貴久親子(相州家)が奥州家からクーデターによって簒奪した経緯のうち、「島津貴久は、奥州家菩提寺である福昌寺の所領を安堵し、同寺から”三州太守“と認定されている(p.45)」と述べられているが、これは福昌寺がクーデタを成功させる装置として機能したということなのだろうか。
  • 「珠全から珠玄・珠長と続く高城氏の家系は(中略)連歌に携わり、戦国期島津氏領国における文芸の展開に重要な役割を果たした(p.96)」という珠全法師とは何者か。また南九州において連歌、俳諧はどのように展開したか。
  • 島津氏久は派遣した遣明船に、志布志大慈寺から高僧十人を乗船させ、中国版大蔵経を2部獲得させた(p.104)のだが、なぜ大蔵経を手に入れようとしたのか。
  • 南九州には倭寇による被虜人(捉えられて連れてこられた人)がかなりいたようだが(p.107)、なぜ倭寇はわざわざ捕虜を捕まえて来たのか。こうした人はどのような待遇で過ごしていたのか。
  • 島津忠国が琉球を加封されたという「嘉吉附庸」説は史実ではない(p.120)とあったが、なぜこのような言説が生まれたのか。
  • 豊臣政権期、島津氏に畿内の情報をもたらしていたのが京都の「道正庵」であるということだが(p.209)、「道正庵」とは一体どのような存在なのだろうか。
その構成上、体系的に中世島津氏のことを理解できるわけではないが、様々な角度から島津氏の実態に切り込んでおり、関心の端緒がいろいろと出てくる楽しい本。


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