説明不要の随筆の集成「日本の名随筆」より、「狂」にまつわる27編。
狂気や精神病、偏執症といったものに関する随筆が多い。というより、そうでないものは、西垣 脩「風狂の先達——増賀上人について」と石川 淳「狂歌百鬼夜狂」の2編のみである。
なかでも、印象深かったのは島尾敏雄「妻への祈り」。
これは、精神に異常をきたした妻を献身的に看病しつつも振り回されて、生活はめちゃくちゃになり、最後には転地療養のために妻の地元である奄美へと家族で移住していくまでの話(実話)である。
この話だけを読むと、狂気に冒された妻をその身を犠牲にして看病する夫、という美談に思えるのであるが、後代の我々は、そもそもこの妻の精神がおかしくなった理由は、夫(島尾敏雄)が愛人との情事にふけって家庭を顧みなかったことにあると知っている。となると、自分のせいで妻が病気になったことを棚に上げて、献身的に看病する自分のみを都合よく作品化する夫の方こそ狂っていて、病気になった妻の方がよほど正常だったのではないか、と思えてくる。
このように、「狂」ということの空恐ろしい魅力は、「狂っている方が正常で、実は正常だと思っている私たちこそ狂っているのではないか」という逆転がありうることだ。というのは、狂った世界にあれば狂った人こそ正常で、狂っていない人の方が異常だからである。狂っている人には自分が狂っていることはわからないから、自分は正常だと思い込めるし、私たちがそうであるかもしれないのだ。「狂」はあくまで、相対的概念だ。
「妻への祈り」の場合も、確かに病理学的に狂っていたのは妻の方であるが、その背景を知ってみると作家自身の方も深い狂気へと陥っている。島尾は、文学で身を成すため、というより売れっ子になるために、自らの浮気によって狂った妻を赤裸々に描いて売文していたのだ(『死の棘』として出版され高評価を受ける)。島尾は、狂った妻を文学的に利用したのである。こんなことは、とても普通の精神では行えない。当時は「私小説」が流行っていた時期で、破滅的な私生活を「赤裸々」に書くことが売れっ子になる近道だった事情があるとしても、相当に厚顔無恥であったか、あるいは島尾自身も狂っていたかだろう。
さらに、未読であるが『狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯 久美子)によると、妻の方にも浮気による精神疾患だけとはいえない狂気の世界があって、自分の病状が文学的価値を持つことを理解するや、夫の作品の題材となることに自らの存在価値を見いだして、あろうことか原稿チェックまでしていたという。
しかしそういう状態を、献身的な夫と(なぜだか)精神病になってしまう困った妻、としてあくまでも自分に都合よく描いている「妻への祈り」は、短いながら寒々とした狂気を感じる作品である。
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