2026年2月6日金曜日

『成熟する江戸(日本の歴史17)』吉田 伸之 著

江戸の町を3つのテーマで語る本。

本書は、講談社「日本の歴史」の一冊である。こういう本は対象とする時代の概説を行うものであるが、本書はそういう常識に当てはまらない。著者自身が「民衆世界の細部を精緻に描写することを基軸とした全体史の構想(p.354)」というとおり、類書では全く扱われないような細かいことが延々と続き、私には疎い分野が多かったので正直通読に苦労した。著者の通史に対するスタンスは第1章に詳述されているが、アナール派の史観に影響を受けているようだ。

著者が近世江戸を見る基本的なスタンスは分節構造である。すなわち、一極集中的な権力とそれに従う人々というのではなく、様々なレベルで権力を分有する諸団体が重層的に重なり合って社会が成立していたとする。

そしてその「権力を分有する諸団体」を著者は社会的権力」と呼ぶ。それは自然発生的なものであったり、幕府が公認したものであったりした。特に幕府が公認するかどうかがキーになっているのは言うまでもない。そして社会的権力の在り方が社会そのものの在り方を規定した、というのが著者の考えである。

第1章は、江戸時代中期の政治史と社会構造の概説である。江戸時代の町や村は法人的な自治組織であり、全国に6万3千の村と1万の町があったと推計されている。さらに、町や村という地縁的組織とは別に、「職種・機能などをめぐる社会的な結合、あるいは協同組織(p.35)」が存在した。そしてこうした組織の設立が幕府によって推奨された時期もあった。享保6年(1721)には江戸の町で96の職種について商人や職人の組合をつくるよう町奉行所が命じている。ここで、町(地縁)を基礎に支配する従来のやり方から変節しているのである。

これは村でも同様だ。農村でも農間渡世とか作間稼ぎの名目で多様な商売が展開され、職種ごとに共同組織が生み出された。こういう共同組織が社会的権力なのである。

本書では『熙代勝覧』という絵巻物を考察の入り口とする。『熙代勝覧』はベルリン国立東洋美術館に所蔵されている12メートルの絵巻物で、作者は未詳、制作年代は文化・文政年間(1804~30)と見られる。ここでは神田から日本橋に至る700メートルの街並みが連続して精緻に描かれており、店舗、路上販売者、行きかう人々が画面いっぱいに溢れ、そこには按摩・虚無僧・芸能者・神官・僧侶などの姿も含まれる。この絵巻物に登場するものを丁寧に読み込んでいくのが本書の方法論である。

なお、本書の読解で肝心なところは、社会的権力の動向がどう全体史に接続されるのかだが、私にはそれを把握する力量がなく、正直なところ個別事項の羅列以上の理解ができていない。そんなわけで、一知半解もいいところだが以下わかる範囲でメモを書いておきたい。

「第2章 社会的権力―豪商と町」では、社会的権力について改めて規定され、その事例として三井が取り上げられる。

社会的権力とは、「支配権力とは別に、生産や流通、武力や知識などを独占することで、周辺の地域社会に対して私的な支配力を及ぼす社会層」(著者の説明を要約)である。例えば在地社会(農村)では、豪農がそれにあたる。幕府は当初質流れなどで土地が集積されるのを嫌ったが、享保改革では一転してこれが容認されて質地の集積が進み、幕府は豪農を支配機構の末端に組み込んでいった。

町の場合のそういう存在が「大店(おおだな)」だ。大店とは、だいたい間口が4~5間(7~9メートル)、ほぼ10人以上の奉公人を抱え、抱屋敷(本店や居住地と別の土地)を持つ地主で、「出入中(でいりじゅう)」という集団を従属下においている有力町人をいう。そしてこの代表が三井だ。著者は三井を「超大店」と表現している。本章では、三井がどう支配的な立場を確立していったかがこれでもかというくらい詳述されているが、ポイントのみ述べる。

三井は近江にルーツを持つ一族で、武士から町人に自主的に変わった家系であった。江戸に支店を持ち、京都から仕入れた品を江戸で販売し、呉服屋としては後発であったが急成長した。その急成長を他の呉服屋は快く思わず、三井を流通から締め出すという営業妨害をしたものの、三井は江戸の店を引越しさせて対抗し、「現金掛け値なし」の画期的な販売方式によって売り上げを伸ばした。さらには両替商としても成長し、その原資で土地を次々と購入して地主となった。その基盤によって幕府の御用商人となり、「呉服屋と両替店という二つの営業部門それぞれにおいて幕府の御用を勤めるという、類例のない特権的な商人としての地位(p.90)」が確立した。

その本店は我々が考える三井のイメージとは全く違う。三井本店ではそれぞれ半独立した売り場が10~20展開していたのである。これらは三井の手代やその見習の子供が切り盛りしていた。三井は、単一の商売ではなく、本店の中で小規模な小売店をそれぞれ競争させるというテナント業的な経営を行っていた。

この経営を支えたのが京都店での仕入れである。三井は江戸と同時期に京都に進出したが、そのころの京都の町は零細な家持=小町人で構成されていた。しかし平和な時代が続いて京都の土地は値上がりし、結果的に零細な商人が締め出されて有力商人に寡占されていった。しかもそういう有力商人は他所から来た新しい町人だった(三井もその一例だ)。

ところで、こういう超大店の三井本店がどんな巨大な店だったのかというと、本書に明確には書いていないが、間口を足し合わせると21間の店だったようだ。つまり間口38メートルくらいということになる。確かに江戸時代の店舗としては度外れて巨大であるが、現代のショッピングモールと比べたらずっと小さい。当時は徒歩での移動であるから、商圏がそれほど大きくなく、店のサイズは自然と制約された。そんな中で、江戸城の需要を賄ったことが三井の発展にとって大きかったことは容易に想像できる。江戸城は狭い範囲に1万人くらいの人が働いていたし、呉服の需要も大きかった。三井が江戸城の呉服の御用(元方=将軍方の需要、払方=大名・旗本に下賜する品)を獲得したのは1680年代で、両替の御用が1690年代である。御用を獲得するためのコストがどうであったのか記述はないが、1700年代の三井の発展は御用を抜きにしては考えられない。

「第3章 身分的周縁―勧進と芸能」では、「願人」「乞胸(ごうむね)」を中心にして身分的周縁の問題が扱われる。

身分的周縁とは、武士や農民といった固定的身分とは別に、流動的に存在した商人・日用・乞食=勧進層・芸能者などのことをいう(著者の説明を要約)。ここで商人も入っているのが面白い。商人は土地を媒介せず、領域的支配権力によって人身が緊縛されないから身分的周辺なのだ。

日用(ひよう)はその日暮らしのフリーターである。彼らは人宿(ひとやど)とよばれる周旋業者によって仕事についたが、そういう業者も共同組織を形成していた。この浮動層を幕府は快く思わず、人返しの法などで抑制しようとしたがうまくいかず、江戸時代後期は彼らの存在は社会問題化する。乞食=勧進層は他者からの施しを得て生活する者で、代表的なものは非人である。非人は非人で共同組織を形成し、清掃・行刑などの負担をし、村や町に雇用されて番人を務め、非人の取り締まりを行った(…と本書にはあるが、非人はその職務への対価を受け取っていたので乞食や勧進とは違うように思った)。芸能者は、勧進層から派生して生まれ、喜捨を得るための見世物としての芸能に特化していった者たちである。

本章では、こうした社会的周縁のものたちの中でも、最下層にあたるのが「願人」と「乞胸」だ。

「願人」とは願人坊主ともいう乞食僧である。彼らは5、6人でチームを組み、住吉踊りをしたり、ふざけた口上を述べたりして楽しませ喜捨を受けた。そしてその一部は判物(はんじもの)という謎かけのような刷り物を配り、午後になると「先刻あげましたる考えもの」などといって代金を請求した。本書には詳らかでないが、謎がわからないと金を払う必要があり、逆に謎が解けたらお金がもらえるというゲーム的・賭博な要素もあったようだ。これは多くの人にとって迷惑だったので、江戸では享保4年(1729)に「違法な行為を行う願人はその身を願人の頭にあずけることとする」という町触れを出している。ここで町奉行なりが直接処罰するのではなく、身柄を「願人の頭」にあずけるという処置が極めて近世的である。

「願人の頭」の元締めの一つが、京都の鞍馬寺の塔頭、大蔵院と円光院である。この二つの塔頭は江戸触頭を置いて願人を支配したらしい。いつから触頭が置かれたのかははっきりしないが天和年間(1681~83)には確認できる。これは本山派修験で触頭が置かれたのと同時期だ。

ここで面白い事例が紹介されている。「禅門坊主が本寺もないのに勧進のため徘徊して迷惑している」と願人が寺社奉行所に訴えているのである。やっていることは願人と禅門坊主=乞食では変わらないのだが、寺社奉行はこの訴えを認め「願人に紛らわしい行いをするものは願人の支配下に置くこと」などと裁許している。ここにも近世的人身把握の特質が窺える。幕府は、ある種の行動を特定の集団に排他的に認めることで、社会的に把捉されない人間(ここでいう禅門坊主)の発生を防止したのである。つまり幕府にとってフラフラしている人間は好ましくなく、かならず中間団体に所属させようとした。

そして中間団体にとってもこの政策は好都合だった。大蔵院の場合は、判物料(銭50文)と一人当たり半年につき銭300文の礼銭が江戸触頭を通じて上納された。要するに大蔵院は、願人の身元引受人になることで利益を得ていたのである。そしてこの組織で役人をしていた願人は、平願人から上納されるお金の上前を撥ねることで生活していたと思われる。

では願人の実態はいかなるものであったか。出家・社人・山伏・修験・神職は町家に居住することが禁じられていたが(天保13年の触れ)、陰陽師・普化僧・道心者・尼僧・行人・神事・舞太夫・願人は裏店に居住することが許されていた。そんなわけで彼らはいろんなところに住んでいた。もちろん場末に集住してはいたが、三井が地主をしていた場所(橋本町)にもいた。また本筋とは関係ないが面白いのは、旗本が拝領した屋敷(土地)を地借りや店借に賃貸して、その経営を家守にゆだねて地代・店賃を収入の足しにしていたことである。武家地に町人が住んでいたのと、旗本が地主化しているのが興味深い。また願人の役人層は、木賃宿(ぐれ宿)を経営していた。

願人は最下層といっても現代のホームレスとは少し違う。彼らには組織があり、その組織には配下の者を勧進に廻らせるテリトリーと木賃宿の営業権などを持っていた。そしてその組織における役員にはそれなりのうまみがあって、組織内では主導権争いが行われていた。ちなみに彼らの名前は、〇〇→××房→△△坊 と昇進したようである。願人の触頭の一人であった良山は本山に「法師僧正」という位を申請している。その申請の口上で面白いのは、願人は「修験同様」だと主張している点である。これは願人の在り方から修験の在り方を想像させる事例として興味深い。

しかし安政大地震後、勧進がうまくいかなくなり彼らは日雇で稼ぐようになって(と彼らは言うがそれを額面通り受け取っていいのか不明。単に日雇の単価が上昇して勧進より稼げるようになっただけのようにも見える)、元治元年(1864)以降、大蔵院に上納を納めることはなくなり明治維新を迎えている。そして明治後は、ぐれ宿が貧民窟になったという。

次に取り上げられるのが乞胸である。乞胸は江戸に特有の下級芸能者で、浄瑠璃や物真似など12種の芸能を行い、天保13年(1842)に乞胸は749人いた。彼らの芸は、いわば浅草演芸場の前座で行われるような雑多で卑俗なものだったようである。彼らは乞胸頭(仁太夫)から鑑札をもらって「営業」していた。そして家業の上では非人頭の善七の支配を受けた。つまり人別帳には町人として搭載されつつも、別途非人の名前帳にも報告された。この点は重要である。善七の支配下にあるのは、「非人」だが、乞胸は「家業の上」でしか善七の支配を受けず身分は町人なみなのだ。つまり乞胸の在り方は近世的な身分支配から逸脱しているのである。「乞胸」は名実ともに身分ではないのだ。

そして仁太夫は、寺社など(←この「など」が重要)で芸をして渡世をするものを乞胸として組み入れようとした(寺社の境内で芸をする場合は寺社奉行の管轄で、乞胸の居所である町とは支配が違う)。これは当然、鑑札の見返りに金銭を得ていたからに他ならない。そして当然、そういう芸人はこの一種のみかじめ料を払うことを嫌い、寺社内に逃げ込んで乞胸の手を逃れようとした。しかし理屈の上では、12種の芸能を行う存在として組織があり「身分」化していた乞胸の方が、勝手に芸をしている者たちより立場が強かったのは言うまでもない。彼らは町奉行の後ろ盾を得て、そういう勝手な芸能者を配下に組み込んでいった。

ここで本章では、江戸における芝居の在り方、劇場への規制などを詳述しており、いかに江戸の町や文化が規制によって出来上がったものであるか如実に物語っている。簡単に言うと、江戸では幕府公認の三座だけが常設の芝居小屋を持つことができ、それに準じる存在は寺社の境内地の屋根のない小屋で「晴天芝居」を日を限って開催した。さらに面白いのが、「芝居ではなく販売会(しかも歯磨き袋の!)の余興で芝居をしているという体」で営業しているものである(香具師芝居)。ところがこれが三座の芝居にも匹敵するかのような興行だったのである。明らかに規制の裏をかいているのである。

こうした事情があったからか、乞胸を構成する12種の芸能は、それぞれが小集団を形成し、乞胸頭支配からの離脱と解放を求めるようになっていった。なにしろある芸能の小集団が「乞胸に包摂されるか、香具師にくみこまれるか、あるいは西国での説教者に組織されるかは、必ずしも自明ではない(p.237)」からだ。

なお、江戸時代後期には、新しいタイプの芸能が流行する。寄席(よせ)である。寄席には4つのルーツがあり、その一つが乞胸なのだが、それまでの興行と違うのは芝居地とか寺社の境内ではなく、町屋の中で行われる点である。乞胸頭にとって、乞胸以外の3つのルーツの寄席は自らの中に取り込んでいくべき存在であった。そこで乞胸頭は彼らに営業を認める代わりに礼銭(みかじめ料)を請求しようとしたがうまくいかず、その世話人(会場)から「相応の心付」をもらっていた。それは苦肉の策ではあったが、それにしても世話人からいくばくかのお金を徴収できたことに、近世的身分の特質が現れている。寄席が乞胸のテリトリーであることは公認されていたのである。

そして天保13年(1842)、寄席に対する大弾圧が実行された。江戸に238か所あった寄席の大半をつぶし、「古くからある寺社境内の分9カ所、町人地(中略)の計30カ所を残存させて、そこでは神道講釈・心学・軍書講談・昔咄し(p.235)」のみが許された。本筋とは関係ないが、この「神道」「心学」「軍書」「昔咄(≒歴史)」なる演目の組み合わせは極めて興味深い。この弾圧は結局うまくいかず、翌年には演目が限定されつつも寄席は「勝手次第」となった(もちろん演目の限定もすぐに形無しになった)。

乞胸の在り方は、近世的な「身分」の変節を暗示している。元来の「身分」は職能と一体化したもので、幕府による人身掌握と密接にかかわっていた。そのために「身元引受人」を公認して集団の特権を認め、また集団の内部をその支配に委ねていたのである。しかし乞胸はそういう近世的身分の特質を持っていない。にもかかわらず興行の特権は幕府から公認を受けていた。乞胸を公認することで幕府(町奉行)が得るメリットは何なのか? どうもそれがよくわからない。私には、乞胸は幕府の身分支配の仕組みの裏をかいて利益を得ていたように思われる

「第4章 市場に集う人々」では、野菜市場と魚市場を中心とした小経営者たちの姿が詳述される。

本章は、私の特に疎い分野であるので、簡略にメモする。現代の野菜流通では、市場が設立されてそこに仲買が登録され競りに参加し、仲買から小売りが商品を買うという仕組みになっているが、江戸時代にもこれと似たような仕組みがあった。地方からの物品は問屋(といや)が集荷して江戸に運び、それが仲買に委託販売され(手数料は約5%。現代の市場とほぼ同じ!)、仲買が小売に売っていた。ポイントは、現代では市場(いちば)が担っている機能が江戸時代にはなく、問屋が集荷・運送・元売り(正確には産地からの委託販売)を特権的に担っていたということである。そして問屋が集中している領域が青物市場なのである(なので「市場」といっても現代とは言葉の意味が違う)。

想像がつくように、幕府は問屋(正確には問屋の組合=組)の存在を公許して市場を間接的に支配した。そして問屋が担ったのが江戸城への物品の納入(=御用)である。ところが江戸城には相場よりも低い価格で納品しなくてはならず、その差額は問屋が負担した。つまり問屋は存在を認めてもらうかわりに江戸城への見えない負担金が課されたのである。また野菜・果物一般とは別に特別な納入品目があり、その一つが薩摩芋だった。薩摩芋をめぐる産地と問屋との諍いが本書に詳述されており興味深い。薩摩芋が特殊だったのは、産地が問屋を通さず販売しようとしたという点で、それは薩摩芋が庶民の主食だったためにその重要性が大きく、産地の力が強かったということのようだ。

魚市場でも事情は似ている。しかし魚の場合は、幕府は組の独占を公認していたいたものの、従来の組の独占による弊害を除くために幕府により新たな組(新肴場)が設立されているのが注目される。これは従来の組が手数料を5%から6%に引き上げたのに反発した浜方(漁師)が江戸への直販を求めて幕府に直訴したことを受けて行われたものである。魚市場の場合でも幕府は江戸城の御用を組に負わせていたいたのであるが、このような政策によって魚が安くなるという目論見があったらしい。冷蔵設備のなかった時代での鮮魚は高級品であり、特に将軍の毎日の食事になった鯛はそうだった。野菜と違って、魚の購入は江戸城の負担になっていたということのようだ。

そして問屋は、仕入れを独占するために多額の前貸し金(敷金)を納入していた。公儀の公認によって問屋になったというより、この敷金が独占の根拠だとすると、幕府にとって問屋を保護する必要がなく、むしろ競争があった方が好都合だったのかもしれない。どうも野菜市場とは違う様相が見て取れる。

さらには、仲買の方も野菜とは少し違う。魚市場の仲買場所(板舟という)も細かく区分けされて小商人の競争が行われていた…のが、なんと次第に板舟は実際には少数の商人に寡占されていた。というより板舟の権利を持つものが地主化し、それが板舟権を持たないものに賃貸されていたのである。これは公正な競争が行われた結果のように見える。

ここで本章では、日本橋近くの安針町で、武蔵国の豪農が町屋敷を地代収入を目的に購入した事例が紹介されていて興味深い。この豪農は板舟を設置する権利も購入し、仲買に町屋敷を貸して収入を得ていた。もはや土地を基準とした人身掌握が不可能になっていた様子が明らかである。幕府から公許を得た中間団体が力を持ち、それを通じて人身を掌握するという政策では、競争の結果力を持った個人が実力(市場原理)で「社会的権力」になってしまうと、幕府はこれを掌握することができないのである。

そしてこういう個人を、中間団体が快く思わないのはいうまでもない。凋落しつつある中間団体は個人が勝手に営業することの規制を公儀に求め、そこから逃れようとする人々との間で縄張り争いが繰り広げられた。例えば家守(いえもり)と魚問屋と零細な出商人はその利益をめぐって対立していた。家守とは、地主から物件の管理を委託された人のことをいう(現実にその物件を利用している者は店借り)。要するに、家守は地主の代理人である。零細な出商人は規制を真面目に守らずに逸脱的に商売を行い、家守はそういう勝手な真似をされると既得権益が犯されるために町奉行にその取り締まりを訴え、魚問屋は旧来のシステムを守るために四苦八苦していた。旧来のシステムが守られることで利益を得る点では魚問屋と家守は共通だったが、家守は実働はせず、市場から得られる地代収入だけが目的だったのが違った。

幕末の安政6年(1859)、南町奉行所に7組の魚市場関係者約二千人が押しかけた。逸脱的な魚商売を取り締まれという徒党行為であった。彼らの訴えは一部認められたが、雑魚(庶民向けの魚)を専ら取り扱う新たな魚市場の新設という結果ももたらした。幕府は問屋の独占を認めてはいたが、全魚種での独占を守ることはせず、雑魚についてはかえって問屋外での取引を公認したのである。「7組による鮮魚流通の独占態勢は、18世紀が確立期であり、19世紀に入ると中頃までにはその独占が破られる新たな動きがいろいろな形で出てくる。(中略)そしてあいも変わらず厖大な奢侈的消費を続ける江戸城の御用は、7組の存立にとってもはや最悪の桎梏でしかなくなって(p.325)」いった。

ここでは、18世紀の御用がうまみがあるものだったのに比べ、19世紀の御用は単なる負担でしかなくなっている様子が見て取れる。もちろん三井と魚市場を単純に比べることはできない。だが江戸城という巨大な市場が19世紀には支配的でなくなっているということだけは間違いない。それは市民社会の成長・成熟を示唆しているのである。

「第5章 江戸の小宇宙」では、江戸橋広小路に展開した商売の在り方について述べ、近世の民衆世界の到達点について概括を行っている。

江戸橋広小路=四日市は、町が管理する空き地である。空き地であるが、そこに時限的な小商売や遊興の場が展開し、町はそこから地代を徴収した。それは単なる場所貸しの土地だったのではなく、様々な利権が重層的に設定されていた。それは役割分担と棲み分けと競争の綯い交ぜになったものだった。江戸橋広小路は近世の商業社会の縮図かもしれない。18世紀は、「世界史と本格的に出会う前の到達点(p.358)」なのである。

本書全体を通じて、私は近世的身分の在り方に着目したが、これは本書の問題意識ではない。本書は民衆世界において様々なレベルで権力を分有する諸団体がいかに重層的に重なり合っていたかを克明に描くものだからである。しかしその諸団体が、どうして団体たりえたのかが私の関心事項である。以下、すでに述べたところと重なる部分もあるが本書を読みながら考えたことをスケッチしてみよう。

近世初期において、幕府は町や村という土地(と正確にはその領主権力)を通じて人身を把捉した。その要諦は、町に住む町人、村に住む農民といった調子で、職能と身分と居住地が三位一体で設定されたことにあったと思われる。

ところが商人や勧進層のような土地にとらわれないものが蔟生すると、それをとりまとめる中間団体を積極的に育成して、その中間団体を通じて人身を掌握した。職能・身分・居住地の三位一体が崩れたことを受けて、自然と基礎となったのが職能と身分である。幕府は中間団体にある種の職能を排他的に認めてその集団内の統治を委ねた。ところが身分はこれと完全には連動していなかった。町に住み、町の人別帳に搭載されれば、所属している中間団体にかかわらず身分としては町人だからだ。これは幕府にとっても意図せざる結果であったに違いない。身分は町人でも乞胸の名前帳に載っているなら、乞胸として扱うべきなのだろうか、それともあくまで町人なのだろうか。人身把握が複線化することで、当人にもそれが曖昧になり、身分というものが有効に機能しなくなっていったように思われる。

さらに競争の結果、豪農とか大店のような、中間団体とは別の面で社会的権力を行使できる存在が現れた。こういう事情から、中間団体を通じて人身を掌握する政策が有効でなくなった。幕府は中間団体を尊重する政策を惰性的に続けるが、その意味は低減していったように思われる。そしてもう一つ困ったことは、豪農とか大店は蓄えた財力を使って地主化したということである。武蔵国の豪農が江戸の町屋敷を所有し、そこから地代を徴収した。あるいは、武家地にある旗本の拝領屋敷が分割されて町家となり、そこには町人が住んだ。こうした事例で窺えるとおり、村とか町のような縦割りでは実態がわからなくなっていた。にもかかわらず、相も変わらず人別帳は町や村といった地縁団体によって作成され、形式的には江戸の町は武家地・寺社地・町人地の3種に分かれていた。人と土地の管理形態が現状にそぐわないものになっていたことは明らかだ。はっきりと社会問題になっていたわけではないが、それが19世紀初頭の江戸が抱えていた病魔だったようである。

江戸の町を詳しく描くことで、18世紀の社会の実態を考える労作。

★Amazonページ
https://amzn.to/4rAMBPg