2024年5月17日金曜日

『儒教とは何か 増補版』加地 伸行 著

儒教を祖先祭祀の宗教として叙述する本。

儒教は、一般には倫理道徳の教えとして捉えられているが、著者に拠ればそれは儒教の「礼教性」だけを見たイメージにすぎない。著者は、儒教の本質は葬送儀礼を中心とする「宗教性」であって、それが東アジアにおいて「儒教文化圏」が形成されてきた力なのだという。

本書は、儒教の歴史を簡単に振り返りつつ、この儒教の宗教性について述べるものである。 

まず、儒教の核は「孝」だという。「孝」とは、父母や祖先を敬い子孫を残すことであり、また父母等の葬儀をし、その祭祀を行うことまでも含めた概念である。「孝」は血の連続を尊いものとみなす「生命論」なのだ。

であるから「孝」はあくまでも血族の論理なのであるが、孔子がそれを体系化したことにより、社会理論として成長していった。なお著者は白川静『孔子伝』を引き、孔子は葬儀を行うシャマンを源流として持ちつつ、「君子」という概念を持ち出してそこから脱皮した存在だとしている。

本来的には地域の共同体の思想だった儒教は、前漢時代、中央集権的な官僚組織に食い込んでいった。そこで儒教は、単なる政治理論であるだけでなく、古典の注釈・解釈を行う「経学」になっていった。

中央集権的官僚体制を取り込むために新しく作られたテキストが『孝経』と『春秋』である。『孝経』では、天子から庶人までの様々な社会的立場での「孝」を規定し、「孝」を血族で閉じたものではなく国家まで繋がるものとして再定義した。ただし、『孝経』では「孝をもって君に事うれば忠」と言っているが、本質的には「孝」と「忠」は対立するものであった。

『春秋』は、魯国(孔子がいた国)のある時期の歴史を述べたもので、儒教は歴史思想にもなっていき、またそれは歴史を修養の鑑とする「春秋学」へと繋がっていく。

さらに前漢の武帝の時代、五経博士という役職が国家に置かれたことで、儒教は国定の学問となった。 そして国定の学問になったことによって、儒教の「礼教性」と「宗教性」が分離する。国家の側では儒教の「礼教性」のみを取り上げ、「宗教性」は私的な領域でのみ生き残ることになったのである。 しかしながら、儒教の「礼教性」の基盤にはずっと「宗教性」があったのだと著者はいう。

後漢時代には、緯学という神秘思想が流行する。これは未来予知の思想である。本書ではそのように捉えられていないが、これは宗教性を帯びた儒教思想と見なせるだろう。一方で、『周礼』が(おそらく)偽作され、理想化された古代の王国がかなり具体的な政治の基準として考えられるようになった。

隋代には科挙が実施されるようになり、儒教はさらに世俗化した(礼教性のみが強調された)。宋代に至り、周濂溪の『太極図説』を元に朱子が宇宙論・存在論を構成したが、朱子学では現実世界の個別的なモノ以外の実在を認めなかった(プラトンのイデア的なものを措定しなかった)。著者はその思想を唯物論的かつ素朴実在論的であると評している。そしてこうした思想によって、朱子学では鬼神の存在をうまく説明できなくなってしまった。 「鬼神について統一的説明ができないということは、朱子学における最大弱点(p.216)」である。鬼神が存在しないとすれば、私的領域では連綿と行われてきた祖先祭祀の意味がなくなってしまうからである。

こうしたことがあったのか、朱子が41歳の時に母が亡くなると、彼は『家礼』という本を撰したと言われている。これは葬儀のマニュアルであり、後に大きな影響を与えた。しかしながら、国家の正統的儒教は科挙の学問であったために宗教性は捨象されていた。そして清王朝の滅亡とともに科挙も終焉。「今日においては(中略)礼教性的儒教は、その一般性や組織においてほぼ完全に崩壊した(p.246)」。ところが、儒教の宗教性の方は祖先祭祀として現代でもしぶとく生き残っている。

著者が本書で度々繰り返すのがここで、著者は「儒教には礼教性(道徳・倫理)と宗教性がある。しかし儒教論においては、宗教性を除く、或いは認めないのが一般的であった。その誤りを正すために本書を著した(p.228)」としている。

ところが、この主張はちょっと額面通りには受け取れない。というのは、「その宗教性については、私が独創的に定義化し構造化しなければ、だれも分からなかった(p.153)」としていたり、「中国の知識人自身が、漢代以来、儒教の[宗教性を忘れ]礼教性だけを見てそれを儒教の本質であると誤解するようになって今日に至っている(p.159)」と述べているのだ。

著者によれば、儒教は二千年も誤解されてきた(「儒教知識人の大いなる儒教誤解(p.183)」)。しかし、そんなことがありうるのだろうか。儒教を初めて理解したのが著者だというよりは、著者が儒教を誤解している可能性の方がずっと高い。ではその論理のどこに誤りがあるか。

私が一番疑問に思ったのは、祖先祭祀は儒教なしではありえなかったかどうか、ということである。北東アジアには確かに祖先祭祀が広く見られ、これは西欧世界とは様相が違う。著者はこの祖先祭祀は儒教が大きく影響しているとみており、それは間違いないだろう。しかし儒教によって祖先祭祀が行われるようになった…かどうかは、検証を要する。むしろ祖先祭祀の民俗を儒教が取り込んだと考える方が自然だ。

「儒教の宗教性は、民衆的な祖先祭祀を基盤としているのだ」ならわかるが、「民衆的な祖先祭祀は儒教の宗教性に基づく」というには、祖先祭祀の民俗を詳細に調べてみなければならない。その作業が本書には完全に欠落している。

なお著者はあまり重視していないが、儒教では「天」を祀る。北京に残る「天壇公園」の壮大さは見る人を驚嘆せしめる。では儒教なしでは祭天は行われなかったか、というと、おそらくそうではないだろう。儒教以前から祭天の古俗はあった。

また、著者はほとんど無視しているが、儒教には「釈奠(せきてん)」という孔子を祀る儀式もある。これは儒教の宗教性を示すもので間違いない。

それに、孔子の同時代の諸子百家と呼ばれる人々は、儒家を批判する際に、豪華な葬式や長い服喪を問題視していた。確かに儒家はその宗教性が特徴だと思われていたのだ。だから私は、著者の見解が的外れだといいたのではない。著者が、儒教の宗教性を深く腑分けすることなく、「祖先祭祀」のみを取り上げて、それだけで儒教の歴史を読み解いてしまうことに違和感を覚えるのだ。だから、本書には参考になる部分も多いが(特に前半はとてもエキサイティングである)、どこか腑に落ちない読後感を抱かせる。

儒教の宗教性は理解できるが、著者の主張が先走った感じがする本。

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2024年5月10日金曜日

『江戸の王朝文化復興—ホノルル美術館所蔵レイン文庫『十番虫合絵巻』を読む』盛田 帝子/ロバート・ヒューイ 編

江戸の王朝文化復興のムーブメントを「十番虫合」から見る本。

本書は、ホノルル美術館所蔵の『十番虫合絵巻(じゅうばんむしあわせえまき)』が、同絵巻の最善本であることがわかったことから行われた国際共同研究の成果をまとめたものである。

さて、この「十番虫合」とは何かというと、天明2年(1782)8月、隅田川のそばにある木母寺(もくぼじ)で行われた優雅な遊びである。参加者は左右に分かれて、それぞれ松虫と鈴虫をテーマに和歌を提出する。また同時に、それにまつわる「洲浜(すはま)」と呼ばれる作り物(ミニチュア)も提出。和歌と洲浜はそれぞれ優劣が判定され、この勝負が10番行われた。この時の参加者の一人である三島景雄が、和歌、洲浜、その判定を記録したのが『十番虫合絵巻』なのである(正確には、洲浜は別の画家が描いたのを模写した可能性が高い)。

【参考】十番虫合絵巻
https://juban-mushi-awase.dhii.jp/index.html

こういう、歌や物を優雅にしつらえて対決する遊びを「物合(ものあわせ)」という。これは平安時代の宮廷で行われていたものだ。では、江戸の町で、こんな王朝風の遊びが行われたのはなぜなのだろうか。

その一つの契機となったのが、明和2年(1765)に田安宗武(徳川吉宗の子)が行った「梅合」である。男女に分かれた参加者が趣向を凝らした梅の洲浜を対決させた。「宗武は有職学・服飾学・雅楽・歌学の知識を集約して王朝時代の物合を江戸で再興したのである(p.130)」。この頃、王朝風服飾文化復活の流れがあった。

その動きを引き継いだのが荷田派の古学者で、寛政の改革(1787~)で下火になるまで歌合が流行した。その中心には、京都の堂上歌人有栖川宮職仁(よりひと)親王の門人の三島景雄や賀茂季鷹がいた。

その頃、京都(朝廷)では歌合は廃れていたばかりか、なぜか禁止されていたらしい。江戸では、歌合・物合をもちろん宮廷行事ではなく「遊戯」として行った。「身分の低いものが公家の真似をするのは恐れ多いことであるが、ただの遊びなのだからよいだろう」という理屈で彼らは自他を納得させていたようだ。

面白いのは、「十番虫合」の参加者である。一番身分が高いのは刈谷藩主の土井利徳(としなり)。主催者は旗本の川村蔭政。和歌の判者は賀茂季鷹。彼は有栖川家に仕えた歌人で、荷田御風(のりかぜ)の門人(後に京都に帰り賀茂神社の神職となった)。作物の判者は加藤(橘)千蔭で、彼は江戸町奉行の与力。賀茂真淵の門人で「県門四天王」の一人に数えられる。与力は今でいうと警察署長クラスらしい。そして先述の三島景雄であるが、彼は幕府御用達の呉服商である。

これだけでも、大名、旗本、与力、商人が同席しているが、さらに歌を提出した人々を見ると、医師、同心、装飾金工(職人)、詳細不明の女性など多様な身分の人がいた。王朝文化復興に憧れたのは上級武士だけではなかった。そしてそれが「遊び」の場であればこそ、身分を超えて王朝文化に参画することができたのだ。そして王朝文化の再興といっても、そこには公家が一人もいないことは示唆的だ。

そして、この催しが木母寺で行われたのも偶然ではなさそうだ。隅田川は、かつて在原業平が「いざ言問わむ都どり」と遠い都を思いながら歌っており、京の都のみやびを呼び起こす歴史的な場所だった。また木母寺は、京都の公家の子梅若丸に始まる寺であり、また江戸時代には勅使が参詣する寺でもあった。つまり木母寺は「江戸にあって宮廷文化の香を格別に色濃く醸す場(p.158)」であったと考えられる。

そしてもちろん、王朝文化の中心をなすのが和歌であったことは言うまでもない。特に「千年以上にわたり開催され続けた歌合は、勅撰集に次いで和歌史において重要な位置を占める営為(p.165)」であった。

平安時代の歌合は遊戯というよりは公の儀式であり、午後3時頃から夜通し続けられ、酒や管弦の演奏もあった。そこでは自作の歌が披露されたのではなく、歌を持ち寄って対決させ、その議論が行われた。

歌合は鎌倉時代には空前の隆盛期を迎え、朝廷の威信回復を目指す後鳥羽上皇によって史上最大の歌合とされる「千五百番歌合」が開催された。江戸時代には、元禄時代から歌合が京都・大坂で地下人(ぢげにん)によって行われた(ここでいう地下人は官位を持たない人の総称と思われる)。特に国学諸派が成立すると、その流派の中で多くの歌合が催された。歌合の開催が堂上(とうしょう=上級公家)ではなかったことは、江戸の王朝文化復興の特質を示しているように思われる

歌合は真面目な古典復興のムーブメントであったが、一方で物合は、狂歌師が中心となったちょっとふざけた(パロディ的な要素がある)遊びであったようだ。江戸時代には物合の大ブームがあったが、「狂歌師たちのパロディ物合にも、大名筋の貴人たちが別名を用いて登場(p.174)」した。ここでも「遊び」が身分を超越する場として機能していた。物合の会場としてよく寺院が選ばれていたが、これも身分超越の性格があったからかもしれない。

なお寛政の改革の影響で物合も下火になるが、代わりに19世紀初頭には古器古物等を持ち寄って考証する会が行われた。古書画を鑑定して楽しむ会だ。古い時代への関心と知識があったことが窺える。それらの動きは、やがて古物古美術木版図録である『集古十種』に結実する。これは松平定信に後援された民間のプロジェクトであった。

ともかく、「十番虫合」は、当時ブームになっていた歌合と物合を組み合わせた、身分を超越する「遊び」だったのだ。ちなみに物合のテーマとして「虫」が選ばれたのは、当時、鈴虫・松虫などの声を愛でる「虫聴(むしきき)」が流行していたこともあるようだ。

さて、ここでこの『十番虫合絵巻』の判定を読んでみると面白いことに気付く。それは、歌の判定は至極アッサリとしている一方で、作物(洲浜)の判定にはとても力が入っているということだ。そして洲浜自体も、かなりのコストを掛けて制作していたようである。

洲浜は一種のミニチュアで、『源氏物語』や『古今和歌集』『伊勢物語』など各種の古典を踏まえつつ、和歌にちなんだものを虫かごに設えたものである(なので、実際に松虫や鈴虫が入っている)。洲浜は提出された和歌と無関係ではないが、それよりも古典を題材にして(本歌取りして)作られている。平安時代の物合にも作り物が伴ったらしいが、工芸の力によって平安時代をミニチュアで表現したのが「十番虫合」の洲浜なのだ。そしてこれに非常に力がこもっていたためか、参加者はこれを絵巻にして記録する意義を感じた。これ以外に作り物を描き留める例はないのだという。

つまり、 「十番虫合」は王朝文化に興味を持つ人々の「遊び」であったが、王朝文化の核心である「和歌」よりも、それを踏まえた雅な作り物「洲浜」があってこそ成立したと考えられる。これは江戸の王朝文化再興を考える上で非常に重要な点だと感じた。文芸という抽象的なものばかりでなく、手に触れられるモノを媒介にして人々は王朝文化の香を感じたのであろう。

ところで私が本書を手に取ったのは、明治維新との関連である。明治維新は、言うまでもなく王政復古の革命であった。そこでは結果的に「神武創業」が謳われたが、王政復古を考えていた人たちはその基準を王朝文化としていた節がある。そして明治維新後も、日本文化を表象するものとして王朝文化が(おそらくは意図的に)称揚された。日本文化といえば、まず『源氏物語』なのだ。

それは明治政府を動かした人たちが恣意的に設定したのではなく、江戸時代の中頃から徐々に醸成されていた。様々な身分の人たちが、王朝文化を「発見」し、それを擬えた「遊び」によってそこに参画しようとしていた。それは、明治維新とは一見何も関係ない。しかしそれは、文化的に明治維新を準備していたといえなくもない。それは理想化された過去の日本を復活させようとする取り組みの一つだったのである。

 『十番虫合絵巻』を正確に理解することで、江戸時代の王朝文化復興を多面的に捉えた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『歴史で読む国学』國學院大學日本文化研究所編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/09/blog-post.html
国学の発展の歴史を平易に述べる本。国学史の教科書として現時点の決定版。荷田派の活動も取り上げている。

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2024年5月7日火曜日

『土の思想(叢書 身体の思想6)』宮田 登 著

民衆の思想を述べる本。

本書は、民衆の思想、なかんずくその信仰に関する思想を取り出して、交通整理するような本である。大上段の結論があるわけではなく、いくつかの象徴的事実と研究の現況、その課題を提示し、著者の考えを述べている。ただし昭和52年(1977)の本なので、研究の現況についてはちょっと古びている。

まず、著者は「日常性の思想」に注目する。歴史が非日常的な断絶で述べられるのに対し、民衆の暮らしは言うまでもなく日常的なものであった。ここで柳田国男以来の「ハレとケ」の論理の話となるが、ここは現代からみるとあまりに観念的な枠組みに感じられる。

ひとたび飢饉が起これば、そういう日常性は破壊されたが、むしろ非日常においてこそ、日常性を強化・喧伝することが行われた。通俗道徳や生活律の遵守、節制、遊興の禁止などを訴えて「先祖株組合」を作り、体制側に表彰された大原幽学はその象徴である。大原幽学を受け入れた村では、村落崩壊の危機的状況に対処しようとしたのである。ここで「先祖」が持ち出されていることが興味深い。

勤労を訴えた二宮尊徳も同様に、自らの家の再興を図って一族の祠を作って聖地となし、先祖祭りを励行している。 これらの事例は逆に、この時代、「先祖」があまり民衆に意識されていなかったことを物語っているように思われる

一方で、先祖とか規律とかを言わず、副業を勧めるなど合理的な手法を提示した大蔵永常がそれほど民衆に支持されなかったことも興味深い。民衆を動かすには、やはり精神的な何かが必要になるのかもしれない。

次に、男女和合の思想が取り上げられる。江戸時代以降、双体像の同祖神がつくられたり、道祖神の前で性交が行われた(とされる)。本書には指摘がないが、こうした性的な道祖神信仰が北関東から東北にかけて多く見えるのが興味深い。これらの地域は幕末には大変な人口減少に見舞われた地域であり、人口の再生産が社会的課題となっていた。

性器を露骨に象った神体を祀るのも文化文政期以降に集中するという。やはり性の信仰は農村の荒廃、人口減とリンクしていると考えられる。さらに著者は富士信仰の不二道を取り上げ、そこに性の信仰(男女の行為を「おまつり事」として聖なるものと考える)が見られることを指摘している。富士講は「江戸八百八講」と言われるほど蔓延した。

次に、民衆の間で一時的に流行し、流行りが落ちつくとパタッと祀られなくなる、いわゆる「祀り棄て」と言われる現象を取り上げる。これは麻疹や疱瘡の流行と関係していることが多い。流行が過ぎさえすれば、後は継続的な祭祀など不要だから「祀り棄て」されるのだ。

興味深いのは、民衆の間では疱瘡神が恐ろしい姿をして祟る、というような考えはほとんどなかったということだ。「むしろその霊験にあやかろうとしているところもある(p.93)」。疱瘡神を丁寧に持てなし、「神送り」して出て行ってもらう。疫病神を遠ざけるのではなく、楽しくお祭りをしてもてなすという考え方が非常に面白い。

一方、稲の害虫は悪神の祟りとみなす心意が古くからあった。こちらも藁人形を焼き払うなどして「神送り」をする。しかし疱瘡神と違ってお祭り的な要素は少ないようだ。何が違うのだろうか。

これらの事例から、著者は「人が必要ならば神仏を作り不必要ならば祀られなくなるという単純な理屈(p.103)」を指摘し、「祀って棄てるというのは、いかにも巧智にたけた思考」だとしている。巧智にたけているかどうかはともかく、必要性に基づいた合理的な考えで神仏に対処していたといえる。

さらに化政期以降、「狐憑きの狐を落として、これを稲荷に祀りこめたのが流行神となる傾向が集中して出てきた(p.107)」とし、稲荷神は人神の要素を持っていたと指摘している。これを含め、江戸時代後期には雑多な神々が祀られるようになっている。我々は、近世以前には雑多な神々が各所に祀られていたというイメージを持っているが、それは中世以来のものではなく、近世後期になってからのものらしい。さまざまな講が盛んに行われたことや(とりわけ山岳代参講の激増)、御師の活躍(実用品を配っていた)などもその背景にあった。しかし幕府は雑多な神々を「新義異宗の禁」として規制した。

次に、近世末期からの一連の新宗教運動が取り上げられ、それらがいずれも「ユートピアを求める思想」の側面を持っていたことが指摘される。

日本の昔話には「鼠浄土」とか「地蔵浄土」といった異郷観があり、それは地下(しかもそんな遠くではなくすぐ近く)にある明るい世界、一種のユートピアであった。膳椀が上流から流れてきてユートピアたる隠れ里が明らかになるといった話も多い。しかしそれらは、単なる富貴の里であって、万能の神のような壮大な観念はないことが特徴である。

また、女ばかりが住む楽天地がどこかにあるという観念もあり、八丈島はそういう女護島だとみなされていた。それには、八丈島の女性優位な習俗が影響していたのかもしれない。甑島もそういう島だったという伝説がある(林笠翁『仙台問語続編』)。

また江戸時代には、「世直し」を民衆が求めるようになっている。大地震が起こった時に「世直し、世直し」と唱えたというのは象徴的だ。日本の「世直し」はメシア的存在が希薄で、地震を起こすのが大鯰であると観念されるなど、壮大な物語・神話と接続されていたのではなかった。

「世直し」の言葉を使った早い例である三河の加茂一揆の実録『鴨の騒立』では、一揆の参加者は「その家の仏壇をこわし、本尊を馬小屋の柱に縛りつけ(p.167)」ている。これは大原幽学や二宮尊徳が先祖祭祀を盛んに喧伝したことと鋭い対照をなしている。これには檀家制度に対する批判もあったのかもしれないが、善政の要求が宗教改革とセットになっているのだ。さらには、田沼政権を倒した佐野善左ヱ門や百姓一揆の指導者菅野八郎が「世直大明神」と称されたことも注目される。なお、「世直し」と似ているが、この世が他律的に改まるという「世直り」もしばしば用いられた。

幕末の新宗教は、これを例えば「弥勒の世」(富士講、天理教)と繋げるなど、宗教的次元で再構成した。また不二道では「元の父母の創始した世界」に「おふりかわり」するとしたし、如来教のきのは世界の始まりは「泥の海」だったという創造神話を述べた。それまで、民衆思想の間には創造神話が希薄だったのに、幕末になっていろいろな創造神話が生まれてくるのは大変興味深い。

著者は本書を「民俗学的視点から歴史像を再構成する可能性を試みたもの(p.187)」と述べており、特に「民衆宗教の創出されるプロセス」に注目している。特に「日常性の中から、非日常性としての形象が創造されるプロセス(p.189)」を分析したという。しかしながら、私には著者の分析は観念的すぎるように思われ、「民衆宗教」が分析の枠組みの前提となっている点で、最初から結論を決めてかかっているように感じた。

私には、民衆が求めているものはひたすらに(著者の用語を使えば)「日常性」の幸福であり、それは具体的に言えば順調な農業と、家族の健康と、子どもたちの成長であったと思う。それに役立つのなら、神仏と農業技術と生活の知恵には何の違いもなく、完全に同じ次元で見ていたと考えられる。

にもかかわらず、幕末に創造神話をもつ新宗教が生まれてきたのはどうしてなのか。確かにそこには「非日常性」を持つ何かを求める心理があった。つまり、幕末の民衆は、「日常」に飽き足らなくなっていたのだ。どうしてそうなったのか。その点に関して、本書はあまり目を向けていないようだ。それは「民衆宗教」の創出を宗教的次元のみで説明しようとしているからだと私は思う。幕末に民衆の暮らしがどう変わっていったのか、そこを見ないことにはこの動きは説明できないのではないだろうか。

いろいろ考えさせる事例は豊富に提出されるが、民衆宗教を見る目はやや一面的な本。

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2024年5月6日月曜日

『もう一人のメンデルスゾーン——ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルの生涯』山下 剛 著

メンデルスゾーンの姉の生涯を述べる本。

クラシック音楽の歴史において、随一の才能を持っていたのがフェーリクス・メンデルスゾーンであるが、その姉ファニー・メンデルスゾーンも弟に負けず劣らず音楽の才能があった。しかし音楽家として成功した弟と違い、その活躍の場は限られ、家庭人として一生を終えざるを得なかった。本書はこの知られざる作曲家・音楽家、ファニー・メンデルスゾーンに光を当てるものである。

彼らの祖父モーゼスは低い身分のユダヤ人として生まれたが、勉学に勤しみ哲学者として大成した。『モーセ五書』のドイツ語訳をしたのもモーゼスの大きな功績である。彼は子どもの教育にも極めて熱心で、長男ヨーゼフと次男アーブラハムは金融業の世界で目覚ましい成功を収める。このアーブラハムがファニーの父親である。

一方、母親はレーア・ザロモン。彼女は裕福なユダヤ人銀行家の娘であった。アーブラハムはかつてフランス贔屓だった(つまり共和制に憧れた)が、レーアと結婚して社会的地位も安定するとプロイセンに適応して愛国者になった。彼はユダヤ人として最初のベルリンの市参事会員になっている。その背景には、フランス支配下の重税や徴兵、文化統制や検閲により、フランス革命への幻滅があったこと、ドイツ統一を求める民族主義の高まりが指摘できる。この時代、「ユダヤ人解放令」によってユダヤ人は建前としてドイツ人と同様の権利を認められたが、民族主義の高まりの中で反ユダヤの動きも起こってくるのである。

アーブラハムはこうした中、子どもたちに厳格で高レベルな教育を施し、ドイツ人以上にドイツ文化を身につけさせた。さらに子どもたちはキリスト教徒として育てている。ファニーやフェーリクスは利発で、様々な面で優れていたが、殊の外音楽には優れた才能を示し、作曲をツェルターに教わった。ファニーはフェーリクスより4歳年上だったので、フェーリクスよりも早く作曲に習熟した。しかし父親は作曲に熱中するファニーを諫め、「女らしさだけが女性の勲章」と諭している。

ところで、ツェルターはジングアカデミー(ベルリンの民間音楽組織)の監督であり、音楽教育家(マイアベーアの師)でありまたオルガニストでもあったが、驚いたことにレンガ積み職人でもあった。彼は不安定な音楽の仕事の収入を補うため、王立協会アカデミーの教授になった後でも、職人との二足のわらじを履いていたのである。

一方、メンデルスゾーン家には湯水のようにお金があった。旅行をすれば王侯貴族の行列のようなのだ。フェーリクスは父に連れられて見聞を広め、当時神のように崇められていたゲーテにも紹介された。ファニーも追ってゲーテと面会したが、弟と同程度の音楽の技術や才能があったのに、彼女が話題の中心になることはなかった。ファニーはちょっと音楽の得意な娘さんとしか扱ってもらえなかったのである。なおフェーリクスは大学に進学しているが、ファニーは進学させてもらっていない。

そんなファニーが力を注いだのが、メンデルスゾーン家で定期的に行われる日曜音楽会である。これは私的な演奏会であったが、各界の名士が参加し、自作を披露できる場になっていた。ファニーは優れた歌曲を書き、またフェーリクスの「無言歌」にもファニーの作品が紛れ込んでいるのではないかと考えられている。

ファニーは画家のヴィルヘルム・ヘンゼルに求婚される。しかし両親は直ちに結婚を認めず、ヴィルヘルムはその後5年間ローマに留学。その間、彼はメンデルスゾーン家の人々を理想化した肖像画を送って求婚し続けた。留学から帰ると、ヴィルヘルムはプロイセンの宮廷画家に任命され、1829年に結婚を認められた。

この1829年には、フェーリクスが中心となりバッハの『マタイ受難曲』の復活公演が行われているが、これにはファニーも重要な役割を果たした。ファニーは弟以上にバッハを崇拝しており、13歳の時、父アーブラハムの誕生日にバッハの平均律第1集の全24曲を暗譜で弾いている。なお、これは一族に賛否両論を巻き起こしたらしい。あまりにも音楽に入れ込みすぎているというのだ。

そして同年、『マタイ受難曲』の上演が終わると、フェーリクスはイギリスへと旅立った。「ファニーはその後も家族や大勢の友人たちに囲まれていたが、憂鬱に取りつかれ、心には大きな穴が開いたようだった(p.89)」。ファニーにとって、フェーリクスは自分の分身であり恋人のような存在だったのである。この年の1月4日からファニーが日記を書き続けていることは象徴的だ。

ただ、ファニーの家庭生活は幸福だった。25歳の時には男児を出産。バッハ、ベートーヴェン、フェーリクスに因んでゼバスティアン・ルートヴィヒ・フェーリクスと名付けられた。ヴィルヘルムは音楽の素養はなかったが、同じ芸術家としてファニーの創作活動を応援した。逆にフェーリクスは、姉の音楽の才能を大いに買いながらも、主婦の役割に徹するべきだと主張していた。このあたりはとても面白い。

ファニーが30歳の時、父アーブラハムが死ぬ。ファニーの創作は父を喜ばせたいとの思いが強かったので、父の死去はその意欲を減衰させた。またフェーリクスは実家住まいではなかったので、自然とファニーが一族を取り仕切る役目となり、自分自身の時間が持てなくなった。日曜音楽会も中止され、ファニーは作曲の意欲を失った。そこには、結局自分の作品を理解してくれる者が誰もいないという孤独感も伴っていた。フェーリクスに手紙を書いても、そこに温かい言葉はなかった。ファニーは深刻な鬱状態に陥っていく。

ファニーは弟の顔色を窺いながらも、歌曲集を出版。フェーリクスはそれに対してお祝いの言葉一つ述べず、母には「芸術家になるにはファニーには意欲も使命感もない」などと書いている。この時期、彼は彼で追い詰められていたのであるが、姉の才能を理解しながら(彼は「生涯にわたってファニーを音楽の手本として仰ぎ、自作に対する彼女の批評を最高のものと見なした(p.196)」)こういう切り捨て方をしているのは驚きである。父の死後、フェーリクスがアーブラハムの役割を引き継いで、女性を家庭に押し込める言動をするようになっていた。

そんな中でも、1838年、ファニーは生涯で唯一の公開演奏を行っている。上流階級の人たちによる慈善講演会(収益を貧しい人たちに寄附する)である。イギリスの音楽批評誌「アシニーアム」はファニーについて「ミセス・シューマンやミセス・プレイエルと並んで、超一流のピアニストとして世界中に有名になっただろう」と書いている。だがファニーは職業人として有名になるには、あまりに上流階級のお嬢さんすぎた。

33歳の頃、ファニーたちは家族で1年にわたるイタリア旅行に出かけた。ファニーは最初こそ落ちぶれたイタリアの姿に幻滅したが、ローマでフランスの芸術家たちと知り合って意気投合。彼らはファニーに演奏をせがみ、ファニーはバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽の本格的な作品を次々と弾いた。彼らはその素晴らしさに感動し、「ファニーは日に日に心が解放されていくのを感じた(p.151)」。ファニーは人に認めてもらえる喜びを噛みしめた。なおこのフランスの芸術家の中に、『アヴェ・マリア』で有名なグノーがいる。『アヴェ・マリア』(バッハ平均律第1巻第1曲のプレリュードを伴奏にした歌曲)はファニーの影響で作曲されたものである。こうして、たった2ヶ月間であったが、ファニーはローマで人生最良の日々を過ごした。

ローマから帰ると、ファニーは旺盛に音楽活動に取り組み始めた。ベルリンは三月革命前の混乱した政治状況にあり、母の死などもあったが、ファニーには平穏で幸せな日々が続いた。ヴィルヘルムもファニーの音楽活動を励ましていた。また司法官試補コイデルと出逢い、彼がローマでのフランス人芸術家たちのようにファニーを崇拝して、活気をもたらした。コイデルの助言でファニーは歌曲の出版を決めた。その時にフェーリクスに出した手紙にはこうある。「私は14歳の時にお父さんが恐かったように、40にもなって弟たちが恐いのです(p.186)」。フェーリクスは保守化しており、政治的に急進的な青年ドイツ派の作家や女性の社会活動家には嫌悪を示していた。しかし姉の曲集出版にはしぶしぶながら「了承」を与えている。ファニーはフェーリクスからわざわざ了承を得なければならなかったということが、彼らの関係性を表している。

それでもファニーは許しが得られて幸せだった。編集や曲作りに幸せいっぱいに取り組み、次々と作品を出版した。「当時の音楽界は女性に独創性など認めていなかった(p.194)」が、ファニーは作品で反論できることを励みにして意欲に溢れていた。

なお、同じ女性音楽家であるクラーラ・シューマンもファニーを作曲家として認めていなかったというのが興味深い。クラーラはファニーのピアノの腕には舌を巻いていたが、その活動を全面的には認めていなかった。クラーラは貧しい生まれで、幼い頃から演奏活動で家族を支えていた。彼女らは育った環境があまりにも違いすぎて互いにしっくりこないものがあったらしい。

1847年5月14日、意欲的に活動していたファニーは、突然脳卒中で倒れ、その日のうちに息を引き取った。41歳。遺作となったのは、前日に作曲された歌曲『山の喜び』。「そこには、生きていればファニーの前に開かれたであろう広々とした自由な世界が潑剌とした曲調で描かれていた(p.205)」。

フェーリクスは姉の死に衝撃を受けた。彼は姉の創作活動を妨害していたことに罪悪感を覚え、「まるで姉に対する罪滅ぼしのように(p.210)」その遺稿集をまとめた。そして憔悴したフェーリクスは、姉の死から半年後、38歳で亡くなってしまうのである。フェーリクスの亡骸は姉の横に埋葬された。

ファニーは、上流階級に生まれたことでその可能性を狭められた面がある。同時代のクラーラ・シューマンは働かざるを得ない境遇だったために、女性ピアニストとしてヨーロッパ中で活躍できた。だがファニーは女性が外で働くことが「はしたない」とみなされる階級であった。それでも、音楽活動に理解ある夫のおかげで、その枠内では「才能ある女性に許されていた可能性を当時としては十二分に生かしきったとも言える(p.215)」と著者はいう。

とはいえ、ファニーの人生には女性が直面せざるを得ない現実が象徴されている。つまり、人生で一番意欲と能力と体力が溢れた時期に、女性は子育てをやらなければならず、子育てが一段落してようやく自分の時間が持てるようになった頃には、もう以前ほどの能力や体力はなく、人生の可能性が狭まっている、という現実だ。現代では、女性が外の世界で活躍することはそれほど悪く思われていない。それでも、女性は人生のある時期、出産や育児にかかりきりになってしまうから、女性は家庭人となるか、自己実現を図るかで二者択一を迫られてしまう。

ファニーの場合、家庭人となったことは悪くなかった。夫は典型的なビーダーマイヤー型(小市民型)であり、現実的なつまらない面を持っていたが、それだけに妻を愛して家庭を平穏に守った。それがファニーの限界を定めた面もあるものの、ファニー自身も家族を愛して幸せだった。夫を亡くしたクラーラ・シューマンが、子どもを家政婦に預けて演奏旅行で飛び回らなくてはならなかったのと比べると、どちらが幸福というのではないが、やはりファニーは恵まれていたといえる。彼女が「忘れられた音楽家」にならざるを得なかったとしてもだ。

なお、ファニーは手紙を大量に書いており、中断はあるが日記を死まで書いていることから、メンデルスゾーン研究の基礎資料を残してくれた。「ファニーの一人息子ゼバスティアンはモーゼに始まるメンデルスゾーン家三代にわたる評伝を著し、これがその後のすべてのメンデルスゾーン研究の出発点となった(p.216)」 。

非凡な才能を持ちながら、時代の制約からついに活躍できなかった女性を描く力作。

【関連書籍の読書メモ】
『メンデルスゾーン』ひのまどか著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/04/blog-post_13.html
平易かつ内容のしっかりしたメンデルスゾーン伝。

『クララ・シューマン』萩谷 由喜子 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/04/blog-post.html
クララ・シューマンの伝記。世界で初めて、妻・母としてコンサートピアニストの人生を全うした一人の女性の生涯。

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2024年4月29日月曜日

『近代天皇制と伝統文化──その再構築と創造』高木 博志 著

近代天皇制と伝統文化との連関を論じる本。

明治維新以降の近代天皇制においては、前近代の文化を再構築した「伝統文化」を不可欠とした。郷土愛が愛国心に包摂されていったのも、近代日本のアイデンティティの確立にも、国体を体現する伝統文化が大きな役割を果たしていた。

一方で、明治政府は神仏分離政策によって神仏の文化を変容させ、また近世の様々な文化を迷信として退け、破壊してもいた。維新以降の政府が天皇制のよりどころとした「伝統文化」は、自然発生的に形成されてきたものではなく、遡及的に再構成されたものであったのである。伝統文化という概念そのものが、政府に都合よく取捨選択されて生み出されたものなのだ。

第I部 天皇制

「第1章 伝統文化の再構築と創造」では、京都の位置づけの変化を中心として、明治政府の伝統文化政策を述べる。

明治初年においては、政府は開化政策にやっきになっていた。しかし明治10年、約半年にわたり京都に天皇が滞在した行幸を契機として、「世界の「一等国」には歴史や伝統文化が不可欠とのコンセプト(p.21)」が浮上する。

神仏分離以降、等閑視されていた皇室関係寺院や(歴代天皇の陵があった)泉涌寺(せんにゅうじ)も、この頃に保護が始まる。もっとも、神仏分離政策によって皇室祭祀は全て神道によることとされたため、仏式の法要等はあくまでも皇室の私的なものと整理された。

明治16年(1883)には、岩倉具視の「京都皇宮保存ニ関シ意見書」で京都復興策が提起される。そこでは即位式・大嘗祭を京都御苑で行うことを核とし、賀茂祭・石清水放生会・春日祭の「旧儀」を復興するなど古都京都の旧慣保存を訴えた。1880年代は、近代化と歴史や伝統が組み合わされて、国家のアイデンティティの形成が図られる時代だった。そうした情勢の中、明治16年2月には宮内省に諸陵寮が復活。6月には泉涌寺の開山俊芿(しゅんじょう)に大師号が宣下された。

明治19年(1889)、伊藤博文は、所在の分からない山陵があるのは「外交上信を列国に失ふ」と述べ、同年、未治定の13陵が一括して決定された。現在の外交感覚から見て、伊藤博文の懸念は全く理解できないが、歴史と伝統こそ国の立脚するところとの観念があったためであろう。

こうした旧慣保存政策の嚆矢となったのは、明治4年(1871)4月の「大学」からの建言「経歳累世ノ古器旧物敗壊致候モ不顧、既ニ毀滅ニ及候(p.31)」との批判である。この時期、未だ廃仏毀釈は一部で進行中であったし、同年11月の大嘗祭は京都ではなく東京で行われ、依然として前近代の伝統は軽視されていたが、経文・仏像・仏具などが「古器物」として位置付けられた。ただし町田久成などがおこなった翌年の宝物調査でも、仏像はあまり取り上げられなかった。仏像は、信仰がなくては意味がないものとの観念があったのかもしれない。

町田は、社寺の貴重な宝物が国外に流出することを懸念し、宝物の保存に取り組んだ。明治10年(1877)の大和行幸の際、法隆寺から宝物献上の願いが出されたことを契機に、皇室は大量の御物を集積することとなり、御物は一般の文化財と別に秘匿された形で保存されていくことになる。

一方、明治11年(1878)には内務省が社寺の「創立再興復旧」を認める。追って400年前を指標にした古社寺に限定されるが、建造物の保護政策が採られた。さらに翌年、大隈重信は延暦寺の「旧観」保存を訴える。内務省社寺局長の桜井能監も大社寺の法会などの復興を建議している。

こうした趨勢の背景にあったのは、列国との関係であった。列国は近代的な相貌の裏に、王室儀礼を重視するなど伝統文化をアイデンティティにしていた。各国に独自の文化があることが「一等国」に不可欠だと考えられた。特に岩倉具視は東京と京都を、ロシアにおける首都モスクワとサンクト・ペテルブルグの関係になぞらえ、首都と古都の役割分担を構想した。その背景には、京都在住の華族たちを保護する意図や、彼らの意向があった。

しかし、京都の伝統文化は、近世以前のまま保存されたのではなかった。それを象徴するのが京都御所・御苑である。京都御所は近世には庶民にも開かれた場所だったが、外交に活用するための場として再整備された。同時に、東京の皇居も伝統を強調する形で整備された。

この頃の政府は、対外的には伝統と歴史を強調しつつ、同時に近代国家としてのしつらえを整えていた。そんな中でも、私的な領域では実際の伝統が細々と連続していた。宮中でも、仏教信仰は続けられ、とりわけ英照皇太后・昭憲皇后は泉涌寺に帰依した。1895年、明宮(はるのみや=後の大正天皇)が病気になった時は泉涌寺で焰魔天供が執り行われている。さらに1912年、明治天皇の強い意志により、京都の桃山に御陵が造営された。明治天皇の死が、古都京都の変化の区切りとなった。

「第2章 近代皇室の仏教信仰」では、維新後の皇室で続いた私的な領域での仏教信仰とそれを担った泉涌寺について述べる。

中世後期から近世の歴代天皇が葬られたのが京都の泉涌寺である。同寺の月輪陵(つきのわのみささぎ)には、後水尾天皇以降、仁孝天皇までが九重石塔で葬られている。泉涌寺は応仁2年に炎上したが、後水尾天皇の院宣により再興されて近世の御陵所として確立。また慶応元年(1865)の孝明天皇の勅「皇祖御尊敬之訳ヲ以、諸寺之上席たる」は明治以後の地位向上の根拠となった。

しかし慶応2年、孝明天皇の葬儀は火葬の形式を廃し、僧侶を排除した形で行われた。その山陵後月輪陵は円丘で、泉涌寺と分離する形で造営される。明治4年には皇室の神仏分離が行われ、京都御所の御黒戸も廃止。門跡号や比丘尼御所、院家、院室など、皇室が仏教界を後援する枠組みが否定され、大元師法や後七日御修法といった皇室の仏事も廃止された。同年11月には、恭明宮が完成し、御黒戸の位牌等が奉遷され、京都在住の60歳以下の隠居女房・薙髪女官等がことごとくそこへ移り住んだ(明治6年、恭明宮は廃止)。同年、社寺上知令によって泉涌寺の寺領も大きく削減され、財政的に困窮した。

また泉涌寺は真言宗の所管となった。明治9年(1876)には泉涌寺や仁和寺など32寺に定額金が下賜されることとなり、京都の各寺院から泉涌寺に歴代天皇の尊牌が合併された。翌明治10年(1877)、京都府は泉涌寺改革に乗り出し、長老以下、住職9名が罷免された。そして翌年、内務省が真言宗古義派の佐伯旭雅を長老に任じて、旧スタッフを一掃して皇室との関係が再樹立された。この頃から旧慣保存策の一環で、明治初期とは逆に保護が加えられるようになる。特に、未解決であった歴代皇妃・皇親の祭祀を泉涌寺が行ってきたことが、彼らを供養し続ける同寺の存在を重くした。

そして皇室においても仏事が私的な領域で認められた。ここで面白いのは、明治11年(1878)の規定で、歴代の天皇・皇妃・皇子女等は神式で祭ることとするが、宮中の奥向きや英照皇太后宮や旧女官からの神祭の献物は、3分の1は陵墓掌丁に下し、3分の2は泉涌寺の僧侶に配分することとしている点だ。皇室で仏教を棄てなかったのは女性であった

明治16年(1883)、泉涌寺は天智天皇以降の歴代天皇の菩提寺として位置づけられ、宮内省との関係はさらに緊密となった。明治30年(1897)、英照皇太后が死去すると、表向きは神式で葬儀が行われたが、実際には泉涌寺としても密教の引導法要を行った。もちろん国家の側はそれを好ましく思わなかったが、生前、皇太后が仏教に帰依していたことやこれまで仏式で歴代皇族が供養されてきた歴史を楯に泉涌寺側は認めさせた。

明治31年(1898)に死去した山階宮晃親王の場合は、遺言では「真言宗勧修寺之例」で葬儀・供養を行うよう希望されていたが、公的には却下された。だが実際には私的な領域では仏僧が行われた。なお山階宮は40代後半まで僧侶として生活を送ったが、文久4年には宮門跡の還俗推進・門跡廃止論を唱えている。維新後は京都に隠居し、「近世と変わらない神仏習合的な信仰世界に生きた(p.95)」。

第II部 歴史意識

「第3章 奈良女高師の修学旅行」では、奈良女子高等師範学校の修学旅行を取り上げて、近代の修学旅行の意義を述べる。

修学旅行といえば、現在では卒業までに1回だけ行くものとなっているが、1900年代初め、元来の修学旅行はそうではなかった。例えば京極尋常小学校(京都)では、各学年が行くものだったし、梅屋尋常小学校では毎月行われた。春秋の2回、各学年が行く学校もあった。そのように度重なる旅行が行われたのは、実際に歴史の現場を見て回ることに大きな教育的効果があったからである。そして最終学年での伊勢への修学旅行が一般化していることは、それが単なる歴史の勉強ではなく、敬神の観念と結びついていたことも示している。修学旅行は皇室の聖地をめぐるものであった。

そこには、旅行が一般化していく趨勢も影響していた。修学旅行は、多くの階層の子どもにとって初めて行く均質な「旅行」だった。尋常小学校の修学旅行によって日本のツーリズムの文化が広まったともいえる。

本章では、こうした修学旅行の在り方について、奈良女高師の例を通じて分析している。奈良女高師では卒業するまでの4年間に10回以上の多様な修学旅行が持たれた。そこで巡られたのは、神武陵・橿原神宮・飛鳥の古寺、豊臣秀吉関連の史蹟、嵯峨野など古典文学と関連する場所、西陣織・清水焼の工場や試験場など産業関連の場所、神社仏閣といったものだ。それらは、考えなしに巡られたのではなく、教育的意図を持って計画され、文系理系でコースを違えるなど、国家にとって必要な知識を習得するように構成されていた。

「第4章 「郷土愛」と「愛国心」をつなぐもの」では藩祖三百年祭をキーにして地域の歴史が国史に包摂されていく経過を述べる。

日清・日露戦争の時期が、幕藩体制の開始から300年後にあたっていたため、各地で藩祖三百年祭が行われた(著者はこれを「紀年祭の時代」と位置づけている)。この時代に、「郷土愛」と「愛国心」が接続されたと著者は見る。

この時代、(1)「武士道」が国民全体の倫理思想になり、(2)名教的歴史学(道徳のための史学)が確立、(3)国民道徳が広く流布するようになって(例:井上哲次郎)、(4)「国史」と「郷土史」が連動するようになる。つまり、地域の歴史が国家の歴史の中に、名教的なものへと変換されつつ、位置づけられた。

維新政府は、当初「賊軍」への慰霊を認めなかったが、明治7年(1874)にこれを認め、また明治22年(1889)の大赦令で「賊軍」の罪は公的に許された。こうしてかつて賊軍とされた旧藩主家らにとっても、日本国は敵対的なものではなくなっていった。

このような趨勢の中、明治22年の東京開府三百年祭が紀年祭ブームの幕開けとなった。徳川家康への顕彰がおおっぴらに行われ、しかもそれは明治天皇への崇敬と矛盾していなかった。この祭典は地方へと波及し、金沢開始三百年祭、前田利家三百年祭、仙台開府三百年祭、そして平安遷都千百年紀年祭など、国家との関係にかかわらず、各地で紀年祭が催されたのである。

それらの藩祖顕彰活動で強調されたのが、歴代の藩祖が「勤王」であったとの事績であり、国家もこれに応えて旧藩主へと追陞・贈位を行っている。なお、藩祖顕彰においては、それを祀る神社が紀年祭の時代に先立って創建されていた。例えば伊達政宗を祀る青葉神社が1874年に創建され、1914年には県社であった青葉神社を別格官幣社に昇格させようとする動きが現れた。

こうした時代を経て、大正6年(1917)の戊辰政争50周年の各地の記念式典が「賊軍」の慰霊や顕彰の画期となった。

地域の歴史が国家に位置づけられたのは、国家の側からの動きというよりは、地域の側からの自発的な動きと考えられる。しかもそれは他の城下町との対抗的な意識から、競って国家の側に立っていった結果であるように思われる。こうして自然には繋がらない「郷土愛」と「愛国心」が連動するようになるのである。

「第5章 桜の近代」では、近代日本において桜にナショナリズムが託されていたことを述べる。

桜は、近代日本にとって特別な存在だった。しかも在来の山桜やしだれ桜ではなく、一斉にさくソメイヨシノこそが重要だった。ソメイヨシノは、「文明」や「近代」を表すものとして爆発的に普及した。ソメイヨシノは、まず堤防や軍隊・学校、郊外住宅など、近代的な景観とともに植えられる。

本書に述べられる弘前の場合は象徴的だ。弘前では、荒廃した弘前城に旧藩士が1882年に桜を植えたが、城を物見遊山の場にするのかと非難を浴び伐採される。ところが日清戦争後には、陸軍省が軍用地としてきた城址を市や旧大名家に払い下げる動きとなり、弘前城も公園として整備される。その頃には、桜は武士道や男性性の象徴とみられており、弘前城にも日清戦勝記念として植えられて、津軽の御国自慢の表象となっていった。城と桜との組み合わせは全く伝統的なものではないが(伝統的には城と松)、「日本文化」を表すものとして海外へのイメージとしても使われた。

逆に京都では、ソメイヨシノは歓迎されなかった。在来の桜の文化や歴史があったからだ。対外的には日本文化を象徴していたソメイヨシノが、伝統都市である京都では忌避されていたのが面白い。

桜は、コロニアリズムとも関わっていた。朝鮮には盛んにソメイヨシノが植えられたのだ。朝鮮での「1911年から1925年までの記念植樹の面積は8万1212町、本数は約2億4336本にのぼった(p.194)」。昌慶苑(李氏朝鮮時代の王宮を公園として整備した場所)にも、日本の城址に桜が植えられたようにソメイヨシノが植えられ、桜の名所となった。桜によって、朝鮮の王権と朝鮮の文化が上書きされた。朝鮮にも在来の桜はあったが、その価値は日本人からは、取るに足りないものとみなされていた。そして「桜の花は日本文化固有という言説は、桜を同化の象徴とするイデオロギーと表裏一体にあった(p.197)」。

もちろん、朝鮮人からは桜は冷ややかに受け止められていた。だからこそ、昌慶苑の桜は解放後に伐採されたのである。しかし、今ではソメイヨシノが近代日本のナショナリズムを表象していた記憶も薄れ、現在では朝鮮でも桜が植樹され、日本と同様に桜前線が報道されている。

なお、本章を読んで、桜と軍との結びつきに改めて気付かされた。靖国神社や千鳥ヶ淵には桜があり、 特攻機「桜花」があり、軍歌「同期の桜」があるのだ。一斉に咲き、一斉に散るソメイヨシノは、軍隊との相性が良かったのだろう。近代日本を象徴するもう一つのアイテム「制服」にも、そのボタンに多く桜がデザインされていたのはおそらく偶然ではない。

第III部 文化財

「第6章 20世紀の文化財保護と伝統文化」 では、第一次世界大戦後の文化財をめぐる動向を述べる。

1911年、史蹟名勝天然記念物保存協会が発足する。会長徳川頼倫(よりみち)、副会長徳川達孝(さとたか)以下、井上友一、床次竹二郎、九鬼隆一(以上官僚)、山口鋭之介(宮内省諸陵頭)、正木直彦、本多静六、黒板勝美、三上参次(以上学者)などがメンバーであった。それは単に旧蹟を保存するのではなく、欧米の文明を相対化し、日本の「国体」や日本独自の文明を探る取り組みであった。

1919年史蹟名勝天然記念物保存法が貴族院に提出される。内務大臣の水野錬太郎は、史蹟等は「国家ノ精華ヲ発揚スル」ものだと述べ、地方改良運動以来の国民教化と史蹟名勝保存をリンクさせた(※水野錬太郎は、神社合祀運動の時の内務省神社局長である)。つまり、史蹟名勝は、愛国心を涵養し、国威発揚に役立つもの、ナショナリズムの道具として捉えられたのである。

しかし、史蹟名勝への捉え方には2つの立場があった。第1に国民の厚生や観光を重視する本多静六が代表する立場。第2に保存を優先させる黒板勝美・上原敬二などが代表する立場である。 

このうち黒板勝美は、史蹟名勝天然記念物保存法の制度を作った張本人。黒板は国民道徳を重視した歴史家で、「もし黒板勝美が1936年に倒れなかったら、紀元二千六百年事業をはじめ戦時下の歴史学動員の大部分を、平泉よりも黒板が担うことになったであろう(p.215)」と著者は言う。黒板はヨーロッパ留学の際に各国がギリシア文明を盛んに研究していることを目の当たりにし、逆に現地で文化財が保存されていない(各国の博物館で保存されている)ことから、現地保存の重要性を逆に思い知った。

そこで彼は、帰国後の1912年に「全ての史蹟遺物を差別せず、そのままの現状を保存すべき」とする意見書を提出した。彼は東京帝室博物館に全国から仏像などを美術品として集積するのではなく、社寺で現地保存する施設をつくるのがよいと言っている。この構想は日本では実現しなかったが、朝鮮ではある程度実現された。

また黒板は史蹟の開発に批判的で、欧米の物質文明に対抗して、日本ならではの自然と共存した文明のありようを模索していた。黒板の思想には、そういう先進的な面があったが、史蹟名勝の保存は「国民に公徳心を養成し、国土を愛し、家郷を愛」するために行うという思想も併存していた。これはドイツの郷土保護運動の理念が援用されていた。黒板は史実とは異なることを認識しながらも、「名教的歴史」(国民道徳としての歴史)を重視した。

そして、ツーリズムの隆盛を受け、史蹟名勝が活用されるようになる。これは国民に娯楽を提供する意味と外客の誘致の両方の意味があった。1930年前後の世界的な国立公園指定のブームの中、日本でも国立公園が検討された。内務省では、保護を重視する立場と国民的利用(開発)を重視する立場で対立したが、結局、開発を重視する内務省衛生局が主導し、1931年、国立公園法が公布され、最初の12の国立公園が指定された。

このような趨勢の一方で、文化財から切り離され、国民から秘匿されていったのが皇室財産である。陵墓についても桜は相応しくなく、常緑樹を植えるべきだとされ、荘厳な空間、近寄りがたい空間へと変わっていった。明治神宮の造営事業が、「皇室や神社の景観をめぐる大きな画期となった(p.223)」。常緑広葉樹が第一次大戦後の陵墓や社寺、鎮守の森の「創られた伝統文化」になった。

「第7章 現地保存の歴史と課題」では、これまでの論考とはうって変わって、近年における文化財の現地保存について考察される。

かつて先進国に文化財を奪われた国が、近年その返還を求める運動が行われている。ヨーロッパ諸国に文化財を持ち出されたことは、適切な保存が可能になったというよい面もあるが、その文化財が生まれた国・場所で保存される方がずっとよい。

翻って、日本でも地方の文化財は近代に入って中央に吸い取られてきた。埋蔵文化財を担当する職員が都道府県・市町村に配属されるようになったのはようやく1960年代後半であり、それまでは地方で発掘・保存することが不可能であったとはいえ、それは地方からの文化財の略取であった。黒板勝美はこうした動向に批判を加え、現地保存の方が「遺物の価値は最も多く発揮」できると主張し多くの賛同を得たが、文化財保存行政の中央集権的性格は改まらなかった。

現在、国際的にも文化財の返還は必ずしも順調になされていないが、「文化財は本来あった場所において、地域社会の文化とともにあるべき(p.256)」と著者は考える。

「補論 近代天皇制と「史実と神話」」では、神話や名教的な歴史が復活しつつあることへの危惧が述べられる。

天皇制の根幹には神話がある。しかも近年、一度否定されたはずの神話が復権しつつある。さらに、史実でないとされている史蹟が大手を振って史蹟扱いになっているのも昔のままだ。例えば楠木正成の「桜井の別れ」の国指定史跡「史蹟桜井駅址」は解除されていない。

世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」では、構成遺産名に「仁徳天皇陵」があった。これは被葬者は仁徳天皇ではないと考えられており、学術的には「大山古墳」とすべきものだ。「史実と神話」を腑分けする戦後の学知が軽んじられ、神話が政治利用されつつある。

*****

本書は、2009〜2022の論文を再構成した論文集であり、著者にとって18年ぶりの単著となる。そこに通底するのは、近代天皇制がいかにして支えられたかという視点だ。近代天皇制が機能するためには、天皇の権威を演出する必要があった。その演出のために、神話が事実とされ、歴史が国民道徳とされた。しかしそれだけではなく、「皇室財産の秘匿」(国民から隔絶した皇室の象徴)が行われる一方で、同時にツーリズムが大きな役割を果たしたことが意外だった。

修学旅行は皇室のゆかりの場所、皇室の歴史を学ぶものであったし、日本の偉大さを思い知るのが史蹟名勝めぐりであった。そして、史蹟名勝が「桜」で彩られたのが興味深い。桜が近代日本の国家を象徴するものであったということは知っていたつもりであるが、朝鮮における桜の扱いはたいへん興味深かった。

そして、こうした動きの中で、今我々が「伝統文化」だと思っているものが形成されてきた。国家の側によって「何が伝統文化か」が選別されてきたのだ。それは国家が統一した意思をもって選別したのではないが、結果的には、皇室を支えるものが「伝統文化」であり、追っては国威発揚に資するものが「伝統文化」だったのであろう。

すなわち、日本の「伝統文化」そのものが国家によって創られた概念だったということになる。戦後、それとは違った伝統文化が見直されたが(例えば、被農耕民、縄文、悪党・かぶき者など)、日本は再びステロタイプな「伝統文化」に回帰しつつある。

それは、神話と道徳が綯い交ぜになり、王朝風で、常緑樹が植えられた聖域と、桜が植えられた遊興の場がある、中央集権的で均質な空間なのだ。

伝統文化そのものを近代天皇制から反省させる、警鐘に満ちた書。

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2024年4月13日土曜日

『メンデルスゾーン』ひのまどか著

メンデルスゾーンの伝記。

メンデルスゾーンは、近代西洋音楽の歴史おいて随一の才能を持ち、しかも恵まれた環境に生まれた。また彼は非常なる努力家であり、また勤勉であった。その上、大変教養が深く、人当たりもよかった。才能と努力が両立することは第一級の人物にはしばしば見られるが、彼の場合、天は二物を与えずどころか、与えなかった部分がないくらいであった。

にもかかわらず、ユダヤ人の家系に生まれたことで長く正当に評価されず、未だに「メンデルスゾーンは優美ではあるが深みがない」などという言説がまことしやかに跋扈している。これまでメンデルスゾーンの伝記はいくつか出版されたが、悉く絶版となり、現在新刊で手に入るメンデルスゾーンの伝記として本書は唯一のものだ。

フェリックス・メンデルスゾーンは、銀行を経営する家に生まれた。父方の祖父はモーゼス・メンデルスゾーンという著名な哲学者で、父アブラハムは一代でベルリン最大手の銀行を創設したビジネスマン。母レアはキンベルガー(バッハの弟子)に師事したほどのピアノの腕を持っていた。母が主宰するサロンはベルリンでも屈指のもので、哲学者ヘーゲルや詩人のホフマンなど錚々たる顔ぶれが集った。財力と文化的素養の双方を兼ね備えた家庭だったのである。

フェリックスと姉のファニーは母から音楽の手ほどきを受けて上達、クレメンティの弟子ルートヴィヒ・ベルガーに学び、10歳になってからはバッハの孫弟子の巨匠カール・フリードリヒ・ツェルターに作曲と音楽理論を学んだ。その上、音楽以外のあらゆる学課でも、各分野の第一人者が家庭教師としてメンデルスゾーン家に招かれた。絵を教えるための画家までいた。フェリックスは音楽以外の勉強でも特別すぐれていたが、音楽についてはツェルターも認める神童であった。

ツェルターの計らいで12歳のフェリックスはゲーテと面会。ゲーテの面前でバッハのフーガと即興演奏を見せると、ゲーテは「モーツァルトの再来」と激賞した(本書には書かれていないが、ゲーテは14歳の時に7歳のモーツァルトの演奏を実際に聴いている)。ゲーテはフェリックスを大変気に入り、ゲーテ邸になんと60日間も滞在させた。

フェリックスは完全無欠といえるほどの能力と環境に恵まれたが、両親は子どもたちがユダヤ人であることの不利を感じていた。ベルリンではユダヤ人への風当たりが強くなっていたからだ。そこで両親は子どもたちをキリスト教徒として育て、自分たちも追って改宗した。そして、その改宗をきっかけに、ユダヤ的な姓メンデルスゾーンに、ドイツ的な姓バルトルディを追加して、メンデルスゾーン・バルトルディとなった。これには子どもたちは反発したが、アブラハムのやり方は絶対なのだった。

フェリックスの作曲能力を高めたものに、メンデルスゾーン家で行われる「日曜音楽会」がある。アブラハムは宮廷楽団のメンバー十数人と演奏契約を結び、隔週の日曜日に音楽会を開催したのである。フェリックスはそこで、弦楽シンフォニアやピアノやヴァイオリンの協奏曲、大規模な合唱曲を次々と発表し喝采を浴びた。豪華な昼食も出る日曜音楽会はたちまち評判になり、ウェーバー、パガニーニ、シュポア、フンメル、カルクブレンナーなど大巨匠たちも参加した。序曲『真夏の夜の夢』が発表されたのも日曜音楽会である。

フェリックスは、14歳の誕生日に母方の祖母バベッテ・ザロモンからバッハの『マタイ受難曲』の楽譜を贈られた。祖母の妹ザーラ・レーヴィはバッハの長男フリーデマンにチェンバロを習い、また次男エマヌエルを長年経済的に助けていた。メンデルスゾーン家はバッハ一族と結びつきがあり、多数のバッハの楽譜を所有していた(それらはツェルターに預けていた)。バベッテ・ザロモンはツェルターの許可を得て『マタイ受難曲』の写しを作成しフェリックスに与えたのである。フェリックスは『マタイ』を研究し、それがバッハの最高傑作であると確信した。

ベルリン大学の大学生になっていた20歳のフェリックスは、友人たちと協力してジングアカデミー(ツェルターが監督していた)の演奏、自身の指揮で『マタイ』の復活上演を計画した。師ツェルターは賛成しなかったが、しぶしぶ了承した。そんなことが若造に出来るわけがないと思っていたのだ。しかしフェリックスはスコアを完璧に暗記しており、その指揮は的確で、指導力はツェルターを超えていた。バッハがライプツィヒで『マタイ』を初演してからちょうど100年ぶりの復活演奏は、大成功だった。公演にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と皇太子(4世)の顔もあった。

21歳になったフェリックスは、ヨーロッパ各地に顔を売るため(=音楽家としての経験を積むため)3年がかりの旅行に出された(といってもしばしばベルリンに帰還している)。ベルリンでは反ユダヤの風潮が高まっており、新天地を求める意味もあった。ロンドンでは特に歓迎され、一連のコンサートで「メンデルスゾーン・フィーバー」が巻き起こった。

フェリックスは、イタリアには幻滅し、パリでは社交界の人気者にはなったが作曲者・指揮者としてはデビューできなかった。2度目のロンドン滞在ではセントポール大聖堂でオルガン演奏をしているのが興味を引いた。

フェリックスは各地で観光している間も、仕事をせず時間を無駄にしている罪悪感があった。彼は根っから勤勉なのだ。ナポリでは人々が怠惰であることに憤慨している。フェリックスに限界があったとすれば、この勤勉すぎる性格にあっただろう。「旅行の資金は父から十分すぎるほどもらっていたが、気持ちの上では彼はつねに追い詰められていた(p.136)」。

なお旅行期間中、当然に自分に依頼されると思っていた「宗教改革三百年祭」の音楽をユダヤ人であることを理由に外されるという挫折があった。フェリックスは挫折を知らなかったわけではない。彼は挫折のたびに立ち直った。ベルリン帰還後、準備していた「宗教改革交響曲」を売り込んだものの、ジングアカデミーの反応は冷淡だった。フェリックス自身は作曲に専念したかったが、社会的地位を重視する一族は彼をツェルターの後任になるように勧めた。しかし一族の運動も空しくフェリックスは投票で破れた。反ユダヤ人の空気が横溢していたのだ。

フェリックスはデュッセルドルフ市の音楽監督に就任したが、やる気のないオーケストラの団員、気楽で娯楽性の高い音楽だけを好む市民、拘束時間が長く雑務が多い劇場の仕事に辟易し、さっさと手を引いた。

折よくライプツィヒ市から音楽監督とゲヴァントハウス管弦楽団の第五代音楽監督の就任要請があり、入念な条件の調整の後に引き受けた。フェリックスは26歳だった。この頃、ライプツィヒは人口4万5千人の都市である。フェリックスはオーケストラの団員からも市民からも歓迎された。ライプツィヒでもバッハの芸術が忘れられていたため、フェリックスはバッハの復興に力を入れ、また新しい交響曲の発掘、「歴史コンサート」のシリーズのスタートなど意欲的な事業を次々と手がけて多忙な毎日を過ごした。

フェリックスはゲヴァントハウス管弦楽団を市立オーケストラに昇格させ、また団員に年金制度を取り入れることなどに取り組んだほか、ライプツィヒ市に創立する音楽学校の仕事も引き受けた。今やフェリックスは「ヨーロッパ一忙しい音楽家」であった。

その中でも、聖トマス教会でバッハ作品によるオルガン・コンサートを開催しているのは興味を引いた。これバッハ記念碑を建設するための資金集めのコンサートだった。

こうした多くの仕事を、メンデルスゾーン(第8章以降、「フェリックス」から「メンデルスゾーン」に呼称が変わる)は人任せにしないでどれも完璧にこなした。その結果、彼は慢性的な疲労に陥っていった。ただでさえ忙しい中、プロイセン王からベルリンに創設する音楽学校へ協力してほしいという要請を受けた。メンデルスゾーンは反ユダヤ的なベルリンで活動するのは気乗りしなかったが、王の要請を断ることは困難だったのでしょうがなく引き受けた。しかし高額な年俸と名誉な称号があるだけで、メンデルスゾーンは飼い殺しに近い待遇だった。

一方、メンデルスゾーンが心から楽しんだのがイギリス訪問だった。イギリスではメンデルスゾーンの音楽は芸術として愛され、王室とも親しく付き合った。ヴィクトリア女王がバッキンガム宮殿にメンデルスゾーンを招待してオルガンを演奏させたのがその契機だった。彼は、本心ではイギリスに移住したいと思っていた。

ライプツィヒでは、1843年にドイツ初の音楽学校が開校した(現フェリックス・メンデルスゾーン音楽演劇大学)。第一級の教師陣が集められ、メンデルスゾーンは実質上の校長で、科目はピアノ・作曲・歌・器楽合奏を担当した。ただ、メンデルスゾーンは教師は向いていなかった。「なんでそんなことができないんだ!」と生徒を叱責してしまうからだ。要は、彼には凡人の気持ちがわからなかったのだ。

反ユダヤ的で、思うように活動できなかったベルリンですらもメンデルスゾーンの名声は確立したが、35歳頃にメンデルスゾーンは公的な活動からの引退を考え始めた。彼は過労のため健康を害していた。しかし「子どものときから、周囲の期待にこたえるよう努力してきた習性と、社会のために働くべきだという義務感から、彼は仕事を拒否できなかった(p.267)」。

彼は仕事も社交も楽しそうにしていたが、内心では「自分はほんとうは、人間ぎらい、音楽ぎらい、指揮ぎらい、公の仕事ぎらいなのかもしれない(p.270)」と思っていた。彼はうんざりしていたのだ。幸福を感じるのは、親しい本物の音楽家たちと語ったり、作曲している時だけだった。それでも、決して止まらなかったのがメンデルスゾーンの悲劇、といえば悲劇だ。そのような中で、オラトリオの大作『エリヤ』を完成させ、完全な状態で初演したのである。「明らかに体も神経も疲れはてているのに、自分でやらないと気がすまない(p.274)」メンデルスゾーンは、『エリヤ』のパート譜の仕分けまで自分でやっていた。

しかし過労から耳鳴りと偏頭痛がひどくなり、徐々に仕事を減らした。そんな中でもイギリスには10回目の滞在をしている。ようやく帰宅すると、姉ファニーが死んだとの知らせが届いた。メンデルスゾーンは自分の分身ともいえる姉の死に衝撃を受け、深刻な鬱状態に陥った。そして力を振り絞り、ファニーのためのレクイエムとして書いたのが『弦楽四重奏曲第6番ヘ短調』である。その約2か月後、メンデルスゾーンは卒中で倒れ、病に伏してあっけなく死んでしまった。ファニーの死から約半年後、38歳9か月だった。

葬儀では、最後にバッハの『マタイ受難曲』の最終合唱「われら涙して墓の中のあなたに呼びかける。安らかに憩いたまえ」が演奏された。

本書は全体として、10歳の子どもにも読めるように平易で、しかも大人が読んでも面白い。既存のメンデルスゾーン伝を子供向けにリライトしたのではなく、しっかり現地取材して書いている。また先述の通り、現在新刊で手に入る唯一のメンデルスゾーン伝として価値が高い。本書は『メンデルスゾーン——美しくも厳しき人生』(リブリオ出版、2009年)を増補改訂したもので、宗教音楽については星野宏美の近年の業績を参照しているようだ。

なお本書を読むうえでの私の興味は、メンデルスゾーンのオルガン演奏・作曲にあった。彼の時代、ドイツでは宗教音楽が奮わず、教会のオルガンがやや廃れていたようだ。そんな中、メンデルスゾーンはいくつかのオルガン曲を作曲している。ロンドンではメンデルスゾーンのオルガン演奏は歓迎されているが、ドイツではどうだったのか。どうもメンデルスゾーンは、ドイツでは名声が確立するまではオルガン演奏をしていない節がある。

そもそも、メンデルスゾーンは教会の楽師長(なんていう役職が当時あったのかもよくわからない)をしていたわけでもないので、どこでオルガン演奏をマスターしたのだろうか。もしかしたらペダル付きピアノで練習したのかもしれない(シューマンも使っていた、足鍵盤のあるピアノのこと)。本書はオルガンについては深入りしていないので、こうした点は書いていなかった。

平易かつ内容のしっかりしたメンデルスゾーン伝。

【関連書籍の読書メモ】
『メンデルスゾーンの宗教音楽—バッハ復活からオラトリオ≪パウロ≫と≪エリヤ≫へ』星野 宏美 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/06/blog-post_18.html
メンデルスゾーンの宗教音楽をオラトリオを中心に述べる本。メンデルスゾーンのオラトリオを宗教性から読み解く堅実な本。

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2024年4月2日火曜日

『江戸の農民生活史—宗門改帳にみる濃尾の一農村』速水 融 著

江戸時代の一農村の人口の歴史を述べる本。

江戸時代には、戸籍のような役割を持つ宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう、以下「宗門改帳」)が作成された。これは全国で作成されたのであるが、意外と完全には残っていない。ところが、大垣からほど近い西条村という濃尾平野の小さな村の宗門改帳は、江戸時代の後半97年間分(安永2年~明治2年)が一冊も欠けず完全な形で残されていた。本書は、この史料を詳細に分析することで、江戸時代の個人や家族の行動を追跡調査したものである。

宗門改帳は、キリスト教対策のために導入されたが、全国で同一の方式で作成されたわけではなく、幕府直轄地か私領かでも異なっている。その中で大きな違いは、対象を調査時点でそこに住んでいる者とするか(現住地主義)、そこを本貫とする者か(本貫主義)である。なぜこのような2系統が生じたのかというと、人別改め(賦役を負担する者を測定するもの)と宗門改めという、起源の異なる調査がいつのまにか合体されたためと考えられる。現住地主義の改帳の利点は、出稼ぎの様相がわかることで、西条村はこちらである。なお、宗門改帳の原本は領主に差し出されているため、村に残っているものはその控えである。

宗門改帳は、家族(傍系家族や奉公人を含む)を単位としてまとめられており、史料的に若干の制約はある(例えば妻の名前は「誰某女房」となり明らかでないなど)。しかし「江戸時代の日本以外の前近代社会で、世帯、家族、夫婦、個人の出現から消滅まで、その行動をかくも克明に、精確に追うことのできる社会は世界中どこにも存在しない(p.55)」。著者は家毎にデータをまとめ、そこから個人の人生を復元した。

西条村は人口300人余りの純農村であるが、本書で明らかになる意外な姿は、奉公(出稼ぎ)が大変多いことである。江戸時代の農村では、土地に縛り付けられて一生を生まれた村で過ごした…というようなイメージがあるが、実際には人々はダイナミックに移動していたのである。

そして出稼ぎは、西条村の人口の動向に深くかかわっていた。江戸時代には乳児死亡率はかなり高かったと推計される(出生から最初の人別改めまで生存しなかったものは記録されないので正確な死亡率は不明)。それでも江戸時代のだいたいの期間、出生率は死亡率を上回っていた。にもかかわらず西条村では人口減少に見舞われた期間も多い。それは大量の出稼ぎ奉公による人口流出のせいだったと考えられる。

西条村では、11歳まで生き延びた男女のうち、男子50%、女子62%もの人が奉公を経験していたのである。特に文化13年(1816)には、おそらくは洪水被害により農地が減少したため、現住人口の半数ほどが奉公に出た。なお奉公に小作層出身者が多いのは当然として、地主など上層でもその割合は相当高かった。

出稼ぎ先は、京都・大坂・名古屋が多かったが、幕末にはその割合が減って町場(近隣の地方都市)の割合が多くなった。これは商工業の中心が在郷町に移っていったことと関係しているのかもしれない。

在郷町の奉公を細かく見てみると、1年かせいぜい2年で頻繁に奉公先が変わっていることが意外である。雇う方も雇われる方も刹那的な労働形態であったことが予見される。死亡に至るまで長期間、目まぐるしく奉公先を変えた人がいたことは、我々の江戸時代観を揺るがすものだ。この背景には「奉公人の需給を結びつける周旋業者の存在が想定される(p.131)」。個人的には奉公先に寺院が含まれていることが興味深かった。また、奉公先には武家奉公もある。ここで「天領大垣藩預り地の西条村の住民にとって、支配とは関係のない名古屋、彦根等の武家奉公が相当量に達していることは、都市や農村への奉公が藩領域と何ら関係をもっていないことと併せて、この時期の労働移動に、制度的な制限がなかったことを示している(p.135)」。

なお、人口流出の要因は出稼ぎだけでなく結婚や養子もある。ここでも興味深いのは、婚姻により西条村に来た女性は「少数の村に偏ることなく、広い範囲にわたり、藩領に関係なく拡がってい(p.109)」たことである。藩領が、人々の生活実態の中で意識されていなかったことの証左であろう。それでも、都市から西条村に縁付いて来た女性はほとんどなかったということは、現在と似ている。

結婚年齢は西条村では意外と遅いが、結婚年齢に大きな影響があったのが奉公経験の有無である。特に小作層の女子は奉公に行くことが多かったから、結果的に結婚が遅くなった。ただし結婚した後は定期的に子どもが生まれており、間引きや堕胎が行われた形跡はなく、出産力は高かった。なお独身率は低く、ほとんどの人が結婚したが、離婚率は11%と意外と高かった。

それでは個人に着目してライフヒストリーを見るとどうなるか。本書ではいくつかの例が提示されており、うち3例をメモする。

第1に、村最大の地主の家に生まれ、医師となった「利三郎」。彼は地元に近い村で5年、京都で2年修行して帰村し、分家し医師として開業した。人口300人ほどの農村で医師を開業したのは当時としても珍しい。彼は長男ではなかったが、わざわざ医師にならずとも安楽な生活が送れた階層にあった。にもかかわらず長い修行を経て新しい生き方を選んだところに「江戸時代日本のもつダイナミズム(p.161)」を見出すことができる。

第2に小作農「伊蔵」家。「伊蔵」の父は奉公中に35歳の若さで死亡。今でいえば単身赴任中の死亡だ。その後、母は65歳で死去するまで戸主として留まった(本書には詳らかでないが、「伊蔵」の兄(長男)は成人後も家を継いでいない)。明治民法以前の家の在り方として興味深い。予想されるように、「伊蔵」家は貧しく、彼自身も奉公に出て、結婚して子供をもうけてからは娘たちが次々と奉公に出た。しかし幕末になると大都市への出稼ぎが困難になり、多くの子どもを世帯内に抱えることになった。

第3に「重助」夫婦に生まれた娘。この家も貧しく、子どもたちは次々に奉公に出た。面白いのは、「重助」夫妻の死亡後、娘の一人がおそらくは絶家を避けるため奉公から戻ってきたことである。ところが彼女自身、生涯独身で、53歳にして大坂に奉公に出てそのまま死去し絶家となっている。「重助」家には相続すべき財産もほとんどなかったと思われるが、やはり絶家は避けるべきという意識があったのだろうか。しかしその後、養子も取らず絶家しているのでよくわからない。

これらの例からわかるのは、当時の人がかなり広範囲に移動していたこと、奉公とはいえ、暗いイメージばかりではなく、奉公を機縁として結婚し家族を形成したり、都市住民になっていったことなどだ。さらには、婚姻や養子を通じて「士」と「農工商」がまじりあっていたことも注目される。そして養子の慣行が、農民相互間で想像以上に広く行われていたのも面白い。しばしば彼らは、実子がいるのに養子を迎えて家を相続させた。明治民法以前の日本の「農民の家の継承は、はるかに変化に富んだものであった(p.177)」。

江戸時代後期には、日本は気温低下に見舞われて東北太平洋側や北関東で大きな人口減に見舞われた。同時期、同じく人口減少したのが近畿地方である。近畿は京都や大坂を擁し、経済発展していたにもかかわらずなぜ人口が減ったのか。それは、都市への集住が疫病の流行などを背景に平均寿命を短くし、また出生率を低めたのが理由だったと考えられる。北関東などとの人口減少とは全く理由が違うのである。逆に言えば、農村の余剰人口を都市が吸収していたことになる。つまり都市は農村の人口を一定に保つ安全弁の役割を演じていた。西条村の人口分析はこれを鮮やかに示している。

農村から都市へ一定の人口流出があったことは、もう一つの人口学的メカニズムを生んだ。出稼ぎ奉公してそのまま一生を終えるのは小作層世帯民が多く、小作層の家では絶家の割合が多かった。では小作層は少なくなっていったのかというとそうではない。それは、地主層が分家して下方に身分移動することで、常に小作層世帯を供給していたのである。出稼ぎ、小作層の絶家、地主層の分家がうまくバランスを取り合うことで人口と階層割合が一定になっていたのだ。

このことを考慮すると、西日本の各地で幕末に人口増大が続いたのは、近くに大都市がなく奉公先が限られていたことが理由と考えられる。幕末期には西日本の人口増大は限界にまで達していたと思われる(幕末以降の人口増加が低いため)。薩摩や長州、土佐などは江戸時代後半に最も人口増大した地域だった。「人口増大が限度をこえてもたらした社会的緊張が、藩の心ある人々に、危機感を抱かせ(p.203)」、明治維新につながったのかもしれない。

本書は、濃尾地方の一農村の人口という地味な分析を述べたものだが、江戸時代の社会の在り方を考える上でのヒントがたくさん含まれている。特に出稼ぎ奉公についての実態は興味深かった。このような分析が日本各地で行われることでもっと多くのことがわかるだろう。寺院過去帳の分析も見てみたいと思った。

江戸時代の農村の人々がダイナミックに流動していたことを示した良書。

【関連書籍の読書メモ】
『人口から読む日本の歴史』鬼頭 宏 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_1.html
日本の人口の歴史を述べる本。江戸時代を中心として、日本の人口の増加と停滞を概説した良書。

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2024年3月19日火曜日

『日本霊異記』原田 敏明・高橋 貢 訳

日本最古の仏教説話集。

『日本霊異記』は、正式な書名を「日本国現報善悪霊異記」といい、平安時代の初期に薬師寺の景戒(きょうかい)という僧によってまとめられた。その書名のとおり、テーマとなっているのは因果応報だ。善い行動にはよい報いが、悪い行動には悪い報いが現れた…という不思議な話が簡潔でテンポの良い文体で次々と述べられる。

原本は上中下の三巻に分かれ、説話がほぼ時代ごとに配列されており、 上巻は奈良時代以前から聖武天皇の時代、中巻は聖武天皇から淳仁天皇の時代、下巻が称徳天皇から嵯峨天皇の時代までである。

景戒がどのような人物だったのかわからないが、正式な僧であったことを考えると、本書に著された仏教思想は、この時代の公式的な仏教理解とさほど離れてはいなかったと思われる。本書は、当時の人が理解していた仏教の具体的姿を髣髴させるものとして大変興味深い。

まず、本書では「因果の道理」があたかも自然法則であるかのように記述されている。何か善いことや悪いことを行うと、それが結果に直結する。ほとんどの説話では、まるでリンゴが重力に引かれて落下するような説明で、善悪の報いが完成する。これがユダヤ教やキリスト教であったら、善悪の行動→それを神が認知→神が何らかの働きかけをして結果に繋がる、というような話の構造になると思われる。一方、「因果の道理」はなんの超越的存在も必要とせずに実現するのである。

ただし例外もあり、上巻5話では「善神の加護だと言ってよい(善神加護也)」、中巻1話では「仏法守護の神はこれを喜ばず、その怒りにふれた(護法嚬嘁。善神惡嫌)」、中巻36話では「仏法守護の神が罰を与えたのである(護法加罰)」、下巻19話では「仏法の守護神が空から降りて(神人自空降)」、下巻29話では「仏法の守護神がいないことはないことが本当に分かった(諒知、護法非無)」、下巻33話では「仏法守護の神が罰を与えたことを少しも疑ってはならない(更不可疑、護法加罰)」、とされている。こうして書き出してみると結構あるように思うが、これ以外の話ではなんのメカニズムの説明もなく善悪の報いが現れている。

また、「善神・護法(の神)」が因果応報を仲介する場合があるにしろ、この重要な役割を担う「善神・護法」の存在が曖昧で、固有の名称すら持っていないことは、教義の未完成さを示唆している。ただし、閻魔王はたびたび登場し、現世での善悪の行いを踏まえて量刑をしている。とはいえ、閻魔王は「因果の道理」そのものを司っているのではなく、あくまでも(主に地獄への)転生の番人として振る舞っている。

なお、現世で因果の報いが現れることを「現報」と言い、本書には現報の事例が数多く収録されている。よい現報は(1)盲人の目が見えるようになるなどの奇跡、(2)苦難からの救済、(3)長寿・子孫繁栄、が中心である。けっこう現世利益的な現報もあり、特に上巻31話で、仏道修行をした人物が「南無、銅銭一万貫、白米一万石、美女大勢召し給え」と祈願して手に入れた話は、我々の考える仏道修行とあまりにかけ離れた煩悩満載の願いで面白い。一方、悪い現報は、ほとんどの場合、悪死(悪い死に方)である。悪死という言葉は一般的ではないが、本書には頻出する。

来世で報いを受ける事例もある。それには、地獄に落ちる場合と動物に転生する場合がある。動物への転生では、特に牛に生まれ変わった事例が多い(上巻10話、20話、中巻9話、15話、32話)。牛は身近にいてしかもひどく働かねばならない動物だったからだろう。

いうまでもなく、仏教の教理では、生き物は六道を輪廻するとされている。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天の6つの世界で、これを生まれ変わりながら苦しみ続けるというわけである。ところが本書には、地獄へ行く話や動物(畜生)に生まれ変わる話はあるが、餓鬼・阿修羅・天に行く(生まれ変わる)話は全くない。これらの世界は具体的なイメージを伴っていなかったのかもしれない。

本書は全体的には仏教の因果応報を喧伝するが、一部は仏教とは全く関係のない不思議な話も収録されている。例えば、 上巻1話は雷を捉える話、上巻2話は狐を妻とした男の話である。

一方、一見仏教的であるが、その実、全く仏教教理に則っていないのが上巻12話と下巻27話。この2話は、肉身に殺された者の髑髏(の霊)が旅人の協力を得て復讐し、旅人に恩返しをする、という共通した構造を持つ。これは復讐や恩返しという因果応報の枠組みに則ってはいるが、髑髏の霊が、生まれ変わらずにずっと現世に留まっている、という点で仏教教理に則っていない。元来の仏教では、霊は中有の期間(いわゆる四十九日)を過ぎたら生まれ変わる(来世へ行く)とされているが、ここで髑髏の霊がいつまでも留まっているのはなぜなのか。後世に広まることとなる、非業の死を遂げたものの霊はいつまでも現世に留まり続けるという観念(→御霊信仰)は、すでに奈良時代にその観念が芽生えていたようだ。

なお、平安時代以降に関心の的となる極楽往生については、本書では上巻22話や下巻39話でちょっと触れられるだけで、至極あっさりしている。この頃は極楽往生よりも、現報がより重要だったようだ。

ところで、どうして景戒は本書を編んだのだろうか。もちろん仏法を広めるためではあろうが、どこに力点があったか。それは本書で酷い目にあっている人々がどんな人であるかで推し量れると思う。それは、しつこいほどに出てくる「因果の道理を信じない(不信因果)」の人である。ということは、仏教の教理の中でも、特に因果については当時の日本人はピンと来ていなかった、ということなのだろう。因果の道理、因果応報の原則が物理法則のように存在することを示すために編んだのが本書ということになると思う。

ちなみに本書の中心である奈良時代〜初期平安時代は、国家の側では仏教の教理が最も生真面目に受け止められた時代である。その時代においても、「因果の道理を疑うべきでない」とか「仏教を少しも疑うべきでない」とか「信心のおかげだ」といったことが喧伝されるのは、逆に言えば仏教に対する疑いを持つ人が多かったことの証左だ。

中世には、仏教は膨大な典籍を博引旁証することによって論証され、「インドや中国から来た経典に間違いがあるわけがない」というような理屈で仏教は正当化されたように感じるが、本書では経典がどうこう、インド中国云々といったことは全く説かれていない。あくまでも「こんな事がありました」という日本の具体的事例のみによって仏教(というより「因果の道理」)の正統性・妥当性を示しているというところが、本書の著しい特徴だと感じた。

なお、本書に収録された話は、『今昔物語集』などのこれに続く説話文学や昔話のネタ元になっており、説話文学の淵源を瞥見する意味でも興味深かった。

※括弧内の原文については、こちらのページを参照しました。
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/ryoiki/ryoiki.htm

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2024年3月17日日曜日

『方丈記私記』堀田 善衛 著

堀田善衛の読み解く鴨長明『方丈記』 。

本書の冒頭に、著者は「これは方丈記の読解ではなく、私の体験を述べるものだ」という趣旨のことを書いている。

それは、1945年3月の東京大空襲から始まる。著者はこの空襲の直接の罹災者ではなかったが、東京にいた。そしてこの空襲による大火災を遠望し、翌日、天皇がその様子を視察するのにも偶然遭遇した。筆舌に尽くしがたいほどの惨状の中、著者は『方丈記』が恐るべきリアリティを持って、当時の惨状を活写していたことを悟るのである。

『方丈記』には、養和の飢饉として知られる大飢饉や京都の大火が記録されている。この頃は、保元の乱や平治の乱、そして福原遷都など平氏政権の末期にあたっており、戦乱、災害、食糧危機といった人々を襲った惨状は、太平洋戦争中のそれと符合していた。そして上っ面だけ立派で人々を顧みない無責任な体制も、すでにこの当時において完成していたのだ。

19歳の藤原定家が、その日記「明月記」に「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ(=戦争なんて俺の知ったことか)」と、悲惨な時代を超越して芸術のための芸術に邁進していたことを著者は清々しく思っていたのであるが、いざ戦争の惨禍が目の前に迫ってくると、むしろ『方丈記』の迫力が著者に理解されてくるのである。そして「3月10日の東京大空襲から、同月24日の上海への出発までの短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んですごした(p.68)」。

多くの人たちが、惨禍のさなかにあって右往左往するしかなかったのは、今も昔も同じである。しかし鴨長明は、惨禍を直視して、大局的かつ実証的に記述した。同じ時代に、千載和歌集を編纂していた藤原俊成(定家の父)とはなんという違いだろう。千載和歌集は、悲惨な時代にありながら「いったいどこに、兵乱、群盗、天変地異の影があるものであろうか(p.86)」。

長明はこの時代、失業者同然の暮らしをしていた。彼は鴨神社の禰宜の次男として生まれたが、早くに父をなくし「みなし児」になり、日々の生活に必死であったと思われる。父方から相続した家を手放して、10分の1の家に零落した。『方丈記』といえば無常感であるが、それは日々の暮らしに飽いた上級の人々の持つ「もののあはれ」などとは全く違うのである。むしろ「彼の無常感の実体は、あるいは前提は、実は異常なまでに熾烈な政治への関心と歴史の感覚(p.116)」に基づいていた。宮廷とその取り巻きたちによる虚構の世界を、世捨て人として糾弾した果てにあったのが無常感なのだ。

しかし長明は、現実の社会を透徹した目で見つめた傍観者ではない。彼が歌人として上向いてきたのは、それこそ千載和歌集に一首入れてもらったからで、彼はそれに素直に感激している。そして懸命に定家流の幽玄体の和歌を作り、地下人(非貴族)としてただ一人寄人になるのだ。だが後年、それを馬鹿馬鹿しく思ったのか、「今の体は習いがたくして、よく心得つれば、詠みやすし」と言っている。定家は300年前の言葉を使って歌を詠めと言っており、昔の秀歌や故事を残らず頭に入れておかなければ幽玄体の歌はできないのだから、それが「習いがたい」のは当然だろう。しかしそうして作り出された歌は、現実の世界とは何の関係もない歌のための歌、芸術のための芸術であった。そして言葉が現実から遊離して、現実を叙述することができなくなっていたことに、長明は気付いていた。その先に『方丈記』の散文があるのである。

彼は、生きるために懸命になりながら、この社会の馬鹿馬鹿しさにどこか倦んでいた。「世にしたがえば、身くるし。したがわねば、狂せるに似たり」。社会に従えば身が苦しい。かといって、従わず我が道を行けば狂人と一緒である。そして長明は、出家の道を選んだ。世の人からは「世を恨みて出家して(十訓抄第九)」と見えたらしい。長明50歳の時であった。

そして長明は、世を捨てて大原に隠棲し、理性を立て直した。そこで彼が棲んだのが、一丈四方の組み立て式住居「方丈」なのである。『方丈記』は、世界の古典文学では珍しい住居論なのだ。彼は住居の在り方から社会を考える。あまりにも有名な冒頭「ゆく河の流れは絶えずして…」も「世中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」と、住居の話に繋がっていく。そしてその住居論は、当たり前のことながら、快適さや豪華さなどは全く眼中にない。

彼は、贅を尽くした貴族の邸宅が、大火で灰燼に帰すのを見ていたのだ。それよりも、人間が生きるために必要な住居は何か。大火や群盗に怯えずに、自分が自分でいられる住居とは何か。その答えが、山の中の掘っ立て小屋のような家だった。そこでの暮らしはどんなものだったか。長明に一度会ったことがある源家長が隠棲中の長明に再会したところ「それかとも見えぬ程に(=見違えるほどに)やせ衰えて」いた。現代文明の利器などない中での、自給自足の暮らしである。相当に厳しい生活だったと思われる。

にもかかわらず、『方丈記』には、山暮らしは大変だ、などとは一言も書いていない。それどころか「つねにありき(歩き)、つねに働くは養性なるべし」と言っている。一人の力で立っていることを楽しんでいたのだ。だが一方で、彼が透徹した心境にあった、ということもありそうにない。むしろ彼は、社会に「ざまあみろ」とツバを吐きかけていた。捨てられるものはみんな捨て、「言いたいことを言ってやるぞ、文句あっか!」と啖呵を切っていたのである。おそらく、長明は悟りきった隠者ではなく、相当な変わり者、偏屈な頑固者だった。「とてもかくても柔和な風流人などというものではありえなかった(p.203)」。周りの人からは狂人扱いされていたに違いない。「出家をしても、世を捨てても、六十になってもトゲののこる人であった(p.208)」。

「あの当時にあって、かくまでのウラミツラミ、居直り、ひらきなおり、ふてくされ、厭味を、これまた大っピラに書いた人というものは、長明の他にはまったくいなかったのではないだろうか(p.210)」と著者は言う。そして住居を考えることから始まった人間論は、

「夫(それ)、三界は只心ひとつなり」

という堂々たる宣言に帰着する。どんなに豪華な宮殿に住もうとも、心が安らかでなければ意味がない。だがこの「方丈」にいるときは、自分が自分でいられ、「他の俗塵に馳する事をあはれむ(他人が俗塵にまみれあくせくしていることを憐れむ)」。このセリフを、乞食に成り果てた長明がいうのが面白い。

それは痩せ我慢なのだろうか。いや、そうではないだろう。

それは社会が惨状にあるのに、連日の遊宴に浮かれていた宮廷社会に対する痛罵であり、その狂った社会の中で一人正気を保つための「われわれの唯一の逃げ口(p.237)」としての思想なのだ。

【関連書籍の読書メモ】
『定家明月記私抄』堀田 善衛 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/01/blog-post.html
藤原定家の「明月記」を蘇生させた、優れた読解の文学。

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2024年3月16日土曜日

『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著

荘園の通史。

荘園とは私有の農園(とそれに付属する土地)である。中世の歴史の下部構造をなしたものの一つが、荘園であった。墾田永年私財法から約750年、平安時代から戦国時代までの長い期間、荘園は姿を変えながら存続し、日本社会の基調をつくった。本書は、荘園の在り方の変遷を全方位的に述べたものである。

荘園は律令制の改革から生まれた。律令制では公地公民であり、人々に口分田を与えて耕作させた。中国の律令制では自ら開墾した農地の私有を認める「永業田」の制度があるが、日本の令にはこの規定はなく、農地の私有は認められなかった。

土地の私有を認めなければ、当然開墾もなされず、口分田は不足した。政府は百万町歩の開墾計画を立てたがうまくいかず、三世一身法を制定。これは社会に大きなインパクトを与えた。追って天然痘が流行して当時の人口のかなりの割合が死亡し、その鎮圧と復興のために聖武天皇は大仏を建立。743年の墾田永年私財法もその流れに位置づけられる。

墾田永年私財法は、所有できる墾田の面積に位階による制限を設けて開墾を申請制としたものである(位階による制限は772年に撤廃)。孝謙天皇は寺院墾田許可令を出し、寺院による墾田の所有も許可された。こうして土地は公田と墾田(私有地)の2本立てとなった。この墾田が初期荘園である。ただし墾田も公田と同じく租は課された。

東大寺は4000町もの墾田所有枠を与えられ、買収などによって立荘していった。造東大寺司などの官人と僧侶がともに荘園実務を担当している。

9世紀後半からの摂関期には、地震が頻発。10世紀に入ると水害と旱魃が繰り返される異常気象となり、古代村落は崩壊した。班田収授や租庸調といった人頭税は安定した古代村落を前提としていたのでこれが機能不全となり、かわって富豪層と呼ばれる有力農民が出現した。不景気で農民が二極化していったのである。こうして富豪層と貴族や官庁によって荘園の設立が急増した。

延喜2年(902)に藤原時平はこうした荘園を整理する荘園整理令を発し、また長く行われていなかった班田を実施した。しかしこれは結果的に最後の班田となり、班田制は終焉した。

摂関期には、税の徴収が困難となったため、税制の改革が行われた。人頭税(租庸調)から地税へ、そして国司の権限拡大、田堵(たと)による請負制の採用などである。

国司の権限拡大については、地方行政機関の国衙の在り方の改革ということになる。国司は決められた税さえ納めれば統治のやり方は自由になり、守(かみ)の権限が特に拡大されてそれは受領(ずりょう)と呼ばれた。摂関期には郡司の任免権も受領国司に与えられた。こうして受領国司になることは蓄財や昇進の重要な足掛かりになった。国司は課税額を決める権限もあったから、様々な意図で私領に対する税の減免を行った。その免田が集まったのが摂関期の荘園で免田型荘園という。

受領国司は国内の農地を(みょう)という単位に分けて、名の耕作と納税を負名(ふみょう)と呼ばれた農民に年単位で請け負わせた。負名の中の有力農民を田堵という。農民には名の所有権も、継続的な耕作権もなく、実績が伴わなかったら解雇されたが、逆にいえばやり手の農民にとってはのしあがるチャンスにもなった。田堵は多くの耕作者を従えて条件のよい耕作地(荘園を含む)渡り歩く企業的な「プロ農民」だった。

だがこの時期の荘園は国司の裁量で生まれた存在だったので、国司の交替によって廃止されることも多かった。新任国司は税収を上げたいために免田をなかなか認めなかった。ところが任期の終わりになると、貴族・寺社に納めるべきものの未納分を帳消しにするためや賄賂によって免田を認定した。免田の認定とその廃止が繰り返される構造があったのである。

なお国司ではなく国家によって税の減免が認められる荘園があり、これは官省符荘という。

摂関期は、古代的徴税システムが機能不全をきたしていたため、貴族や寺社への配分が滞った。国家や国司は、納税されるはずのものを、ある場所を指定して直接貴族や寺社の取り分とすることでこの問題を解決した。大局的に言えばそれが荘園の成立につながったのである。

11世紀半ばからは気候が安定して農業も安定し、平野部の開発の機運が生じた。この時期には地方行政に大きな改革も行われた。国司の課税裁量権を制限し、税の物品を米・絹・油に単純化した公田官物率法、国免荘の整理を行う荘園整理令、別名制の導入などだ。別名制とは、公領を再開発したものに郡郷を通さずに国衙に直接納税する(つまり徴税権を与える)許可「別符」を与えるものである。それまでの私領・荘園と違い、別名の領主には安定した権利が与えられたから、長期的な支配が可能になった。だが別名は荘園ではなく、あくまで国衙領(公領)であり対象は田畠だけである。

なお他に同類の制度として「保」、郡の中の徴税単位を独立させた「院」がある。

別名は在庁官人(官衙を担った土着勢力)に活用され数多く設けられた。結果として、国—郡—里という古代の地方支配体制から、公領については郡・郷・別名・保・院などが国衙に直属する体制になった。この変化を郡郷制の改編という。

そしてこの時期、「(しき)」というものが形成される。職とは、世襲される役職のことである。在庁官人は職や別名制の活用によって成長し、在地領主という地方豪族に成長していった。彼らは、国家の機能を一部分与されることによって形成されたものと理解できる。

院政期の直前、後三条天皇が延久の荘園整理令を発して荘園整理を実行した。内裏と中央官庁を再建するための財源を捻出するためだった。これはそれまでの荘園整理とは違い、国司ではなく中央政府が直接整理の実務を行い、貴族や寺社などからの干渉を排して実施が徹底された。その実務を行ったのが記録荘園券契所で、ここでは荘園の権利文書をよりどころに半ば機械的に荘園の存廃を決めた。しかしこの仕分けも、天皇・上皇や摂政・関白の後ろ盾があれば回避できた。そのため「皮肉なことに延久の荘園整理令は、当初の政策意図とは逆に、太政官を超越した上皇や摂関から特権を与えられた領域型荘園の設立へと歴史の歯車を回すことになった(p.79)」。

領域型荘園とは、田畠を中核として山野も含めた四至の領域が一括して荘園として指定されるもので、経営が在地領主に任された。摂関期には豪壮な御願寺(天皇・上皇・その妃などが願主になって設立した寺院)の建設が相次いだが、その財源として領域型荘園が活用されたこともその乱立を促した。上皇らの権力によって、それらの荘園には最初から不輸・不入が認められた。摂関期の荘園には地方分権的な色彩があるが、院政期の荘園はむしろ国家の中枢の方が荘園を利用しているようだ。

さらに知行国制も荘園の設立に影響した。知行国制とは、貴族や寺社に特定の国からあがる税収を報酬として与える制度で、国司の任免権も知行国主が持った。この制度もむしろ国家側に恩恵をもたらし、白河上皇は24か国も知行国を持った。知行国ではかなり自由ができたので、上級権力に都合の良い荘園が設立された。そして在地領主にとっても荘園を任されることにはメリットが大きかった。

こうして、数百に上る荘園を領有する本家(上皇・天皇・摂関家など)—複数の荘園を支配する領家(女房・家司)—その下で荘園現地を管理する荘官(在地領主)という3層の支配体制が成立した。これを「職の体系」という。

続く鳥羽上皇の時代には、荘園の設立はよりシステム化されて展開し、日本の国土の半分ほどが荘園になってしまった。特に御願寺とその中の院・堂の設立を名目として荘園が設立された。例えば鳥羽上皇は京都に安楽寿院を設立、そこに無量寿院や不動堂といったものが附属させられ、それぞれが大荘園領主となった。鳥羽上皇は出家するにあたり、安楽寿院領を暲子という皇女に相続させた。彼女は母の美福門院から歓喜光院・弘誓院領も相続した。彼女は出家すると八条院の称号を受け、相続した膨大な荘園群は八条院領と呼ばれる。このほか、後白河上皇によって集積された長講堂領も有名な巨大荘園群である。大寺院も同様に荘園を増やし、また門跡領もこの時代に形成された。

土地支配と税という国家の基幹システムが、国家の中枢自身によって蚕食され、私物化されたのがこの時代の荘園であったといえる。かつては「在地領主が開発した所領を貴族に寄進して荘園が成立し、その貴族も権益の安定のため、より上位の貴族・皇族の庇護を仰(p.105)」ぐことで大荘園が形成されたと理解されてきたが、領域型荘園はむしろ上からの力で成立したと考えられるようになっている(川端新「立荘論」)。

武家政権の時代、荘園は歴史を動かす次の力になった。上皇や貴族たちが荘園を設立するには、領家職・下司職も必要になるため、平家はこうした権益を一族郎党に分配することで一大勢力を形作ったのである。しかしながら、それらは上皇や摂関家との属人的なつながりによって任命されたもので強固なものではなかった。

1181年から翌年にかけて養和の飢饉が起こる。この惨状は鴨長明の『方丈記』に描写されている。そのような中で源平の争乱が始まった。戦いに勝った源頼朝は、「日本の歴史を大きく変える行為をした。それは軍功に報いる恩賞に所職を用い、敵方に加わった武士の所職を没収して味方に分け与えた(p.117)」ことである。

これは「当時としてはとんでもない脱法行為(同)」であったが、頼朝は朝廷に対する反乱軍だったから武力を頼みに上位権力の任免権を無効化した。ところが頼朝は後白河上皇と対立する意思はないと表明し、これに安堵した朝廷は「寿永二年十月宣旨」を出した(1183年)。頼朝らの脱法行為を不問にし、これまで通り年貢を出すように求めるとともに(=年貢を出しさえすれば所職のいかんを問わず)、この命に服さないものがあれば頼朝に処置させるというもので、この宣旨は鎌倉幕府の出発点となった。

また上皇は平家没官領(没収した土地)を全て頼朝に与えた。頼朝は没官領などの所職を戦功があった武士に地頭職という名称で給与した。それ(荘郷地頭)までの郡司職・郷司職ではなく、恩賞を地頭職の名称に統一することで頼朝の任免権を明確化した。

また、頼朝は義経討伐の中で後白河上皇の責任を追及し、「国地頭」の設置を認めさせた。これは国単位の支配権を与えるもので、国地頭は国中の武士を動員することができ、また兵粮米を徴収することができた。これは西国の武士を頼朝の御家人にする布石となった。国地頭は後に守護職になる。

頼朝は御家人を編成していったが、その中心となったのが在地領主としての所職である。御家人になるには、国衙の在庁官人や、郡郷司、荘園の荘官であることが必要だったのである。このあたりの記述は、「土地の支配権を認めてもらう(所領安堵)ことで御家人になった」という石井進らによる従来の説明とだいぶ毛色が違う。御家人の編成においては、むしろ上からの組織化のために土地が道具として使われた観がある。

こうして荘園制は鎌倉幕府によって大きく改変された。職が恩賞化されたことで本家や領家の任免権がなくなり、本家-領家-荘官の3層構造のうち荘官の地位が上昇したのである。これを本書では「いわば在地領主層による強力な労働組合ができたようなものだ(p.124)」と形容されている。

結果として、新たに荘園が設けられることはなくなり、荘園と公領の比率が固定化した。それは全国平均で概ね6対4であったと考えられている。ただし下司職・公文職などの荘園の所職と、郡郷司職や別名などの公領の所職は区別されることなく地頭職として給与されており、荘園と公領の違いは事実上ほとんどなかった。

こうして鎌倉時代には荘園の安定期を迎えた。それらはいわば独立した小世界であり、不入権は検断権(警察権)や債権回収権にまで及んだ。新たに開墾した土地は領家に年貢を出す必要がなかったことで新田開発が促され、農地は4~6割増大したとみられる。幕府は裏作の麦に年貢をかけるのを禁止したので、二毛作も普及した。ただし、鎌倉期には現代までの1200年間で最低気温を記録し、日本史上最悪とも考えられる寛喜の飢饉(1230~32)、その後に起こった正嘉の飢饉を経験している。

百姓の側では、中世では名の保有権が名主職(みょうしゅしき)となって明確化し、相続も可能な財産となったことが古代との大きな違いである。中世では、土地の利用権は安定していた。名は耕作と徴税の単位だったが、それと別に村や郷といったまとまりがあり、これは制度上の位置づけが与えられることは少なかったが、人々は鎮守などを中心に互助を行い、徐々に荘園や名よりも村の結合の方が重要になっていく。

こうしたことを踏まえて中世荘園の在り方を考えると、今の役場にあたるものが荘園であったとみなせると思う。荘園には下司を最上位とし、事務官の公文、測量・地図係の図師などの役職があり、領家から派遣された預所(あずかりどころ)などの役人もいた。ちなみに年貢は田地1反あたり2~7斗ほど。ただし米以外で納めた荘園も多く、運搬の便宜から絹布・麻布が年貢として用いられた。これ以外に雑税としての公事があり、様々な労務や物品を提供した。この中には朝廷の任務も含まれたが、六条御所の門番は各地の荘園から交替で務めていた。「一つの門で延べ1000人前後、合計で延べ5265人が動員され(p.155)」た。こういう動員の連絡はどうしていたのだろうか。かなり社会が安定し、文書行政がいきわたっていたことが推測される。

13世紀後半からの鎌倉時代後期には、荘園制がふたたび変質する。本家・領家と地頭が紛争するようになり、その紛争解決の手段として、荘園を本家・領家が直接支配する部分と地頭が支配する部分に二分する下地中分(したじちゅうぶん)が多用されたのである。地頭が支配する部分にも本家・領家への年貢納入の義務はあったが、なにしろ本家・領家の支配領域ではないので年貢の納入は期待できなかった。そして本家・領家自身が荘園業務の実務を行わなくては支配権が確立できないなら、そもそも本家・領家の存在意義もなく、本家と領家は支配権をめぐって争い、どちらかが実質支配するようになった。こうして支配の3層構造がなくなり、一つの荘園を一つの領主が支配するようになった。この領主を本所といい、一つの領主によって支配される荘園の領域を一円領という。なお貴族や寺社が支配する領域は寺社本所一円領と呼ばれ、軍役を負担しなくてもよかったから、荘園か公領かの区別よりも重要になった。

13世紀後半には、もう一つの大きな変化があった。貨幣経済の進展である。大陸から輸入された宋銭は広く流通し、やがて年貢も貨幣による納入に置き換わっていった。そのため米を換金する時期や市場を選ぶことで差益を生むことができ、荘官・金融業・手工業を一人で兼ねて富を生み出すビジネスモデルが生じた。荘園の支配や年貢収納はこれまでとは違った利益となり、これを代行する代官が増えた。代官には世襲権がなく契約制だったが、そこから利益を求めて既存の枠組みにとらわれない「悪党」が生まれていく。

御家人制が廃止された建武の親政を経て、南北朝の動乱期に至ると、荘園制は再び変質した。源平の合戦に比べはるかに大規模かつ長期間化した南北朝の動乱では、前線に立つ守護の権限が強化されたからだ。知行国主は公領の領主としてだけの意味になり、守護が領域的支配権を有すようになって(守護が寺社本所領の年貢の半分を徴収できる半済令(はんぜいれい)はその象徴)、荘園の所有にも守護の承認が必要となった。また遠方の所領を経営することは不可能になった。

戦乱が収束に向かうと、強大化した守護の力を抑えるため、守護在京制が導入され、半済の撤回や規制を行う応仁の半済令が発せられた。「職の体系」とは別の形で、京都に集住する諸領主層が地方の所領を支配する体制が再建されたのである。

本書にはこの時代の丹後国の領主別構成割合が円グラフになっておりこれが興味深い(p.213)。それによれば寺社32%、幕府関係者等28%、守護領・守護被官16%、国人15%、不明7%となっているが、京都公家は2%しかない。つまり鎌倉室町を経て、没落したのは京都の公家、権門を維持したのが寺社、そして勃興したのが守護ということになる。

南北朝・室町期には村落結合が成長し、また貨幣経済がさらに進展。信用送金のシステム割符(さいふ)もできた。信用送金が発達したのは、宋銭での年貢納入は10円硬貨で何百万円もお金を払うようなもので不便だったからだ。

荘園の支配には、管理委託を請け負う代官が多用されたが、代官には大まかに(1)領主の組織内の人員(直務代官)、(2)僧侶や商人、(3)武家代官の三種があった。ここで面白いのはもちろん(2)で、山僧(→おそらく山門派=延暦寺の僧を指している)や禅僧は財力もあり、幕府や守護との結びつきもあって様々な問題への対処能力も高かった。巨大な荘園領主となった五山派では、教学に携わる西班衆(さいばんしゅう)と、寺の経理や管財を担当する東班衆に分かれており、東班衆は荘園経営・経理の専門集団であった。それらの僧の一部は荘園の代官に任じられて「荘主(そうず)」と呼ばれた。なおその人事権は室町幕府にあった。

この時代、荘園経営に代官が活躍し、年貢の徴収権が「あたかも利権を生む証券のようにやり取り(p.230)」された。この代官請負制が「中世荘園制の最終段階に現れた支配形態(同)」である。もはや領主権は有名無実化していたといえる。

南北朝・室町期は、気温・降水量がともに激しく変動した。応永27年(1420)には応永の飢饉に、1430年頃には異常な高温に見舞われ、徳政や年貢の免除を求める土一揆(つちいっき)が頻発した。室町幕府は将軍権力が弱体化していたからこれに応えざるを得なかったが、荘園は独立した小世界だったため有効に対処できなかった。さらに1450年代には気温が急降下し、1459~61年に寛喜の飢饉と並ぶ中世の二大飢饉である寛正の飢饉が発生した。

こうした中で応仁の乱が起こり、荘園制の核だった京都が破壊されたことで守護在京制も崩壊。京都と地方を結ぶ物流や商人のネットワークも致命的な打撃をこうむった。こうして荘園制は終焉した。ところが荘園は何百年も続いた制度だったので急にはなくならず、徐々に「惣(そう)」という自治村落に再編されていった。荘園が否定されたというより、かつて荘官が行っていた業務の大半が村落によって担われるようになったと理解できる。そして土地支配権は、荘園領主から任命される名主ではなく、土豪や地侍という自然発生的な小領主によって保持された。

本書は全体として、荘園の歴史を教科書的にまとめており、非常に勉強になった。また、気候変動が端々に触れられているのも興味深かった。農業の消長を考える上で基盤となる気候のことが従来よくわかっていなかったのであるが、最近の研究によってこれがかなり正確に明らかになり、史実と照応できるようになったことは大変な進展であると感じた。

そして荘園制の最終形態を迎えていた室町期については、その豊かさが気候に恵まれたためではなかったというのが意外だった。荘園制によって究極の地方分権となり、各地で利益を最大化する取り組みが行われると同時に、国の中心である京都との強固なつながりがあったことが豊かさをつくったのである。

なお、本書を読んでもわかったようでわからなかったのが別名制である。今に残る「別府」の地名はこの名残と考えられるが、多くの荘園の名前は失われたのに、別府が残ったのはなぜなのだろうか。

荘園を学ぶ上での基本図書。

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2024年2月17日土曜日

『近世日本の国家権力と宗教』高埜 利彦 著

幕府と朝廷の両方を国家権力と捉え、宗教統制のあり方を考察する論文集。

近世の日本は幕藩体制にあり、朝廷もその下に置かれた。しかし朝廷が幕府の下請け機関にすぎなかったかというとそうでもなく、独自の権威を保持し続け、また近世後期になると「朝廷復古」が徐々に進展した。

武士や町人、百姓といった大多数の人々は幕藩体制の中で把捉されたが、神職・修験者・陰陽師のような宗教者、相撲取・梓巫女のような芸能者は、朝廷の権威によって身分を保持し得た面がある。つまり、近世日本の宗教を見るにあたっては、幕府と朝廷の両方の目配せが必要になるということだ。本書は、様々な事例からその宗教統制や支配の特質を考察している。

「序」では、本書全体の課題が提示される。近世初頭には幕府は朝廷を支配下に置いた。その具体的な実務を担ったのが朝廷に置かれた武家伝奏である。それを補佐したのが議奏で、武家伝奏と議奏はともに幕府から役料を受け、朝義に与る数少ないメンバーでもあった。この体制は2つの画期で変質していく。第1が4代家綱から5代綱吉の時期(霊元天皇の時期)で、数々の朝廷儀礼や朝儀が復興された。貞享元年(1684)の「服忌令」によって朝廷儀礼が武士の世界にも制度化されたのは注目される。第2が寛政期である。この頃、公家や門跡が自らの権威上昇を図ったことや、官位を持つ神職が増加したことで堂上公家の数が増加した。公家たちは数を頼みに幕府に様々な要求を突きつけるようになった。文化文政期以降は、幕府との対立も辞さないような態度も見られるようになる。こうした朝幕の関係の変化は、宗教者や芸能者の置かれた立場にも変化を与えずにはおれなかった。

「第1章 近世国家における家職と権威」では、相撲と陰陽師を題材に、家職の確立とそれを保証する権威の変容について述べている。

相撲は武士にとっての娯楽だったが、権力は奢侈禁止の立場からこれを規制した。 武家屋敷で行う相撲、つまり私的な相撲については容認されたものの、慶安元年(1648)の触れで勧進相撲・辻相撲は禁止された。その後も辻相撲の禁止が度々触れられているところを見ると、この規制は厳密には守られなかったらしいが、相撲取りたちに打撃を与えたのは言うまでもない。彼らは勧進の許可を盛んに申請したが京都町奉行や江戸の寺社奉行に認められるのは僅かであった。特に享保20〜寛保元年は、幕府は相撲に限らず勧進全般について一件も許可していない。しかし寛保2年(1742)に幕府が政策転換し、勧進の制度を整えたことで堰を切ったように多数の勧進が許可された。その一環で相撲の関係者も勧進の申請をし、これらはほぼ自動的に許可された。申請主体も寺社ではなく相撲取が申請者になるという変化がある。こうして四季勧進相撲(春と夏が江戸、京・大坂が一回ずつ)の体制が延享〜寛延期(1744〜50)あたりに成立した。これは勧進の名目ではあるが、相撲取の渡世のための興行であった。

こうして相撲を堂々と興行できる体制が整えられると、いわゆる「業界」が確立する。そして素人ではないプロの集団が、ショバを荒らされないように自らの権威と権利を守る行動をするようになった。彼らが頼ったのが故実と作法であり、それを幕府も追認して安永2年(1773)には相撲渡世集団の興行特権を保証した。その故実と作法の確立に寄与したのが、木村床之助と式守五太夫による熊本藩士吉田善左衛門への入門である。吉田善左衛門は、後鳥羽院が相撲節会を行った際の行司の末裔だったという。こうして行司たちは相撲作法や故実を充実させていった。ただ、吉田家が本当に行司の末裔だったかは、江戸時代から疑いを持たれており、現在ではとうてい事実ではありえないと考えられる。それはともかく、吉田家の由緒は幕府の認めるところとなり将軍上覧相撲も実現した。こうして「垂仁天皇以来の朝廷の相撲節会と近世勧進相撲とは、吉田善左衛門家の故実を介して接続(p.22)」された。そして吉田善左衛門家は代々世襲して「追風」を名乗り、木村・式守の代替わりにあたって免許状を与えてその地位を保証した。伝統や故実を「創造」することが、「家職の構造」を支えていたのである。

次に、陰陽師の家職とその構造に話が移る。天和3年(1683)、霊元天皇綸旨と将軍綱吉の朱印状が出され、それを根拠に土御門家が全国の陰陽道支配の編成に乗り出した。近世は伝統を再編成する時代だったと言える。全国の陰陽師は抵抗を示しながらも、土御門家の傘下になることで家職が保証されることを選び、土御門家に貢納料を上納していくことになった。そんな中、元禄年間に修験道と陰陽道の間に相論がおこった。両派がともに「占考」をしているというのである。陰陽師はこれを問題視し、寺社奉行に訴えて修験者の「占考」を辞めさせようとした。近世では、現代とは違い職業の「独占」が重要だったのである。結局、これを裁許したのは寺社奉行ではなく、本山派修験の聖護院門跡と土御門家との示談であり、本山派が退く形で決着がついた。これを朝廷側で解決したのは、幕府の力の衰えを感じさせる。そして末端の権利が衝突する際に、それを解決しまた権利を保証するものとして、門跡・本山・本所・触頭などの役割が重要になっていった。家職間の争論と取締の強化により、「家職間の境界が明確になり、(中略)多様かつ重層的な習合した部分が失われていく延長線上に、神仏分離政策や明治初年の習合した宗教(修験道・陰陽道など)の禁止が位置づけられるのである(p.35)」。

近世当初では、幕府・将軍がその地位を権利を公認したことが家職の最大の保証になったのだが、これはいつまで続いたか。おおよそ文化年間には幕府の権威が陰りを見せ、逆に朝廷の機能に依存する傾向が現れるのである。すなわち寛政期と文化期の間で、「権威をめぐる一つの変化」を見出すことが可能である。その契機となったのは、寛政期に光格天皇が自らの父に「太上天皇」の尊号を贈ろうとして多数の公家を巻き込み、それが幕府によって問題視されて撤回させられた「尊号一件」である。ここで朝幕協調の時代が終わり、「権威を天皇・朝廷に求めはじめたターニングポイントとして位置づけうる(p.39)」。

「第2章 近世奉幣使考」では、特に宇佐宮奉幣使の在り方を見ることで、神仏分離の進展と吉田家の神職組織化を述べる。

「七社奉幣使と宇佐宮・香椎宮奉幣使は、延享元(1744)年甲子の年に再興された。七社奉幣使は約三百年ぶり、宇佐・香椎奉幣使は約四百年ぶりのことであった(p.43)」。これは、関白・左大臣一条兼香と右大臣一条道香の提案によって議題に上ったもので、桜町天皇の発意ではなかったようだ。朝廷には往古の伝統を再興しようという明確な意志があり、堂々と幕府に奉幣使を提案した。幕府もこれを認め、この費用のために5カ年500俵を与えることを通知した。しかし桜町天皇はこれを拒否する考えを示す。現実的には費用がかかるので幕府の援助は受けることになったが、幕府からの神事料で行われることを潔しとしない考えが桜町天皇にはあった。

七社奉幣使と宇佐宮奉幣使の再興が決定されたのが寛保3年(1743)。天皇は宇佐宮のついでに香椎宮へも奉幣するべきではないかとし、追って香椎奉幣使も決定された。その後、朝幕では、宇佐使が伊勢・日光奉幣使を超えないようする格の問題が折衝された。七社奉幣使には幕府の関与はほとんどなかったが、幕府は宇佐奉幣使が自らが重視する伊勢・日光奉幣使よりも重くならないようにかなり警戒していた。この折衝の中で、寺社奉行から神社・社家への全国的な直接の伝達ルートがなかったことを露呈しているのは興味深い。

またこの調整の中で、香椎宮の支配関係がはっきりしていなかったのが整理された。香椎宮には社僧護国寺(天台宗山門派)が座主としており、さらに大宮司武内氏がいてどちらが支配しているのか曖昧だった。吉田家はうまく議論を誘導して天皇から吉田家に社家を支配させるようにお墨付きを得た。こうして無位無官であった大宮司に吉田家から位階が与えられた。発遣の前にこういう作業が必要だったのである。こうして発遣された宇佐・香椎奉幣使であるが、幕府による触れが興味深い。そこでは「寺院は泊休ニ難相成候」などの神仏分離的文言があったのである。これを受け、広島藩賀茂郡役所が出した触れでは、奉幣使の通る3日間、釣鐘・半鐘などの鳴り物停止、お通り筋での勤行等の遠慮、僧尼の物見の禁止が指示されるなど、明らかに排仏思想が看取できる。

なお、奉幣使後、香椎宮の支配関係が再び問題となった。よく調べてみると香椎宮は別当護国寺によって支配されていたことが明白で、吉田家はノータッチだったことがわかったのである。寛延の頃には、吉田家もそれを認めざるを得なくなっていた。しかし香椎奉幣使が先例となったのも確かなことだった。吉田家にとって「それまで神仏習合の社僧支配が行われていた香椎宮から、「座主支配被除之」のに絶好の機会となった(p.65)」。

60年経った享和4年(1804)、七社奉幣使と宇佐宮・香椎宮奉幣使が行われた。この際、宇佐・香椎奉幣使発遣にあたって、関白よりの長札「今月十四日御神事也僧尼及汚穢之輩入神境矣」が掲げられ、豊後国日田代官所は「奉幣使之節僧尼重服之輩其外不清之者一切徘徊停止之事」と高札を出した。さらに、原田種美『香椎宮勅使之事』によれば、広島藩では寺塔・墳墓・辻地蔵・そのほか仏事めいたものは菰で隠し、寺院までも見えないように囲いをし、「出家はもちろん剃髪の者は見物はいけない」とか、石塔・卒塔婆・墓石・石仏や辻堂までも隠したり取り除いたりした。ここでは60年前と比べ明らかに「排仏観が増長され、新たに排穢観が登場していることは特筆(p.68)」される。

宇佐奉幣を終えた奉幣使は香椎宮に向かったが、香椎では社僧護国寺と社家とで支配をめぐる争いが続いていた。ひとまず先例通りで話はまとまっていたものの、福岡藩よりの役人の下知により、護国寺がにわかに菰で覆われることになり、なんと20日間も護国寺が隠されたのである。奉幣使は、「香椎宮における神仏分離に大きな推進力となった(p.71)」。

一方、社家にとって奉幣使はどういう存在だったのだろうか。奉幣使の受け入れは多大な費用を要したし、吉田家の支配を受けることになったのも、必ずしも歓迎したわけではない。従前、社家では両部神道や出雲国造家との関係もあった。周辺の住民にとっても、奉幣使の受け入れは多大な準備や費用が必要だったが(社家が負担した費用は氏子の負担に転嫁された)、それはどのような意味を持っていたのだろう。

さらに60年後の元治元年(1864)、再び七社奉幣使と宇佐・香椎奉幣使が発遣した。この時、筑前国における位階を持つ総社家は大幅に増加していた。吉田家の組織化が進行した結果であろう。幕末には、様々なところへ奉幣使が差し向けられた一方、日光奉幣使は文久3年からは格下げになった。幕末に朝廷が権威と権力を確立させる過程において、奉幣使は一定の役割を果たしたと評価できるのである。

「第3章 江戸幕府と寺社」では、江戸幕府の宗教者の統制政策について概観している。

江戸幕府は寺壇制度によって、全ての人を特定の寺院に所属させたが、それは葬儀を菩提寺で行ってほしいという民衆側の希望があったからこそだ。さらに、幕府は本末制度によって全ての寺院を本山・本寺の下に置いた。寛永9〜10年には、不完全ながら諸宗末寺帳を作成させている(『大日本近世史料 諸宗末寺帳』)。また、僧位僧官を公家の執奏によって勅許を受けて授ける体制とした(もちろん補任料がかかった)。本山・本寺の統制のため、住持職が朝廷に存在していた天台・真言・法相宗の門跡寺院に対して幕府は門跡寺領を削減したり、伝統的門跡に対抗させるよう、知恩院門跡や輪王寺門跡を設立したりした。しかしながら、朝廷から寺院の住持職を奪うことは幕府にとっても困難であった。室町幕府以来、朝廷と結びついており五山派に加わらなかった大徳寺・妙心寺がいわゆる「紫衣事件」で弾圧されたことは、朝廷と寺院の結びつきが幕府にとって課題となっていたことを示している。

一方、幕府は神社をどう統制したか。神社の中でも国家と強い結びつきがあり、広大な社領を持っていた二十二社を、幕府は否定はしなかったが社領を大幅に削減。旧来の神社組織は温存されたものの、財力をなくすことで、幕府は神社をコントロールした。延宝7年(1679)に石清水放生会が214年ぶりに再興、貞享4年(1687)に大嘗会が再興、元禄7(1694)に賀茂(葵)祭が192年ぶりに再興された。こうした神社や朝廷の神事の再興は、一見、それらの力が高まったかのように見えるが、幕府がそれにお金を出したことで実現されたものであることも事実である。

中小の神社については、中世では武士を庇護者にしていたが、近世では地域の村落・農民の保護を受けるほかなくなった。武士は俸禄制への変化や転封などによって在地領主的な性格を失ったからである(本書には記述がないが、城下への集住もその一つだろう)。

幕府は、神社支配のために「諸社禰宜神主法度」を定めた。その中の問題となった条文が第2条と第3条である。そこでは、社家が位階を受ける場合、朝廷に執奏する公家(神社伝奏)がある場合は従前の通りとし、装束の許可は吉田家の許状を必要とすることとなった。神社が公的な地位を得るためには公家との繋がりが必要だということが定められたので、公家の執奏を願う神社は増え、彼らの希望を取り次ぐことは公家にとってもいい収入になったので伝奏公家も増えた。

もちろん、公家と直接関係をもった神社は僅かであったので、吉田家が神社の全国組織旗化を推し進めた。とはいえ、吉田家の許状を受けるには上京費用も含めて金がかかったので、組織化には藩権力による後援が不可欠であった。「吉田家を本所とする横断的な組織化は文化年間以降の60年間に大幅に進んだ(p.99)」のも、「諸社禰宜神主法度」だけで吉田家が組織化を図ったのでないことを示しており、触頭や組頭取の設定されなかった国もあった。

ただ、吉田家の許状を受けることで、旧来の支配関係から脱しようとした例もある。「自立した専業神主」となる道を開いたことが、地域の小社の神職にとっての吉田家の存在意義でもあった。

次に、山伏・陰陽師・民間宗教者への統制はどうだったか。「中世期から流動的・漂泊的な形態をとってきた修験者(山伏)や陰陽師・盲僧・あるき巫女などの主に祈祷系の宗教者や、勧進聖・三昧聖・茶筅・鉦打ちなどの主に葬事に携わることの多かった念仏系の宗教者は、近世に入ってから定着させられ、あるいは衰退させられていった(p.102)」。特に念仏系は、檀家制度によって檀家寺によって葬式が行われるようになったので、社会的役割を失ったことによる退行であった。

一方、祈祷系の宗教者は存在し続けたが、幕府は彼らを土地に結びつけようとした。早くも豊臣秀吉が民間陰陽師を「奉公をも仕らず、田畠もつくらざるもの」として統制を加えようとしている。彼らに対する統制方法は、基本的には寺社と同じく本山の権限を認め、その登録を受けないものを偽(にせ)者として取り締まる方式だった。また、近世前期では幕府・諸藩(会津・芸州・加賀・長州など)が、禰宜・座頭・薦僧などの勧進の巡歴を禁じている点も注目される。

山伏については、幕府は本山派と当山派に競わせる形で諸国の山伏を編成しようとした。地方霊山は本山・当山派に包摂されない歴史を持っていたので、羽黒修験は輪王寺門跡、彦山も本山派から独立して一山組織になったが、基本的には門跡をトップとする体制へ組み込んだ。しかし、祈祷や医療などの山伏の活動が農民に支持されなくなって、経済的に困窮した末端修験者はこうした支配には型どおりにはまらなかったようである。

陰陽師については、近世では都市の浮遊労働力と見なされるような実態で、国郡単位の地方組織や全国組織などはなかった。土御門家は、霊元天皇綸旨とそれを容認する綱吉の朱印状で陰陽師の全国編成に乗り出したが、畿内など限られた地方にしか及ばなかった。寛政3年、幕府はきめ細かな人別支配を企図して土御門家による全国陰陽師支配を触れ、それを契機に組織化が進んでいった。

盲僧については、九州・中国地方や大和などに分布していた。盲人には、主に芸能活動を行う当道座があって、それを幕府も公認していた。一方、盲僧の場合は比叡山の支配下にあった。ところが延宝2年(1674)に補任に際して不正があり、本山との関係が切断された。これは本書には詳細が書かれていないが驚くべき処置である。ともかく、本山がなくなり「無本寺」となったが盲僧たちは触れを無視して院号や袈裟を着け活動した。それでは具合が悪いので、青蓮院門跡に働きかけてその支配下に入ることを願い、天明3年(1783)に同門跡は幕府にその許可を申請、翌々年に認められた。こうして114年ぶりに組織機能が復活したのである。

あるき巫女は、梓弓を持って、一人の男の宰領に引率されて漂泊した女性シャーマンである。彼女らは、江戸浅草の神事舞太夫頭の田村八太夫によって支配されており、彼は「諸国関所手形を発行し、また、あるき巫女の法服(梅・杜・紅葉・雪笹)の着用を許可(p.109)」していた。「一地方在住のあるき巫女でさえ、組織による掌握を受けていたのであって、これほどに、幕府による巡歴形態をもつ宗教者の組織化はきめ細かく及んでいたことに注目される(p.110)」。

幕府の宗教者統制の基本は、全国組織を作って頭を抑えることだった。ところが、神道や陰陽道には江戸触頭に相当するものがなく、触れの伝達方法から存在しなかった。それでも近世初期には幕府はさほど困っていない。しかし18世紀後半になると、幕府は人別掌握を強化し、宗教者の組織化を推し進めていくのである。

「第4章 近世国家と本末体制」では、本山派山伏の本末編成を通じ、勧進と門跡の存在について述べている。

勧進とは、寺社のために寄附を募ることである。中世では、朝廷や幕府は所領の枠を超えて勧進する権利を寺院などに期限付きで与えた。本章ではこれを「公的」勧進と整理している。近世になると、徳川家康は大坂の陣を前に、方広寺に対抗する東大寺大仏殿の再興のために諸国勧進を許可したが、これ以降、許可は公儀(幕府)のみが与えうる権限となった。

中世後期には、こうした「公的」ではない勧進で暮らしているものがいた。山伏・遊行・念仏の聖や説教師・熊野比丘尼・盲僧・座頭・薦僧・乞食などである。幕府は「私的」勧進を禁止し、幕府はそれらを全国組織にして統制管理し、人身掌握を図った。

近世中期(享保期)には、勧進に関する法令を次々に触れた。それらから合法とされたものをまとめると、(1)公儀が複数の国にわたって許可する勧進(特に天台系の寺院を対象とした)、(2)寺社奉行が許可する勧進、(3)領主が許可する勧進、であった。

ここで修験本山派の編成へと話が移る。修験本山派は、中世末期に聖護院門跡の下にある程度の組織化が図られていた。当初は熊野参詣の檀那の奪い合い・棲み分けの性格があった修験者(山伏)の編成であったが、近世の兵農分離などを過渡期として、檀那からの得分を当てにするより、山伏そのものから収奪する方法に移った。山伏としても、熊野参詣を先達するよりも村落に定着して農民と結びつくようになった。

江戸幕府は修験者の全国組織として本山派と当山派の両方を認めた。両派は競争し争ったが、公儀はその争いを当山派有利に裁定した。それは、国郡単位で支配を認める本山派の論理を否定するためだったとみられる。これは豊国社の別当であった聖護院門跡の権威を失墜させようとする意図もあったかもしれない。

幕府にとって、朝廷と結びついた門跡の存在は危険なものでもあった。そこで近世初期には3つ門跡対策が実施された。第1に、門跡の中でも力の強いものを弱体化させ(所領を削減し)、所領を1000石前後に平準化して門跡間を対抗させること。第2に、知恩院を門跡にして、門跡は天台・真言・法相宗の原則を破って門跡を相対的に低めること。しかも知恩院門跡は例外なく時の将軍の猶子となってから親王宣下を受けた。第3に幕府の擁立した輪王寺門跡の権威・経済力を抜群にすることである。梶井・青蓮院・妙法院の三門跡交代で天台座主に就く慣例を破って、輪王寺門跡が天台座主についた。しかも輪王寺門跡は代々一品であった。

輪王寺門跡を除いて、門跡は幕府によって弱体化させられた、また天皇や親王家の子どもが減ったことで存続が難しくなった。幕末、青蓮院門跡は無住になっていたことはそれを象徴している。

こういう流れがありながら、幕府は山伏を統括する聖護院門跡を全否定はせず、従来通りの統括の権限を与えた。農民以外も含め全ての人を何らかの身分としてどこかに登録させ、統制するという目的のために門跡はうまく使われたのである。

「第5章 近世の僧位僧官」では、近世の僧位・僧官の補任制度が概説される。これは類書で見たことのない貴重なまとめである。

  • 天台宗山門派では、門跡は独自に官位を補任することはなく、全て山門から官位補任した。僧位は法印まで、僧官は権大僧都まで。
  • 天台宗寺門派では、延暦寺が官位補任した。法眼・権大僧都まで。
  • 真言宗では、かつては門主が独自に権僧正まで任叙していたが、後水尾院の時代に僧位は法眼・権大僧都までに整理された。真言宗では他宗の僧侶・医者・絵師などへも官位を任叙している。
  • 門跡のない諸宗派では、本寺の取次で「寺社伝奏(諸社諸寺方伝奏)」を通じて官位補任の勅許を受けた。ただし近世期には多くの無本寺もある(直接申請になる)。寺社伝奏は公家の各家が務め、〇〇寺は〇〇家、というように決まっていた。
  • 寺社伝奏は、申請を受けるとまず武家伝奏に伝達し、しかるのちに奏請した。武家伝奏は「朝廷を中心として存在していた宗教者の官位補任制度や、絵符使用の許可などの諸制度を、いずれも掌握していた(p.154)」。
  • 山伏の場合は、その身分を確保してもらうために、本山から僧都・院号・桃地(装束の色)の三通の補任状取得が条件であった。こうしたものの取得には、入峯修行も必要だったが金もかかり、ある意味では身分を金で買っていたともいえる。
  • それらの補任状は、段階を踏んで徐々に取得するのではなく、まとまったお金を用意して一気に取得する場合も多かった。
  • これらは、寺社伝奏などを要さず、院家若王子によって補任されていた。ただし官位の有無は身分とは直結せず、他の宗派内法式と一体となっていた。

「僧位僧官は、古代律令制以来の旧国制が生き続けたと考えるのではなく、幕藩制国家に適応的な、宗派内法式として、派内格式秩序維持と、身分制維持の機能として働いていた(p.165)」。つまり僧位僧官制度は、一見、朝廷権威を尊重しているように見えるが、その実は近世的身分制のために利用されたということになる。

「第6章 修験本山派勝仙院について」では、勝仙院を引き継いで本山派の院家として発展した住心院の成立について述べる。

修験本山派は、聖護院門跡の下に、若王子・積善院・住心院といった院家が存在して末端を支配していた。そのうちの住心院と深い関連があるのが勝仙院である。住心院の前身が勝仙院にあたる。慶長期から宝永期にかけて変化したらしい。もっというと、勝仙院晃玄が住心院を再興し、彼は勝仙院と住心院を併称していたが、次の時代になって住心院とのみ称した。つまり置き換わったのである。

戦国末期には、勝仙院は権利として同行山伏を従える関係にはなかったが、それが勝仙院に山伏が所属するという関係になり、住持が出世に召し加えられた。出世とは、修験本山派の格式で院家に準じるものである。こうして勝仙院は山伏を統制する既得権益を得たのである。熊野参詣者が勝仙院に無届けで参詣しているのを防止するため、勝仙院は郡内領主に街道口を押さえて許可証を持たないものを通さないように依頼しているが、これは勝仙院の権利が公的に認められたものであることを示す。なお、近世初期には聖護院から他国の先達職・年行事職を安堵されている。

なお、「極楽院の上野国年行事職は、武田信玄によって安堵され、次いで天正4年に武田勝頼、天正12年に北条氏直、天正20年に徳川家康と、代々の領主によって安堵され(p.183)」た。門跡ではなく領主から安堵されたのが面白い。

住心院は、勝仙院の既得権益を使ってのし上がったと言えるのかもしれない。幕末では住心院が所有する霞(支配領域)は、全国で22か国にわたっており、11か国の院家若王子よりも多いのである。

「第7章 江戸触頭についての一考察—修験本山派を中心に」では、修験本山派の触頭の在り方について述べる。

江戸幕府は法令・指導の伝達のため、一種の連絡網のような体制を各宗派に整えさせた(末端寺院からの請願等の取次も行うので連絡網とはちょっと違うが)。その連絡網の窓口が江戸触頭(ふれがしら)である。修験本山派でも触頭寺院が設けられたが、本章ではその格式について考察している。

本山派の格式は、門跡ー院家ー先達ー年行事ー直末院(聖護院の直院)ー准年行事ー同行という序列であったが、触頭を置いたのは院家のようである。当初は触頭の格式ははっきりしなかったが、次第に年行事の上であると整理された。

ところで、触頭とは寺院なのか、それとも個人なのか。「触頭寺院」の用語があるので寺院のようだが、実際には個人が「触頭職」を務めていた。本章では、触頭をめぐる相論や様々な言説を通じて、触頭の実態を推測している。

「第8章 修験本山派の在地組織—甲州郡内地方を中心に」では、岩殿山七社権現社の別当であった常楽院・大坊を中心に、修験本山派の在地組織の実態を述べている。

修験本山派では、先達職という領域的な権利(霞)を持った院家があった。そして院家は、在地に居る特定の修験者を一国一郡単位で先達に任命して支配させた。先達の権利は、中世では熊野参詣に伴うものだったが、熊野参詣は厳しい道のりであるため、参詣を遊興の対象ととらえる農民・町人には好まれず衰退した。そしてこれらの権利は、修験者そのものを編成する権利へと変質していった。

常楽院と大坊(両方個人)は、勝仙院傘下の先達である。宝永期には、勝仙院の傘下はこの二人で同行修験者81名を支配していたが、幕末には勝仙院の傘下の山伏は77名になり、それを常楽院と大坊を含めた6人で支配していた。組織が分散する方向になっていたことがわかる。

しかし、幕府が触頭制度を導入すると、常楽院と大坊が触頭になった。ほかの4名は直院として勝仙院傘下(本末関係)としては対等だったが、常楽院と大坊が触頭になると微妙な変化をもたらした。触頭は、形式上は連絡係であったが、従来の本末制度にもとづく機能を含み込むようになっていった。

末端修験者には、本山・本寺に対する恒常的な上納金の義務はなかったが、門跡が入峯修行をする際に参加し、費用を負担しなくてはならなかった。また修験者の身分を保つためには官位等が必要で、各種の補任にはそれなりのお金がかかった。当時の料金表によれば、直院の修験者として補任されるには、僧都・権大僧都・法印・院号・桃地・金襴地などなど、まとめて金8両3分が必要で、修験者の身分を相続するためには、上京・入峯の費用のほかに、これだけの補任料・手数料が一気に必要になったということになる。

幕末にいたって本山派修験の組織は弛緩していくが、それにはこのお金を準備するのが難しくなっていたという、末端修験者の懐事情も影響していた。

「第9章 近世陰陽道の編成と組織」では、土御門家による全国の陰陽師支配の経過を述べている。

近世中期までは陰陽師は賤視されており、穢多・非人などと同じく弾左衛門の支配下であると弾左衛門は主張していた。しかし陰陽師たちはそうした見方を拒否するようになる。それには、土御門家を中心とした全国組織ができていったことが背景にあった。

土御門家による陰陽師の支配が公的に認められたのは天和3年(1683)の綸旨による。このことを記載した一条兼輝(当時関白)の日記には「朝廷再興」の文字が書かれているのは興味深い。陰陽師の支配を公家が行うことが「朝廷再興」と受け止められていたのである。幕府は追って綸旨を容認する朱印状を発行し、全国の陰陽師の編成に乗り出した。

ただし、ここで一つ注意しなければならないことがある。その時点で、民間に「陰陽師」が大勢おり、それを土御門家が把捉することで組織化が進んだのではない。なにしろその時点で誰が「陰陽師」と呼ぶべき存在なのかははっきりしていなかったからだ。多様で曖昧な民間宗教者が「陰陽師」として囲い込まれあるいは定義づけられていったと理解すべきである。

そして土御門家の陰陽師支配は、朱印状によって容認されていたとはいえ、綸旨の力のみで行われた。幕府はこれに関して触れを出していないのである。いきおい、陰陽師の編成は畿内・尾張と江戸に限られた。当然、土御門家としては幕府に触れを出してほしい。そこで土御門家は「天和の触れの先例もあるので、触れを出してください」と幕府に申請した。幕府が審査したところ、「天和の触れ」は存在が確認できず再三否決したが、明和2年に寺社奉行によって陰陽師の家職が明確化され、それが土御門家の支配であることは認められた。ただしその明確化は、他の祈祷系宗教者と競合する内容が含まれており、特に盲僧の家職と抵触していた。

とはいえ、この時点では触れは出ていない。神道・陰陽道の境目はことに曖昧で、吉田家と土御門家は幕府に触れを出すことを求めたが、やはり否決された。土御門家が幕府の触れをあくまで求めたのは、幕府の権威がなければ土御門家の支配を認めようとしなかった陰陽師たちが多かったためである。土御門家は何度も幕府に触れを申請し、寛政3年、ついに陰陽師として活動するものは「土御門家ヨリ免許ヲ受」けなさいとの触れが実現した。それまで否決していたのが急に認められたのは、その頃、吉田家関東役所を開設させて江戸触頭を通じて神社・神職へ連絡を可能にした施策が行われていることを鑑みると、陰陽師にも全国組織を整備させて全所属者を把握する意図があったと思われる。

この触れを受け、土御門家は免許のない陰陽師を取締ったが、全国の無許可陰陽師を取り締まることができるはずもない。土御門家が触頭をおいたのは畿内や尾張など6か国程度であり、それ以外の地域は本所からの使者が出役として出向いた。これでは、遠国の支配は現実的に不可能だった。事実、南部藩には陰陽師の取り締まりをお願いしたいという依頼を行っている。幕府の触れなくしてはこのような依頼は不可能だったのはいうまでもない。こうして「それまで、組織とは無縁に、陰陽師的活動=「陰陽師体」をしていた個々人からすれば、これまで、何ら支配を受けていなかった土御門家の支配に組み込まれ、掟に従い、貢納料を納めることが義務づけられ(p.256)」たのである。

これは、彼らにとって経済的負担でもあったが、下層陰陽師にとってはその身分を確立する効果もあった。土御門家が陰陽師を支配したのは80年ほどで、それは維新政府によって明治4年(1871)に廃止された。この時に土御門家に渡されたお金が500円だった、というのが興味深い。

「補説1 近世の祈祷系宗教」では、他の章とは打って変わって、柔らかい語り口で猿引・盲僧・万歳・陰陽師について概説している。これらの活動の実態が概説されることは少なく、特に陰陽師の他国逗留の際の手続きなどは貴重な記述である。

幕府はこれらを統制するために種々の手段を用いたが、特定の公家に支配させるという方法に落ち着いていった。しかし多数の公家がその支配に関わったことはその間の争論の種にもなった。明治政府がその支配を神祇官に一本化したことは、「けだし必然の政策であった(p.281)」。

これを各宗教者から見ると、公家を通じて、貢納料と引き換えに官位・院号・袈裟衣などの許可を得ることで身分を得たということになる。この編成の論理に、官位が用いられていることがポイントで、「官位のもつ意味は、国家権力との関係において捉えるべき重要な問題を含んでいると思われ(p.287)」る。

「補説2 近世の村と寺社」では、寺請制度の具体的な様相を述べる。幕府は寺請制度によって、武士や神職も含め、全ての人を寺院に所属させた。寺院は檀家を把握し、一種の戸籍係のような役割を持った。また制度上の機能ではないが、争論の内済(示談)の扱人(調停者・証人)にもなり、寺院が作った証文は代官に聞き届けてもらうと判決と同じ効果を持った。なお村落には神社も存在していたが、神社は村落共同体と一体不可分であるが、寺院はそれほど直接の繋がりは持たなかった

寺院が、ことあるごとに強制力を発揮して檀家に費用を負担させたことはよく知られている。檀家がそれを拒んだ際に、引導拒否までチラつかせていたのである。しかし時には、それが不当なものであると檀家は訴えを起こすこともあった。では、檀家と争いを起こしてまで、幕府の制度を笠に着て寺院が檀家に負担を強いたのはなぜなのか。それは、本末制度の枠組みの中で、末端の寺院は本山・本寺に納入する多額の上納金を負担しなければならなかったからであった。その負担は、檀家に転嫁するしかなかったのである。もし負担が滞れば、末寺の僧侶は僧侶たる身分を保ち得なかった。

本末体制には、宗派の支配と個別の人身支配という2つの側面があり、その結果として寺院の檀家からの収奪が行われたと理解すべきである。

***

本書は全体として、国家はどのようにして周辺的身分の宗教者を把捉したか、ということを様々なテーマ・事例から述べている。特に修験道と陰陽道の全国組織の編成については、本書掲載の論文が初めて明らかにした事項が多く含まれ、価値の高いものである。

私が強い興味を覚えたのは、院号である。院号とは、「○○院」という個別の修験者に与えられる称号であるが、別の意味としては、寺院の子院を表す。本書を読みながら「○○院」が個人名なのか寺院名なのか判別するのに注意を要した。修験本山派では、霞(領域的支配権)を「○○院」に与えていたが、これは個人なのか寺院なのか? 私は今までこれは「修験寺院」だとばかり思いこんでいたが、本書を読むとこれには明らかに個人名が含まれる。

院号は、元来は子院の開創許可を表すものだったことは想像に難くない。それが戒名にも使われる通り、個人の称号となっていった。修験者の場合は、おそらく子院の開創を含意して与えられるようになったが、実際には子院をわざわざ作るのではなく、個人が子院に擬えて院号を称したように思われる。つまり院号が形骸化していた。とすれば、これまで修験寺院だと思っていたものも、その実をよく調べてみれば、単なる一個人に過ぎない場合があるかもしれない。それどころかそれが大多数かもしれないのだ。院号の実態解明にさらなる研究が俟たれる。

宗教者の個別的把捉にこだわって近世の宗教統制を考究した労作。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸時代の神社』高埜 利彦 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/12/blog-post_28.html
江戸時代の神社や神道がどのようであったか述べる本。江戸幕府の神社政策の概略がまとまった良書。

『修験道史入門』時枝 務・長谷川 賢二・林 淳 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_5.html
修験道史の研究状況を整理した本。修験道の研究と歴史を批判的に総合した本。

『江戸幕府の宗教統制(日本人の行動と思想 16)』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/16.html
江戸時代における仏教の在り方の一端を述べる本。江戸時代の仏教を幕府の政策から概観する良書。

『日本の近世7 身分と格式』朝尾直弘 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/blog-post_8.html
江戸時代の身分について考察する論文集。近世の身分について多角的に検討した充実した好著。

★Amazonページ
https://amzn.to/3SGO9r1

 

 

2024年2月11日日曜日

『日本葬制史』勝田 至 編

日本の葬制史の概説。

日本人は死体をどう処理してきたか。本書は、その背景に「日本的」思惟があったという考えを脇に置いて、客観的な葬制の歴史を述べたものである。

ただし、私自身は葬制の背後にある思想に興味がある。本書の冒頭にも他界観についての説明があり、日本人が考える死者の行く先の考え方を次のようにまとめている。(1)消滅する。(2)この世とは隔たった別世界に行く。黄泉の国、地獄・極楽など。(3)輪廻転生する。死者は前世のことは忘れる。(4)目には見えないがこの世界のどこかにいく。

ではこれらの考え方と葬制とはどう関連しているか。それは簡単ではないが、「葬送・墓制の変遷の背後にあるのは結局は社会の変化(p.9)」であって、思想の変化はその一部にすぎず全面的な影響はなかった(と本書にはっきり書いているわけではないがそう判断できる)。

原始社会~古墳時代(西澤 明、若林 邦彦、山田 邦和)

縄文時代前期後半(約6000年前)から継続的な墓地が作られるようになった。土坑墓・石棺墓・配石墓・廃屋墓などがある。屈葬が多いが伸展葬もある。副葬品はないことが多い。後期以降には再葬など二次葬が見られ(再葬土器棺墓など)、洗骨の可能性もある。墓の立地は、集落を取り囲んでいる墓がある一方で散発的な墓もある。

弥生時代になると東日本には再葬墓が顕著になり、配石墓での土葬→掘り起こし・焼骨→骨壺への納入・埋納などのプロセスがみられる(弥生再葬制)。墓制は多様で列島規模の共通性は低く、前時代からの墓制の他、方形周溝墓・円形周溝墓・四隅突出型墳丘墓などがある。方形周溝墓は当初から集団墓・共同墓地として形成された。おそらく親族集団の集団墓だったと思われる。弥生時代後期になると鉄製品などが副葬品にみられるようになる。そして岡山県倉敷市の楯築墳丘墓など、古墳につながる要素を持つ墳墓が現れる。

3世紀後半~7世紀前半までを古墳時代という。古墳時代を特徴づけるのは「古墳」であるが、これを古墳時代特有のものとすることに著者は否定的で、古墳を「特定の個人の埋葬を主目的として造られた、高い墳丘を外部主体とした墓のうち、継続的な祭祀が断絶したもの」と定義している(つまり古墳時代に造られたものに限定しない)。なお、ここで「特定の個人」としているのが、弥生時代の方形周溝墓との著しい違いになる。

古墳時代といえば前方後円墳であるが、これは奈良の箸墓古墳(全長280メートル)の築造がメルクマールになる。前方後円墳は、吉備(岡山)でその祖型が現れ、大和に入って整えられて誕生した。箸墓古墳こそ、それまでの初期古墳の特徴を集大成し、新しい要素を付け加えて古墳の定式を作り上げた最初の巨大古墳だった。副葬品には銅鏡が目立ち、全国の主要な前期古墳にはほとんどといっていいほど三角縁神獣鏡が副葬されている。なお石室は竪穴式で、埋葬後は二度と開けることを想定していない。

前期古墳は、形態、円筒埴輪列、竪穴式石室、割竹形木棺、副葬品などの面できわめて高い共通性を有している。古墳時代中期に入ると前方後円墳は極限まで巨大化する。ここでも吉備に巨大古墳が築造されているのは興味深い。しかし古墳時代後期前半には逆に規模が縮小する。これは何を意味するのか。継体朝の成立と関係しているのかもしれないが不明である。なお古墳時代後期後半には再び古墳の規模が大きくなる。北部九州では古墳時代中期初頭に横穴式が現れたがこれは大きな広がりは持たず、後期前半に近畿地方で現れた「畿内式横穴石室」はみるみるうちに日本列島各地に広がった。これは追葬を予定した小集団の埋葬施設である。ここでも、須恵器を副葬品にすることや家形石棺など全国的に極めて整った斉一性が見られ、築造方法・葬送祭祀など全てが定式化されていたことが窺える。これは、ヤマト政権が服属した人々にマニュアルを与えていたことによるのかもしれない。

さらに古墳時代には、巨大古墳でない、直径十数メートル程度の小規模古墳の密集「群衆墳」が大量につくられた。これもヤマト政権との関連のようである。特に6世紀後半は全国でおびただしい数の古墳が造られ続けていた。古墳時代の終焉は群衆墳の衰退を画期とするという考え方もある。6世紀後半に前方後円墳は終末を迎え、天皇陵としては敏達天皇陵が最後とする説が有力である。

古代(山田 邦和、勝田 至)

6世紀後半から7世紀前半にかけて、大王陵は前方後円墳から方墳、八角墳に変化し、改葬が一般的となった。用明天皇、推古天皇、舒明天皇はいったん葬られて、後に別の場所に改葬されている。大化2年(646)、孝徳天皇は詔を発した。前半は「大化薄葬令」後半は「旧俗廃止令」と呼ばれる。『日本書紀』には後世の作為も多いが、孝徳朝の大規模な政治改革は大筋において史実と考えられている。「大化薄葬令」では身分に応じた墓の制度を定め、殯(もがり)、副葬品としての宝物の納入、諸儀礼にあたっての自傷行為の全面的な禁止された。古墳の実例を見る限りこれが厳密に守られた様子はないが、古墳の縮小を促したことは事実のようだ。

元明天皇は崩御にあたり、薄葬とすること、火葬して改葬はしないこと、陵は自然の地形を利用し人工的なマウンドを造らないこと(山丘形陵墓)、常緑樹と陵碑だけを陵のしるしとすることなどを遺詔している。古墳時代のような巨大な墳墓から決別したのである。

続いて、天平宝字元年(757)の養老律令には「喪葬令」が含まれている。ここでは服喪の在り方が規定されるとともに、(新たに)墓を造営する資格のある者を三位以上の貴族等の高位の人に限った。ここでは墳墓の作り方の規定はない。すでに大きな墳墓を造るものがいなくなっていたからだ。

文武天皇4年(700)、僧道昭が火葬に付されたのを皮切りに、火葬が瞬く間に全国に広がった。天皇としては持統天皇が最初に火葬された。骨の埋葬には骨蔵器が使用されるなど気が遣われている。太安万侶の墓は当時の墓が残存している貴重な例である。また、奈良時代には墓誌の納入が行われた。律令によれば墓碑も立てることとなっていたが実際には少ない。

9世紀、淳和天皇と嵯峨天皇は徹底した薄葬の理想を述べている。淳和天皇は散骨を希望し、嵯峨天皇は墳丘も樹も植えず、地面を平らにして草が生えるにまかせ、祭祀も不要だと述べた。現代の墓不要論にも通じる考え方である。しかし彼らの理想は当時の社会にとってあまりにもラディカルで、それが潮流となることはなかった。

平安時代初期の陵墓で注目されるのは、陵墓のそばに菩提を弔うための寺院(陵寺)が建立されたことで、本格的な陵寺は嘉祥3年(850)の仁明天皇の深草山陵に始まる。平安時代の陵墓は仏教寺院との関係を深め、火葬跡地に菩提樹院という御堂が建立され、遺骨と肖像がおさめられるという「堂塔式陵墓」へと変わっていった。

一方、民衆の方はというと、鴨川には髑髏が散乱し、鳥部野では死体遺棄に近い鳥葬が行われていた。鳥部野は「流動的な大量の人口を抱えていた平安京ならではの葬送空間だった(p.117)」。逆に京内に墓を造ることは「喪葬令」で禁止されていた。鳥葬にはそれを肯定する思想があったのかもしれないが不明である。

地方では、10世紀後半から畿内で見られる屋敷墓が注目される。11世紀後半には河内や摂津などの農村にも広がり、12世紀には中国・四国・九州、そして東日本へと広がっていった。この時代は貴族にも墓参の習慣はなかったが、屋敷墓は明らかに継続的な祭祀を前提とする。ただし、現行民俗の屋敷墓がこの時代のものと連続したものかどうかは不明である。

天皇や貴族については、火葬されることが多かった。そして火葬は、当初は僧侶が担っていたと思われる。

なお、火葬は一時は全国に広がったものの、平安中期頃には地方でも火葬は減り、12世紀に再び復活した。その際には、遁世僧が死体の焼却に携わったようである。これが後世の三昧聖に繋がってゆくと思われる。

平安時代中期までは、墓標は未発達だった。仏教教理では輪廻転生するので、永続的に現世に「霊」が留まるという観念がなかったことがその理由かもしれない。墓に石塔を建てた初見とされるのは、元三大師良源の遺告で石卒塔婆を建てるよう指示したものである(972年)。これが中世には石塔に戒名や没年月日を刻むものが増加し、石塔が墓塔となっていく。

中世(勝田 至)

古代には墓自体が少なく、墓は散発的にしか作られなかったが、12世紀中頃には蓮台野など共同墓地が形成された。死者が永く墓に留まるという観念がそこにはあったかもしれない。共同墓地は、寺僧墓地に一般の被葬者も受け入れたり、好適な場所を経塚によって結界されたりしたことで成立した。多くの人が「墓に葬られたい」という意識になっていたことは明白である。こうして膨大な墓地が造営され、中世後期には風葬も次第に減少した。

院政期から鎌倉期には年忌供養が行われるようになり、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌と次第に年忌が増えていった。十三回忌と三十三回忌が普及するのは南北朝期である。また鎌倉時代には盂蘭盆などの行事としての墓参が行われるようになった。鎌倉では歳末に魂が訪れるとも考えられたようである。

11世紀頃から霊場に火葬骨を納める習慣が起こり、12世紀には高野山への納骨が始まっている。五輪塔にも納骨のための穴があった。

葬儀については、その実務の多くが僧に一任されていた。鎌倉時代以後の貴族の葬送では、僧が今の葬儀社や火葬場の役割を担っていたのである。葬儀を担ったのは律宗と時宗が多く、律宗寺院の「斎戒衆」は葬儀を担当したと思われ、律宗寺院が真言宗の門跡寺院の葬式寺になっている事例が確認出来る。真言宗では葬儀はしておらず、葬儀は律宗に委任していたことになる。一方時宗では火葬場を運営していた。戦国時代の三昧聖は律宗や時宗の僧から発生するのかもしれない。三昧聖とは火葬に携わった下級の(賤しいとみなされた)宗教者で、田畑のない寄る辺ない人々が務め、畿内では14世紀末~15世紀初頭に寺院から独立して存在するようになった。

禅宗は、早くから葬儀に関与しており、大寺院はそれぞれ専属の火葬場を持っていた。律宗や時宗が部分的な関与しかできなかったのに比べ、禅宗では葬儀の儀式や葬具が整備され、「武士の葬儀の引導・供養から実作業まで一貫して担当できる垂直統合的な体制(p.156)」が整えられていた。

平安貴族の葬儀は、夜に行われていた。人目を憚ったのかもしれない。しかし中世後期では禅宗が豪華な葬儀を発達させ、昼に行って多くの見物人を集めるようになり、豪華な葬儀は人々の憧れの的になった。浄土真宗や日蓮宗も、禅宗ほどではないが葬儀や墓に携わっている。

これらの宗派に比べると顕密寺院は葬儀にあまり関与していない。「中世後期の人々の多くは特にどの宗派でなければならないと思っていたわけではない(p.161)」ので、利用可能な宗派で葬儀をしていたのかもしれない。16世紀後半から17世紀前半には、日本各地で大量に寺院が開創されているが、これは幕府に寺壇関係が強制される前に、葬送需要の高まりがあったことを示唆している。

中世においては、死に伴って多様な供養が考案された。五輪塔、宝篋印塔、板碑といった石造供養塔が12世紀後半から13世紀にかけて続々と現れた。ただし石仏と墓の関係ははっきりしておらず、これらは供養塔ではあったが必ずしも墓塔・墓標ではなかった。

近世(木下 光生)

近世の叙述は他の章と毛色が違う。近世葬送史は面白くないと思われてきたが、先入観が邪魔していたのではないか、とのことで「近世葬送史を面白くとらえたい」という著者の意気込みがすごい。ただ、「近世葬送史は面白くない」ということ自体、一般の人は共有していない感覚と思うので、やや内輪向けの書き方であると思った。

それはともかく、近世葬送史の面白さはその多様性にあると著者はいう。そこからあえて全国に共通する性格を抽出するのではなく、多様性そのものを見つめたいというのが著者の主張の主旨である。

近世の葬儀を特徴づけるのは葬送行列である。17世紀半ばの大坂では、町奉行所が規制をかけるほど人に見せびらかすような華美な葬式・葬送行列が行われた。これにはもちろん、経費面で施主の負担になったが、人々は借金してでも華美な行列を整えようとした。これは都市下層民や村でも一緒である。醒めた人は、そういった葬式を死者のためでなく家のために行う形式的なものだと批判しているほどだ。

葬式の華美化は家格誇示の一環として起こったと思われるが、社会の側からも「あなたの家ならばこれぐらいの葬儀はしてしかるべきだ」との圧力もあったようだ。本書では葬儀の華美化にあたっての思想の変化は書かれていないが、私自身はそこに思想・他界観の変化も読み取ることが可能ではないかと思った。

しかし、華美で大規模な葬儀を死後数日間の間に準備し実行することは難しい。そこで葬具業者が活躍した。近世の葬儀は共同体が助け合って行うものだったという通説とは逆に、葬具業者なくして近世の葬儀はできなかった。これは町だけでなく村でも同様だ。葬具業は「儲かる仕事」でもあった。「葬送の商品化があってこそ、「伝統的」な葬送儀礼は成り立ち得た(p.200)」。

近代以前は庶民は土葬であった、とよく言われるが、これも多様だ。実際には土葬と火葬は複雑に入り混じっていた。大坂ではほぼ火葬だった。これは墓地が足りなかったから…と合点しそうになるが、江戸では同じく墓地は足りなかったのに土葬が多かった。

江戸では、どこに誰が葬られているのかわからない「墓標なき墓地の光景(西木浩一)」が広がっていた。それは江戸に大量に存在していた、都市下層民(日雇い、小規模町人)の墓だった。彼らの墓は容易に無縁化し、そうなれば檀那寺は遺骨を掘り起こして処分(あばき捨て)してしまった。現代の無縁仏の問題と同じようなことが江戸にも起こっていたのだ。一方大坂では、そうした方策をとるかわりに、人々は費用のかかる火葬を無理にでも選択していたと考えられる。

火葬はただ埋めるだけの土葬に比べると、燃料がいるので費用がかかる。村でもお金がある人は火葬していたという場合もある。つまり宗教的な理由ではなく、経済的な理由で土葬・火葬が選択された地域があった。といっても、代々火葬をする家でも土葬を選択する人もいて、経済的な理由だけに還元することはできない。

なお、江戸時代には寺壇制度により葬式をする寺院は決まっていたが、そこには他宗派の僧侶が招かれることも多かった。寺壇制度が形式的であるために、かえって宗派にこだわらない態度があったのかもしれない(生まれた時から決まっている宗派に強く帰属意識を持たない場合がある)。

江戸時代の埋火葬を担ったのは、三昧聖や賤民、百姓や町人、寺院関係者、それらの組み合わせ、という4パターンがあった。これらはどこの村ではこうだ、と決まっているのではなく、多様な選択肢として存在していたと考えられる。死穢観念などと直結させることはできない。

近世には、庶民に至るまで墓石を建てることが普通になった。近年、墓地での墓石の悉皆調査が行われ、いろいろなことがわかってきた。墓石の造立は、18世紀初頭にピークがあってその後減少、そして20世紀前半から増加するという傾向があるが、どうしてこういう波があるのかはいまだ不明である。

墓石の形態は、18世紀前半までは地域差が甚だしいが、18世紀後半以降になると徐々に全国的な斉一性が強まって櫛形墓石が一般化し、その櫛形が頭部平面の角柱へと変化する、といった流れがある(谷川章雄)。しかし、なぜこうした変化が生じたのかはやはり不明である。

そこに刻まれる戒名は、18世紀前半には院号など戒名の格式が明確化し、それが家の格差と対応していく。18世紀後半には「先祖代々」「先祖累代」などの文言が現れて微量ながらも増え始め、墓石に家意識が投影され始める。院号居士や大姉など上位の戒名を持たない家では夫婦や兄弟姉妹などをまとめて一基の墓標に祀ることが行われた。しかし戒名は階層だけではとらえられない。「戒名の種類には消長があり、しかもその消長の仕方に全国共通の法則性などなく(p.234)」、「信士・信女より下位に位置すると考えられてきた禅定門・禅定尼が、実は信士・信女に取ってかわって主役に躍り出(同)」るなど、「戒名の種類を安易に家格・階層・身分差の問題に直結させて議論することは差し控えるべき(同)」である。

特に下層民では、抽象的な「先祖」に対する供養などではなく、特定人物への追憶主義的供養が中心であったと思われる(西木浩一)。

近世後期には、火葬場や墓地が迷惑施設扱いされたり、三昧聖への賤視が高まってその存在価値が疑われるようにもなった。人々の墓地や死に対する意識が変わりつつあったのだろう。

近現代(山田 慎也)

明治政府は神道国教化を進め、自葬を禁止し神官に関与させた。それまで基本的に葬儀に関与していなかった神官に葬儀を行わせたのは大きな変化だった。また、短い間だけだったが火葬も禁止した。規制の契機は公衆衛生上の問題だったが仏教への蔑視も伴ってわずか2週間ほどで禁止が決定された。もちろんこれは混乱をもたらし、東京では旧朱引内での埋葬も禁止されていたからさらに混乱した。ただし、火葬禁止は全国で厳密に守られたわけではない。

明治期の葬儀では、葬送行列(自宅から葬儀式を行う場所(通常は寺院)までの移動)が最も重視された。人が死亡すると、近隣に死を知らせ、親戚知人に連絡した。通夜は夜を徹して行われ、鳴り物が入り酒や料理をとりながら賑やかに行われた。賑やかなのが現在と全く違う。自宅から出棺するときに参列者が集まり葬送行列をなした。葬儀後は高級な菓子折り等が配布された。葬式が終わると親族の男性と陸尺(ろくしゃく)の人足だけが柩とともに火葬場に向かい、翌日親族が収骨し寺院に向かった。

こうした葬儀は、特に葬送行列の華美さを競い、徐々に肥大化した。明治中期には葬具業者と人足請負業が合体して、葬儀全体を取り仕切る「葬儀社」が誕生したことで肥大化に拍車がかかった。また引き物も足りなくなると恥ずかしいとされ、また高級なものであったので引き物をあてにする貧民がやってきて「おとむらいかせぎ」が行われた(引き物を転売してお金に換えた)。こうなると葬儀は虚飾であるという批判も起こり、葬儀の合理化が叫ばれるようになった。大正期には葬列を廃止した葬儀が行われるようになった。また交通機関の発達から路上での葬列の進行が難しくなり、また長い距離を歩く習慣がなくなったことなどから葬列は縮小された。そして都市部では霊柩車が登場した。

さらに葬儀の在り方が見直され「告別式」が登場した。告別式の最初の例は中江兆民である。中江兆民は無神論・唯物論の立場から葬式を不要としたが、何もやらないわけにいかなかった親族や友人が告別式を行ったのである。その後、理学博士・工学博士・検事など伝統的な葬式に懐疑的だった高学歴の人が告別式を行うようになった。ただし当初は非宗教的なものとして始まったが、徐々に宗教的要素が復活し、葬儀より洗練した儀礼と受け取られるようになっていった。

葬儀において新しく付け加えられた要素に「弔辞」がある。特に戦死者については戦功が顕彰された。葬儀には死者を顕彰する性格が与えられたのだ。

明治政府は、神葬祭用の墓地がなかったために青山墓地や雑司ヶ谷墓地などいくつかの公営墓地を設け、その管理は神社の神職が行った。ただし、明治政府の墓地政策は宗教との分離に傾いていった。そして明治17年、「墓地及埋葬取締規則」が出て墓地令が集約された。これは「人間の死をとりあえず宗教から切り離し、国家行政の管理下においたもの(p.279、森謙二)」で、「清浄な地」を無税として墓地に指定し、そこに葬らなくてはならないという規定である。これは、神官の葬儀への関与の禁止、教導職の廃止、自葬の解禁などといった流れに位置づけられる。

また、人の死亡は医師による診断を要するとし、埋火葬には区戸長が発行する許認証が必要となった。国家が人の死を管理するようになったのである。こうしたことから墓地は個別の設置ではなく共同墓地が推進され、多摩墓地のような公園墓地が開設された。墓地は公共施設になったのである。

昭和に入ると、祭壇の段の数と葬具によって葬儀のランクが表されるようになり、東京の問屋業者によって「棺かくし」のような新たな祭壇道具が開発されることで、祭壇が次第に聖殿化していった。また、それとは別に遺影が重視されるようになった。

葬儀業は産業として確立し、全国組織も形成された。それで葬儀の標準化が進み、瀬戸では骨壺が大量生産されて全国で使われた。また伝染病対策から火葬も普及し、1990年代にはほとんどが火葬に付されるようになった。火葬の普及によって、骨葬、つまり火葬後に葬儀式をする地域も戦後増えた。今でも東北では骨葬が一般的だという。

戦後、家制度が廃止され、また葬儀を担ってきた共同体の互助機能が後退、祖先祭祀に対する人々の考え方も変わった。少子化や独身世帯の増加から継承者の必要としない葬法が求めらるようになり、合葬墓、散骨、樹木葬などが現れた。1990年代には葬儀が小規模化し、「密葬」が増加した(この用語の持つイメージがよくなかったので、今では「家族葬」という)。さらに葬儀自体を行わない(火葬だけする)「直葬」も一定の割合を占めるようになっている。単身者が死をどのように迎えるのかも問題となっており、今は葬儀をめぐる模索期である。

***

本書は全体として、先行研究が端正にまとめられ、読みやすくかつ情報量が多い。特に古代の記載が大変参考になった。本書は思想史ではないので、人の死に対する考え方の変遷が体系的に述べられているわけではないが、葬送の歴史を通観すると、それがそこはかとなく見える気がした。

原始社会はよくわからないので措くとして、それを私なりにまとめると、冒頭に述べた4類型でいえば、まず古墳時代は「(4)目には見えないがこの世界のどこかにいく」だったようだ。そして古代には仏教の教理が真面目に受け取られ「(3)輪廻転生する。死者は前世のことは忘れる」が中心となったようだ。嵯峨天皇が極端な薄葬を求めたのは、仏教教理との関連だったように思われる。中世になると、仏教教理の浸透によって「(2)この世とは隔たった別世界に行く」が優勢になる。この考えでは、死者の霊が長く墓に留まるわけではないので墓塔を建立する意味は薄い。にもかかわらず中世では多様な墓石塔が考案されて広まったのが面白い。人々は教理に基づいて行動するわけではないのである。近世は中世の延長として理解されるが、近現代につながる要素が散見されるのが面白い。近代の葬送は必ずしも明治政府の恣意的な規制によって生まれたものだとは言い切れない。そして現代には「(1)消滅する」が多くなってきているようである。魂などはないとするなら、墓の必要性は低く、少なくとも宗教的な意味は皆無となる。しかし死体はどうにかして処理はしなくてはならない。墓を造らないとしても、葬儀がなくなることはあり得ない。未来の日本人はどういう葬儀を行うのか、考えさせられた。

葬送史をまとめることで、死への考え方の変遷まで垣間見える労作。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_4.html
中世の葬式がどうであったか検証する本。葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。

『葬式仏教の誕生—中世の仏教革命』松尾 剛次 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post.html
仏教が葬式を担うようになった変化を描く。葬式仏教の成立を広い視野でコンパクトにまとめた良書。

『墓石が語る江戸時代—大名・庶民の墓事情』関根 達人 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_31.html
墓石によって江戸時代の社会を考察する本。墓石を通じて社会を見る視点が独特な本。

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2024年1月28日日曜日

『寺社焼き討ち―狙われた聖域・神々・本尊』稙田 誠 著

寺社焼き討ちの論理を探る本。

中世は宗教の時代である。人々は神仏を実体のあるものとして認識し、生活全般が宗教によって規定されていた。しかしそんな中でも、寺社はしばしば焼き討ちされた。なぜ篤く信奉していたはずの寺社を焼き討ちするなどということができたのか。それは信仰心の衰微の表れなのだろうか? 本書は、寺社焼き討ちなどを行った人々の心理を繙き、その宗教観を分析している。

寺社焼き討ちは、まずは寺社同士の抗争から始まった。律令国家の弛緩により、それまで国家から庇護を受けていた寺社は自活を求められるようになり、荘園領主として、あるいは民間への布教による収入によって経済を成り立たせる必要に迫られた。そこで寺社同士の勢力争いが起こり、11世紀中頃から寺社勢力同士の焼き討ちが頻発するようになった。

その嚆矢となったのが延暦寺と園城寺の抗争、いわゆる山門派と寺門派の争いである。長久3年(1042)、承保元年(1074)に延暦寺が園城寺の伽藍の一部を焼いたのが早い例であるが、永保元年(1081)における一連の両寺の焼き討ちが大規模なもので注目される。園城寺はわずか4か月の間に2度も焼かれた。その後、園城寺は14世紀前半までの間に10度も(!)焼き討ちにされた。 いうまでもなく、延暦寺と園城寺は同じ天台宗寺院である。他宗派との抗争というより、同宗派の抗争によって寺社焼き討ちが行われたことは、寺社焼き討ちが不信心によるものではなかったことを示唆している。

平氏の南都焼き討ちも著名である。治承4年(1180)の暮れ、平清盛の五男、重衡(しげひら)は興福寺や東大寺を焼き討ちした。南都寺院が他勢力と結びついて京都を攻めるのを回避するための先制攻撃だった。焼き討ちになったのは結果的なものだったという説もあるが、著者は意図的に寺院を焼いたと考える。

このほか、怪異が起こったために村人がやむなく堂舎を焼いたり、佐々木道誉が寺院との些細ないざこざから妙法院を焼き討ちにした例、応仁の乱で東軍(細川勝元)の陣となってほぼ全焼した相国寺の例(相国寺合戦)が紹介されている。織田信長の延暦寺焼き討ちについては、徹底して破壊したとされる従来の説が疑問視され、比叡山山頂では根本中堂と大講堂のみに焼亡の跡がみられるという発掘調査結果が紹介されている。ここでのポイントは、寺社の付属施設を焼くのではなく、その中核施設である中堂(本堂)がターゲットになっているということだ。

先述の永保元年の延暦寺による園城寺の焼き討ちでも、『古事談』によれば、天台座主が「僧房ばかり焼いたところでどうしようもない!」と述べ、僧たちに金堂や経蔵などを焼かせた話が出てくる。つまり寺社焼き討ちは無差別的な放火とは違い、寺社の中核を破壊することに意味があった。それは、寺社の中核である本尊や経典に価値が置かれていたことを逆説的に示している。

では、こうした焼き討ちを行ったものは、神や仏を恐れなかったのだろうか? 当時の言説を見てみると、寺社焼き討ちは大悪であり、焼いたものは神罰仏罰を蒙るという認識は当然あった。『平家物語』によれば、南都焼き討ちを行った平重衡は、その罪の重さから報いを受けることは必定でありどしたらよいのか、と法然に涙ながらに語ったという。これが史実そのままであるかどうかはともかく、少なくとも寺社焼き討ちは重罪で、行った当人にとっても葛藤の種になっていたに違いないという当時の人の認識は事実である。『玉葉』(九条兼実の日記)でも、重衡が神罰を蒙ることなく無事に帰洛できたことを不審に思ったとの記載がある。神罰仏罰を人々はリアルなものだと感じていた。そして実際に、神罰仏罰が下ったという事例を、人々はしばしば見てもいた(現代から見れば、それは偶然に過ぎないとしても)。

寺社焼き討ちを行いつつ、どうやってその神罰仏罰を避けることができるのか、それが中世人たちの切実な思いだったに違いない。本書では「寺社焼き討ちの正当化の方便」が4つに分類されており、それは(1)仏にすがる、(2)経供養などの儀式を行う、(3)特定の文言を唱える、(4)「これこれしかじかだから問題ない」という理屈を信じる、とある。

このうち、(1)と(2)については、焼き討ちの罪は認めつつも、それを仏法にすがることで無効化しようとするものである。法然は重衡に念仏によって往生できると説いているが、これは重罪を犯したものにとっては福音だっただろう。

(3)は、一種の呪文によって罪を無効化するもの。代表的には「罪業もとより所有なし、妄想(もうぞう)顚倒より起こる。心性源清ければ、衆生すなわち仏なり」というものだ。「もとより、罪業に固有の実体はなく空である、心は本来清いもので、生きとし生けるものは仏である」というような意味である(本書での説明を簡略化した)。つまり、寺社焼き討ちをした罪も実体はない、という一種の開き直りであり、罪を認める(1)(2)とはちょっと違っている。これは天台本学思想に基づいており、高度な教理による屁理屈である。

(4)には、例えば「焼いたお堂は後で再建すればよい」、「仏に敵対する心を持って焼くわけではないので罪にならない」、「この八幡は主君が信仰している八幡とは別だから大丈夫」、「あいつが大丈夫だから自分も大丈夫だ」といった理屈がある。最後の理屈は、信長は仏教を弾圧しているのに仏罰を蒙っていない、だから大丈夫だ、といったようなものであるが、まだ仏罰を蒙っていないだけなのかもしれないので、その場しのぎ的だ。なお個人的に気になったのは2番目の「敵対した心がなければ罪にならない」だ。そんなわけないだろと思うが、著者によれば「中世では身と心を分けて物事を理解しようとする思想の流れがあった(p.113)」として説明されている。つまり人間の内面を重視する発想があったらしい。しかしこの点については参考文献が一切掲げられておらず詳しくは不明である。

そのほか、「焼き討ちされたのは寺の自業自得だ」とか、「本尊がなければ問題ない」といった自己に都合がよすぎる理屈が紹介されている。この(4)は、焼き討ちの罪を認めるのではなく、いろいろ理由をつけて罪にならないとするものであるが、(3)と違って高度な教理は関係なく、単なる自己正当化理論が多い。しかし、こういうものであっても、中世人は寺社焼き討ちにあたって正当化を図る必要を感じた、ということは、その宗教観を表しているともいえる。

次に、本書は焼き討ち以外に目を転じる。概念整理をすると次のようになる。まず一番広い概念として「神仏超克」がある。これは、神仏と敵対せざるをえなくなった人間が、これを克服しようとする行為言動である。そこには、「寺社焼き討ち」のほか「神仏冒涜」「墓の破壊など」(本書では扱われていない)が含まれる。

そして「神仏冒涜」には、神仏を脅すなどして無理にでも祈願を叶えさせようとする「神仏恫喝」、神仏を攻撃したり、その存在価値を否定する行為言動「神仏唾棄」で構成される。以上をまとめると次のようになる。(※個人的には、神仏唾棄と寺社焼き討ちは概念的に重なっているような気もした。なおこれらは著者による用語のようである。)

神仏超克┬寺社焼き討ち
    ├墓の破壊など   
    └神仏冒涜┬神仏恫喝
         └神仏唾棄

「神社恫喝」の例として、曽我兄弟の仇討で、兄弟が箱根権現に「祈願が叶えられないのであれば、この場で私を殺してください」と願ったことが挙げられる。これなどは「むしろ権現を恫喝しているとさえ読める(p.136)」。さらに兄弟は三島明神には「(祈願が叶わなかったら)ここの宝殿の中に参り籠って腹を切り、五臓を掴み出して御戸帳に投げつけますよ。そして御社に火を掛けて焼き払い、もともとここには神などいなかったのだと世に暴露するぞ!」とまで述べている。現代にはありえない祈願の仕方である。

また法然に帰依した熊谷直実は「阿弥陀様、私を上品上生に迎えることができないとなると、弥陀の本願が破れたことになりませんか?」と阿弥陀如来を論難している。こうした神仏への接し方は、神仏を実体として、さらには人間と対等なやりとり・駆け引きができる存在として扱っていたことの裏返しであり、もっといえば神仏との契約関係を前提としているようにも見える。「私は正当な祈願をしているのだから、それを聞き入れない神仏が悪い」とでもいうような理屈も、現代ではありえない。

次に「神仏唾棄」については、「仏像に危害を加える・破壊するといった行為、あるいは神仏に暴言を投げつけその存在価値を否定する言動がこれにあたる(p.148)」が、これは廃仏毀釈とどう違うか。

例えば専修念仏を信じる人々は、念仏以外は無価値であるとして、地蔵の仏像をないがしろにした。法然や親鸞はこうした行き過ぎた行為を戒めているが、念仏のみによって救われるなら地蔵など無価値というのは論理的に筋が通っている。

キリシタン大名の大村純忠は、受洗後に軍神の摩利支天の像を破壊して十字架を立てた。しかし彼は仏教と決別したのではなく、受洗後に出家し(!?)、真言密教や観音・伊勢信仰に傾倒している。フロイス書簡によると「(摩利支天は)幾度私を欺いたことか」と純忠は摩利支天を恨んでいたという。

「神仏唾棄」が可能となった方便は(1)自分を裏切った(約束を破った)神仏は唾棄してもよい、(2)力のない神仏は唾棄してもよい、というものだったという。つまり廃仏毀釈が仏教に対する無差別的な破壊行為であるのに比べ、神仏唾棄の場合は、神仏一般に対する崇敬はそのままに、特定の神仏が自分に不利な結果をもたらしたことに対する報復として行われていることになる。ただし(2)の場合の、専修念仏の徒が地蔵をないがしろにする行為などは廃仏毀釈に近い部分を感じる。

織田信長は、父信秀が瀕死になった時、僧侶に祈祷を行わせたにもかかわらず、回復するであろうとの僧侶たちの言葉とは逆に父が死去したのを受けて、虚偽を述べたとして僧侶たちを殺した。信長は従来のイメージとは違い、神仏を恐れなかったのではなく、むしろ本件も神仏を実体とみなしての報復行為であったと考えられる。

豊臣秀吉は、つくりかけの東山大仏が地震によって倒壊したのを受け、すぐさま大仏を破却した。彼は大仏の代わりに善光寺如来を迎えたが、「倒壊したのは大仏の力が弱かったせいだ」との工学を無視した理屈を持っていたようだ。これは信長の例とあわせて、神仏そのものを否定したのではないが、織豊時代において人間本位の考えが強くなっていることが感じられる。

通説では、宗教・神仏の影響力の低下は、おおむね14世紀の南北朝時代から始まり、戦国時代を経て近世へと時代が移り変わる過程でより顕著になったとされる。しかし神社焼き討ちや神仏冒涜が中世前期から行われていることを考えると、南北朝時代以降に神仏の扱いが顕著に軽くなっているとはいえず、「決定的といえるほど宗教・神仏の力が凋落したとまでは考えにくい(p.176)」。中世人は「真剣に信じていたからこそ、本気で怒り、焼き討ちや破壊に多大なエネルギーを投じた(p.177)」。著者は近世に平和な時代が訪れたことが神仏の影響力低下に大きかったとみている。

とはいえ本書を読みながら、私は人々の微妙な考え方の移り変わりも感じた。中世前期では人々は神罰仏罰を恐れ、それを無効化するための手段や、「きっと自分は罰を受けないはずだ」との自己正当化の理屈を考えた。ところが中世後期には、大村純忠が加護がなかった摩利支天像を破壊したように、神仏と人間を対等なものと見なした行動がみられるようになる。神仏本位から人間本位の考えへと軸足が移っているような気がするのは私だけだろうか。

本書は、神仏冒涜や寺社焼き討ちという、人々が神仏に敵対するというマニアックなテーマを扱っており、大変価値が高い。しかもマニアックであるにもかかわらず、一般向けに平易に書かれており読みやすい。私自身の興味としては、中世における宗教観の一面を知りたくて本書を手に取った。中世の人は、神仏を実体として認識していたからこそ、現代ではありえないようなやり方で神仏に対峙した。神仏に報復するという考えは、中世人の神仏観を象徴するものかもしれない。

なお、本書は著者の論文集『中世の寺社焼き討ちと神仏冒涜』を土台に新しい知見などを盛り込んで書き下ろしたもの、とのことである。

寺社焼き討ちを通じて中世人の宗教観を探る良書。

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2024年1月26日金曜日

『神武天皇の歴史学』外池 昇 著

神武天皇が近世・近代にどう扱われたかを述べる本。

本書のタイトルは「神武天皇の歴史学」であるが、神話のなかの存在である神武天皇の「歴史学」とは何か。それは、近世・近代に神武天皇がどう扱われたのか、つまり神武天皇をめぐる歴史を叙述するというものである。

その中心は、陵墓の扱いである。神武天皇陵は、近世まではどこにあるのかもわからず、簡単に言えば放っておかれていた。そもそも神武天皇は神話の登場人物なのだから陵墓が存在すること自体が不自然だが、近世には多くの人が天皇陵の研究を始め、特に神武天皇陵については政治的な課題ともなって考証が進められた。

そうした考証の中で、神武天皇陵の候補は3つ形成された。第1に、幕府が元禄時代に修陵事業を行った際に神武天皇陵として整備した「塚山」である。第2に、本居宣長、竹口栄斎、蒲生君平らが主張した「加志(または「カシフ」)」または「丸山」である。彼らは「塚山」が『古事記』の記述に合わないことなどから、幕府の説を退けた。国学者らの一致した共通見解がこの「加志・丸山」説であった。そして第3に、「神武田(ミサンザイ)」である。ここには、神武田(シムタ)、そしてミサンザイ(ミササギ=陵の転か)という意味深な地名が残されていた。

水戸藩主の徳川斉昭は、こうした状況を受け、さらなる修陵事業を進める建白を行った。その建白の中では、現に神武天皇陵として扱われている「塚山」は眼中になく、神武田の方を本当の神武天皇陵として整備したいという意向が明白だった。しかし斉昭は安政の大獄で失脚して政治の表舞台から去り、その意向が実行に移されることはなかった。ただし一説によれば、後述する宇都宮藩の間瀬和三郎らに修陵事業の引継ぎを持ち掛けたともいう。

奈良奉行だった川路聖謨(としあきら)は、奈良奉行在勤中の日記『寧府紀事』に山陵のことを書き留めた。その日記では、神武田には、そこの草を刈り取って牛馬に与えると神罰が下るという地元の伝承があることを述べるとともに、宣長説(丸山説)を批判した。彼は神武田が真の神武天皇陵なのではないかと考えつつも、幕府の人間として「塚山」を神武天皇陵として扱わないわけにはいかず、「塚山」との併存状態を是認していた。

実際、幕府が神武天皇陵としていたのは「塚山」だったが、この頃は「神武田」の方が事実上の神武天皇陵として扱われる場面が出てきていた。

孝明天皇も、嘉永6年(1853)、明らかに神武天皇陵の「神武田」への変更を念頭に置きつつ、神武天皇陵での祭祀の意向があることを武家側に伝えていた。この「孝明天皇の意思の発露を神武天皇陵をめぐるひとつの画期(p.90)」だと本書は見ている。

幕府はこれに機敏に対応したのではないが、なにもしないわけにもいかず、奈良奉行所は神武天皇陵の調査を行った。それを担当したのが奈良奉行所与力の中条良蔵であり、その報告書が『御陵幷帝陵内歟与御沙汰之場所奉見伺書附』(以下「書附」)である。私は神武天皇陵をめぐる治定の動向は概略的に知っていたが、この中条良蔵の登場には驚いた。彼は、国学者でもなく幕府の要人でもない。だが、現地調査と文献調査によってそれまでの神武天皇陵説を検証し、特に本居宣長や蒲生君平、そして北浦貞政『打墨縄 大和国之部』などで主張された「丸山」説を強く否定し、「書附」において「神武田」を神武天皇陵とすることを確定させた。これが安政2年(1855)のことである。しかし幕府としてはこの報告書に基づいて速やかに「塚山」から「神武田」に変更したのではない。

これが変更されたのは、いわゆる「文久の修陵」によってである。これは「書附」から7年半後の文久2年(1862)閏8月に行われたもので、宇都宮藩の建白に基づいて行われた歴代天皇陵の修陵事業である。間瀬和三郎がこの事業のプロジェクトリーダーだった。ここで、これまで政治課題だった神武天皇陵だけでなく、歴代天皇陵に対象が拡大した。その意味は詳らかでないが、「この「建白」は、幕末期における歴代の天皇陵をめぐる動向における極めて大きな転換点(p.126)」となった。

「文久の修陵」で陵墓の位置を考証したのが谷森善臣で、彼はやはり本居宣長らの「丸山」説を強く批判し、「神武田」を本命視した。本書にそう書いているわけではないが、大御所の宣長説を批判することに当時の人は意欲的だったのかもしれないという気がする。その他、蒲生君平、竹口栄斎、北浦貞政などの説も「学者はこういう風に見ているがとるに足りない」といった態度である。にもかかわらず、事務的に「塚山」→「神武田」に変更したのではなく、一応「神武田」と「丸山」の二説を孝明天皇に上申し、孝明天皇に「神武田」と勅諚を下してもらったのは示唆的だ。この際、「神武田」が確実に選ばれるように「丸山」には不利な論説が示されていたのは言うまでもない。これは、「丸山」のことを無視しえなかったことを逆説的に示しているのである。

このようにして朝幕の神武天皇陵の公式見解は「神武田」へ変更され、立派な陵墓にしつらえられていくのである。

しかし、国学者たちの「丸山」説は根強い人気があった。文人として著名な富岡鉄斎は平田篤胤の門人大国隆正に国学を学び、蒲生君平の墓に詣でたこともある人物であるが、津久井清影(平塚瓢斎)との書簡のやりとりで「丸山」説への傾倒を深め、「神武田」説を採る大沢清臣の著書『畝傍山東北陵諸説弁』に批判的な書き込みをしている。書き込みは明治12以降に行われているが、明治維新から12年たっても「丸山」説がくすぶっていたことがわかる。

また、白野夏雲は、鹿児島では『麑海魚譜』を著した人間として知られているが、彼も鹿児島県に奉職している明治18年に『神武天皇御陵考』を出版し、「神武田」説を批判した。彼は『日本書紀』『古事記』に基づいて谷森善臣の説を全否定し、「このままでは真の神武天皇陵がわからなくなる」と危惧した。彼は畝傍山全山が神武天皇陵であると考えていた。そして明治18年の段階でも世の中では「神武田」説への疑いがあったと述べている。

なお、天皇陵に注目したお雇い外国人もおり、英国のウィリアム=ゴーランドと米国のロマイン=ヒッチコックの見解が紹介されている。特にヒッチコックが、政府によって天皇陵が原型をとどめないほどに整備されていることは、文化財保護の観点から遺憾なことであるとしているのは新鮮だった。

本書の後半は陵墓以外の話題になる。まずは、勤王家の奥野陣七について。私はこの人物も全く知らなかったが、大変興味深い。奥野はいわゆる勤王の志士で、明治9年には鹿児島で西郷や大山綱良にも懇切にされたという。しかし彼はいわば「乗り遅れた側」で、同じ志士仲間が栄達する一方で不遇を託っていた。そんな中で陵墓や古蹟に関心が向き、『皇朝歴代史』など本を出版。さらに明治22年に畝傍橿原教会を設立して、神武天皇を祀る橿原神宮での活動を中心に敬神の活動を行っていくのである。

その活動の中で奥野は『神武天皇御記』を出版し、その中で「丸山」説を「先哲大人等」の考えとして好意的に扱っている。明治28年の段階でも「丸山」説はまだ命脈を保っていた。なお橿原神宮が創建されたのは明治23年だが、この創建にも奥野は民側としてかかわっていた。そして畝傍橿原教会は橿原神宮の祭典や行事に積極的に協力し、外郭的な立場から橿原神宮への信仰を喧伝していった。しかし教会が橿原神宮のお札「神符」の頒布利権を手に入れようとしたことなどから神宮と教会の間はギクシャクし始め、やがて橿原神宮は畝傍橿原教会とその関連団体の認可取り消しを求め、明治36年に取り消された。要するに奥野陣七は、公的なものとなっていた橿原神宮を、一民間人の立場で私物化するようなところがあったようだ。

終章では、神武天皇の即位紀年日である紀元節が、戦後「建国記念の日」として復活されたことを述べている。紀元節は即位日を新暦に換算して定められたが、その日程が不可解に変転しており、なぜか今でも法律(国民の祝日に関する法律)ではなく、政令で定まっている。戦後、これは「建国記念の日」として鞍替えされが、報道を見るだけでもこれには賛否両論があった。神武天皇は神話の存在であるが、現代に無関係なわけではない。

本書は全体として、神武天皇陵が治定される経緯については非常に詳しく、またわかりやすい。類書では簡潔に述べるような部分を丁寧に追っているので、意外な発見が多かった。そして改めて思ったのが、異論がありながらも「神武田」説が採用されたのはなぜなのか、ということである。大雑把に言えば、「丸山」説は国学者たちが『日本書紀』『古事記』の記載に基づいて主張し、「神武田」説は行政関係者が地名や伝承に基づいて主張した。なぜ彼らの方法論には違いがあったのか、それはなんらかの思想の違いに基づいていたのだろうか。

なお本筋ではないが、学者でもなんでもないのに神武天皇陵の位置を考察した中条良蔵や、一民間人の立場から橿原神宮にまつわる教会を設立した奥野陣七など、この時代には世の中の趨勢を捉えて名を挙げる無名人が出てくるのがとても面白かった。このような無名人物の名前が残っているということだけでも、急に神話や古蹟、神社・神道が注目されてくる時代の空気を感じることができる。

神武天皇陵の考証過程検証の決定版。

【関連書籍の読書メモ】
『天皇陵の近代史』外池 昇 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/blog-post.html
「天皇陵」がどのように形成されたかを述べる本。天皇陵をめぐる諸問題について見通しよく語る良書。

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