2024年5月17日金曜日

『儒教とは何か 増補版』加地 伸行 著

儒教を祖先祭祀の宗教として叙述する本。

儒教は、一般には倫理道徳の教えとして捉えられているが、著者に拠ればそれは儒教の「礼教性」だけを見たイメージにすぎない。著者は、儒教の本質は葬送儀礼を中心とする「宗教性」であって、それが東アジアにおいて「儒教文化圏」が形成されてきた力なのだという。

本書は、儒教の歴史を簡単に振り返りつつ、この儒教の宗教性について述べるものである。 

まず、儒教の核は「孝」だという。「孝」とは、父母や祖先を敬い子孫を残すことであり、また父母等の葬儀をし、その祭祀を行うことまでも含めた概念である。「孝」は血の連続を尊いものとみなす「生命論」なのだ。

であるから「孝」はあくまでも血族の論理なのであるが、孔子がそれを体系化したことにより、社会理論として成長していった。なお著者は白川静『孔子伝』を引き、孔子は葬儀を行うシャマンを源流として持ちつつ、「君子」という概念を持ち出してそこから脱皮した存在だとしている。

本来的には地域の共同体の思想だった儒教は、前漢時代、中央集権的な官僚組織に食い込んでいった。そこで儒教は、単なる政治理論であるだけでなく、古典の注釈・解釈を行う「経学」になっていった。

中央集権的官僚体制を取り込むために新しく作られたテキストが『孝経』と『春秋』である。『孝経』では、天子から庶人までの様々な社会的立場での「孝」を規定し、「孝」を血族で閉じたものではなく国家まで繋がるものとして再定義した。ただし、『孝経』では「孝をもって君に事うれば忠」と言っているが、本質的には「孝」と「忠」は対立するものであった。

『春秋』は、魯国(孔子がいた国)のある時期の歴史を述べたもので、儒教は歴史思想にもなっていき、またそれは歴史を修養の鑑とする「春秋学」へと繋がっていく。

さらに前漢の武帝の時代、五経博士という役職が国家に置かれたことで、儒教は国定の学問となった。 そして国定の学問になったことによって、儒教の「礼教性」と「宗教性」が分離する。国家の側では儒教の「礼教性」のみを取り上げ、「宗教性」は私的な領域でのみ生き残ることになったのである。 しかしながら、儒教の「礼教性」の基盤にはずっと「宗教性」があったのだと著者はいう。

後漢時代には、緯学という神秘思想が流行する。これは未来予知の思想である。本書ではそのように捉えられていないが、これは宗教性を帯びた儒教思想と見なせるだろう。一方で、『周礼』が(おそらく)偽作され、理想化された古代の王国がかなり具体的な政治の基準として考えられるようになった。

隋代には科挙が実施されるようになり、儒教はさらに世俗化した(礼教性のみが強調された)。宋代に至り、周濂溪の『太極図説』を元に朱子が宇宙論・存在論を構成したが、朱子学では現実世界の個別的なモノ以外の実在を認めなかった(プラトンのイデア的なものを措定しなかった)。著者はその思想を唯物論的かつ素朴実在論的であると評している。そしてこうした思想によって、朱子学では鬼神の存在をうまく説明できなくなってしまった。 「鬼神について統一的説明ができないということは、朱子学における最大弱点(p.216)」である。鬼神が存在しないとすれば、私的領域では連綿と行われてきた祖先祭祀の意味がなくなってしまうからである。

こうしたことがあったのか、朱子が41歳の時に母が亡くなると、彼は『家礼』という本を撰したと言われている。これは葬儀のマニュアルであり、後に大きな影響を与えた。しかしながら、国家の正統的儒教は科挙の学問であったために宗教性は捨象されていた。そして清王朝の滅亡とともに科挙も終焉。「今日においては(中略)礼教性的儒教は、その一般性や組織においてほぼ完全に崩壊した(p.246)」。ところが、儒教の宗教性の方は祖先祭祀として現代でもしぶとく生き残っている。

著者が本書で度々繰り返すのがここで、著者は「儒教には礼教性(道徳・倫理)と宗教性がある。しかし儒教論においては、宗教性を除く、或いは認めないのが一般的であった。その誤りを正すために本書を著した(p.228)」としている。

ところが、この主張はちょっと額面通りには受け取れない。というのは、「その宗教性については、私が独創的に定義化し構造化しなければ、だれも分からなかった(p.153)」としていたり、「中国の知識人自身が、漢代以来、儒教の[宗教性を忘れ]礼教性だけを見てそれを儒教の本質であると誤解するようになって今日に至っている(p.159)」と述べているのだ。

著者によれば、儒教は二千年も誤解されてきた(「儒教知識人の大いなる儒教誤解(p.183)」)。しかし、そんなことがありうるのだろうか。儒教を初めて理解したのが著者だというよりは、著者が儒教を誤解している可能性の方がずっと高い。ではその論理のどこに誤りがあるか。

私が一番疑問に思ったのは、祖先祭祀は儒教なしではありえなかったかどうか、ということである。北東アジアには確かに祖先祭祀が広く見られ、これは西欧世界とは様相が違う。著者はこの祖先祭祀は儒教が大きく影響しているとみており、それは間違いないだろう。しかし儒教によって祖先祭祀が行われるようになった…かどうかは、検証を要する。むしろ祖先祭祀の民俗を儒教が取り込んだと考える方が自然だ。

「儒教の宗教性は、民衆的な祖先祭祀を基盤としているのだ」ならわかるが、「民衆的な祖先祭祀は儒教の宗教性に基づく」というには、祖先祭祀の民俗を詳細に調べてみなければならない。その作業が本書には完全に欠落している。

なお著者はあまり重視していないが、儒教では「天」を祀る。北京に残る「天壇公園」の壮大さは見る人を驚嘆せしめる。では儒教なしでは祭天は行われなかったか、というと、おそらくそうではないだろう。儒教以前から祭天の古俗はあった。

また、著者はほとんど無視しているが、儒教には「釈奠(せきてん)」という孔子を祀る儀式もある。これは儒教の宗教性を示すもので間違いない。

それに、孔子の同時代の諸子百家と呼ばれる人々は、儒家を批判する際に、豪華な葬式や長い服喪を問題視していた。確かに儒家はその宗教性が特徴だと思われていたのだ。だから私は、著者の見解が的外れだといいたのではない。著者が、儒教の宗教性を深く腑分けすることなく、「祖先祭祀」のみを取り上げて、それだけで儒教の歴史を読み解いてしまうことに違和感を覚えるのだ。だから、本書には参考になる部分も多いが(特に前半はとてもエキサイティングである)、どこか腑に落ちない読後感を抱かせる。

儒教の宗教性は理解できるが、著者の主張が先走った感じがする本。

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2024年5月10日金曜日

『江戸の王朝文化復興—ホノルル美術館所蔵レイン文庫『十番虫合絵巻』を読む』盛田 帝子/ロバート・ヒューイ 編

江戸の王朝文化復興のムーブメントを「十番虫合」から見る本。

本書は、ホノルル美術館所蔵の『十番虫合絵巻(じゅうばんむしあわせえまき)』が、同絵巻の最善本であることがわかったことから行われた国際共同研究の成果をまとめたものである。

さて、この「十番虫合」とは何かというと、天明2年(1782)8月、隅田川のそばにある木母寺(もくぼじ)で行われた優雅な遊びである。参加者は左右に分かれて、それぞれ松虫と鈴虫をテーマに和歌を提出する。また同時に、それにまつわる「洲浜(すはま)」と呼ばれる作り物(ミニチュア)も提出。和歌と洲浜はそれぞれ優劣が判定され、この勝負が10番行われた。この時の参加者の一人である三島景雄が、和歌、洲浜、その判定を記録したのが『十番虫合絵巻』なのである(正確には、洲浜は別の画家が描いたのを模写した可能性が高い)。

【参考】十番虫合絵巻
https://juban-mushi-awase.dhii.jp/index.html

こういう、歌や物を優雅にしつらえて対決する遊びを「物合(ものあわせ)」という。これは平安時代の宮廷で行われていたものだ。では、江戸の町で、こんな王朝風の遊びが行われたのはなぜなのだろうか。

その一つの契機となったのが、明和2年(1765)に田安宗武(徳川吉宗の子)が行った「梅合」である。男女に分かれた参加者が趣向を凝らした梅の洲浜を対決させた。「宗武は有職学・服飾学・雅楽・歌学の知識を集約して王朝時代の物合を江戸で再興したのである(p.130)」。この頃、王朝風服飾文化復活の流れがあった。

その動きを引き継いだのが荷田派の古学者で、寛政の改革(1787~)で下火になるまで歌合が流行した。その中心には、京都の堂上歌人有栖川宮職仁(よりひと)親王の門人の三島景雄や賀茂季鷹がいた。

その頃、京都(朝廷)では歌合は廃れていたばかりか、なぜか禁止されていたらしい。江戸では、歌合・物合をもちろん宮廷行事ではなく「遊戯」として行った。「身分の低いものが公家の真似をするのは恐れ多いことであるが、ただの遊びなのだからよいだろう」という理屈で彼らは自他を納得させていたようだ。

面白いのは、「十番虫合」の参加者である。一番身分が高いのは刈谷藩主の土井利徳(としなり)。主催者は旗本の川村蔭政。和歌の判者は賀茂季鷹。彼は有栖川家に仕えた歌人で、荷田御風(のりかぜ)の門人(後に京都に帰り賀茂神社の神職となった)。作物の判者は加藤(橘)千蔭で、彼は江戸町奉行の与力。賀茂真淵の門人で「県門四天王」の一人に数えられる。与力は今でいうと警察署長クラスらしい。そして先述の三島景雄であるが、彼は幕府御用達の呉服商である。

これだけでも、大名、旗本、与力、商人が同席しているが、さらに歌を提出した人々を見ると、医師、同心、装飾金工(職人)、詳細不明の女性など多様な身分の人がいた。王朝文化復興に憧れたのは上級武士だけではなかった。そしてそれが「遊び」の場であればこそ、身分を超えて王朝文化に参画することができたのだ。そして王朝文化の再興といっても、そこには公家が一人もいないことは示唆的だ。

そして、この催しが木母寺で行われたのも偶然ではなさそうだ。隅田川は、かつて在原業平が「いざ言問わむ都どり」と遠い都を思いながら歌っており、京の都のみやびを呼び起こす歴史的な場所だった。また木母寺は、京都の公家の子梅若丸に始まる寺であり、また江戸時代には勅使が参詣する寺でもあった。つまり木母寺は「江戸にあって宮廷文化の香を格別に色濃く醸す場(p.158)」であったと考えられる。

そしてもちろん、王朝文化の中心をなすのが和歌であったことは言うまでもない。特に「千年以上にわたり開催され続けた歌合は、勅撰集に次いで和歌史において重要な位置を占める営為(p.165)」であった。

平安時代の歌合は遊戯というよりは公の儀式であり、午後3時頃から夜通し続けられ、酒や管弦の演奏もあった。そこでは自作の歌が披露されたのではなく、歌を持ち寄って対決させ、その議論が行われた。

歌合は鎌倉時代には空前の隆盛期を迎え、朝廷の威信回復を目指す後鳥羽上皇によって史上最大の歌合とされる「千五百番歌合」が開催された。江戸時代には、元禄時代から歌合が京都・大坂で地下人(ぢげにん)によって行われた(ここでいう地下人は官位を持たない人の総称と思われる)。特に国学諸派が成立すると、その流派の中で多くの歌合が催された。歌合の開催が堂上(とうしょう=上級公家)ではなかったことは、江戸の王朝文化復興の特質を示しているように思われる

歌合は真面目な古典復興のムーブメントであったが、一方で物合は、狂歌師が中心となったちょっとふざけた(パロディ的な要素がある)遊びであったようだ。江戸時代には物合の大ブームがあったが、「狂歌師たちのパロディ物合にも、大名筋の貴人たちが別名を用いて登場(p.174)」した。ここでも「遊び」が身分を超越する場として機能していた。物合の会場としてよく寺院が選ばれていたが、これも身分超越の性格があったからかもしれない。

なお寛政の改革の影響で物合も下火になるが、代わりに19世紀初頭には古器古物等を持ち寄って考証する会が行われた。古書画を鑑定して楽しむ会だ。古い時代への関心と知識があったことが窺える。それらの動きは、やがて古物古美術木版図録である『集古十種』に結実する。これは松平定信に後援された民間のプロジェクトであった。

ともかく、「十番虫合」は、当時ブームになっていた歌合と物合を組み合わせた、身分を超越する「遊び」だったのだ。ちなみに物合のテーマとして「虫」が選ばれたのは、当時、鈴虫・松虫などの声を愛でる「虫聴(むしきき)」が流行していたこともあるようだ。

さて、ここでこの『十番虫合絵巻』の判定を読んでみると面白いことに気付く。それは、歌の判定は至極アッサリとしている一方で、作物(洲浜)の判定にはとても力が入っているということだ。そして洲浜自体も、かなりのコストを掛けて制作していたようである。

洲浜は一種のミニチュアで、『源氏物語』や『古今和歌集』『伊勢物語』など各種の古典を踏まえつつ、和歌にちなんだものを虫かごに設えたものである(なので、実際に松虫や鈴虫が入っている)。洲浜は提出された和歌と無関係ではないが、それよりも古典を題材にして(本歌取りして)作られている。平安時代の物合にも作り物が伴ったらしいが、工芸の力によって平安時代をミニチュアで表現したのが「十番虫合」の洲浜なのだ。そしてこれに非常に力がこもっていたためか、参加者はこれを絵巻にして記録する意義を感じた。これ以外に作り物を描き留める例はないのだという。

つまり、 「十番虫合」は王朝文化に興味を持つ人々の「遊び」であったが、王朝文化の核心である「和歌」よりも、それを踏まえた雅な作り物「洲浜」があってこそ成立したと考えられる。これは江戸の王朝文化再興を考える上で非常に重要な点だと感じた。文芸という抽象的なものばかりでなく、手に触れられるモノを媒介にして人々は王朝文化の香を感じたのであろう。

ところで私が本書を手に取ったのは、明治維新との関連である。明治維新は、言うまでもなく王政復古の革命であった。そこでは結果的に「神武創業」が謳われたが、王政復古を考えていた人たちはその基準を王朝文化としていた節がある。そして明治維新後も、日本文化を表象するものとして王朝文化が(おそらくは意図的に)称揚された。日本文化といえば、まず『源氏物語』なのだ。

それは明治政府を動かした人たちが恣意的に設定したのではなく、江戸時代の中頃から徐々に醸成されていた。様々な身分の人たちが、王朝文化を「発見」し、それを擬えた「遊び」によってそこに参画しようとしていた。それは、明治維新とは一見何も関係ない。しかしそれは、文化的に明治維新を準備していたといえなくもない。それは理想化された過去の日本を復活させようとする取り組みの一つだったのである。

 『十番虫合絵巻』を正確に理解することで、江戸時代の王朝文化復興を多面的に捉えた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『歴史で読む国学』國學院大學日本文化研究所編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/09/blog-post.html
国学の発展の歴史を平易に述べる本。国学史の教科書として現時点の決定版。荷田派の活動も取り上げている。

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2024年5月7日火曜日

『土の思想(叢書 身体の思想6)』宮田 登 著

民衆の思想を述べる本。

本書は、民衆の思想、なかんずくその信仰に関する思想を取り出して、交通整理するような本である。大上段の結論があるわけではなく、いくつかの象徴的事実と研究の現況、その課題を提示し、著者の考えを述べている。ただし昭和52年(1977)の本なので、研究の現況についてはちょっと古びている。

まず、著者は「日常性の思想」に注目する。歴史が非日常的な断絶で述べられるのに対し、民衆の暮らしは言うまでもなく日常的なものであった。ここで柳田国男以来の「ハレとケ」の論理の話となるが、ここは現代からみるとあまりに観念的な枠組みに感じられる。

ひとたび飢饉が起これば、そういう日常性は破壊されたが、むしろ非日常においてこそ、日常性を強化・喧伝することが行われた。通俗道徳や生活律の遵守、節制、遊興の禁止などを訴えて「先祖株組合」を作り、体制側に表彰された大原幽学はその象徴である。大原幽学を受け入れた村では、村落崩壊の危機的状況に対処しようとしたのである。ここで「先祖」が持ち出されていることが興味深い。

勤労を訴えた二宮尊徳も同様に、自らの家の再興を図って一族の祠を作って聖地となし、先祖祭りを励行している。 これらの事例は逆に、この時代、「先祖」があまり民衆に意識されていなかったことを物語っているように思われる

一方で、先祖とか規律とかを言わず、副業を勧めるなど合理的な手法を提示した大蔵永常がそれほど民衆に支持されなかったことも興味深い。民衆を動かすには、やはり精神的な何かが必要になるのかもしれない。

次に、男女和合の思想が取り上げられる。江戸時代以降、双体像の同祖神がつくられたり、道祖神の前で性交が行われた(とされる)。本書には指摘がないが、こうした性的な道祖神信仰が北関東から東北にかけて多く見えるのが興味深い。これらの地域は幕末には大変な人口減少に見舞われた地域であり、人口の再生産が社会的課題となっていた。

性器を露骨に象った神体を祀るのも文化文政期以降に集中するという。やはり性の信仰は農村の荒廃、人口減とリンクしていると考えられる。さらに著者は富士信仰の不二道を取り上げ、そこに性の信仰(男女の行為を「おまつり事」として聖なるものと考える)が見られることを指摘している。富士講は「江戸八百八講」と言われるほど蔓延した。

次に、民衆の間で一時的に流行し、流行りが落ちつくとパタッと祀られなくなる、いわゆる「祀り棄て」と言われる現象を取り上げる。これは麻疹や疱瘡の流行と関係していることが多い。流行が過ぎさえすれば、後は継続的な祭祀など不要だから「祀り棄て」されるのだ。

興味深いのは、民衆の間では疱瘡神が恐ろしい姿をして祟る、というような考えはほとんどなかったということだ。「むしろその霊験にあやかろうとしているところもある(p.93)」。疱瘡神を丁寧に持てなし、「神送り」して出て行ってもらう。疫病神を遠ざけるのではなく、楽しくお祭りをしてもてなすという考え方が非常に面白い。

一方、稲の害虫は悪神の祟りとみなす心意が古くからあった。こちらも藁人形を焼き払うなどして「神送り」をする。しかし疱瘡神と違ってお祭り的な要素は少ないようだ。何が違うのだろうか。

これらの事例から、著者は「人が必要ならば神仏を作り不必要ならば祀られなくなるという単純な理屈(p.103)」を指摘し、「祀って棄てるというのは、いかにも巧智にたけた思考」だとしている。巧智にたけているかどうかはともかく、必要性に基づいた合理的な考えで神仏に対処していたといえる。

さらに化政期以降、「狐憑きの狐を落として、これを稲荷に祀りこめたのが流行神となる傾向が集中して出てきた(p.107)」とし、稲荷神は人神の要素を持っていたと指摘している。これを含め、江戸時代後期には雑多な神々が祀られるようになっている。我々は、近世以前には雑多な神々が各所に祀られていたというイメージを持っているが、それは中世以来のものではなく、近世後期になってからのものらしい。さまざまな講が盛んに行われたことや(とりわけ山岳代参講の激増)、御師の活躍(実用品を配っていた)などもその背景にあった。しかし幕府は雑多な神々を「新義異宗の禁」として規制した。

次に、近世末期からの一連の新宗教運動が取り上げられ、それらがいずれも「ユートピアを求める思想」の側面を持っていたことが指摘される。

日本の昔話には「鼠浄土」とか「地蔵浄土」といった異郷観があり、それは地下(しかもそんな遠くではなくすぐ近く)にある明るい世界、一種のユートピアであった。膳椀が上流から流れてきてユートピアたる隠れ里が明らかになるといった話も多い。しかしそれらは、単なる富貴の里であって、万能の神のような壮大な観念はないことが特徴である。

また、女ばかりが住む楽天地がどこかにあるという観念もあり、八丈島はそういう女護島だとみなされていた。それには、八丈島の女性優位な習俗が影響していたのかもしれない。甑島もそういう島だったという伝説がある(林笠翁『仙台問語続編』)。

また江戸時代には、「世直し」を民衆が求めるようになっている。大地震が起こった時に「世直し、世直し」と唱えたというのは象徴的だ。日本の「世直し」はメシア的存在が希薄で、地震を起こすのが大鯰であると観念されるなど、壮大な物語・神話と接続されていたのではなかった。

「世直し」の言葉を使った早い例である三河の加茂一揆の実録『鴨の騒立』では、一揆の参加者は「その家の仏壇をこわし、本尊を馬小屋の柱に縛りつけ(p.167)」ている。これは大原幽学や二宮尊徳が先祖祭祀を盛んに喧伝したことと鋭い対照をなしている。これには檀家制度に対する批判もあったのかもしれないが、善政の要求が宗教改革とセットになっているのだ。さらには、田沼政権を倒した佐野善左ヱ門や百姓一揆の指導者菅野八郎が「世直大明神」と称されたことも注目される。なお、「世直し」と似ているが、この世が他律的に改まるという「世直り」もしばしば用いられた。

幕末の新宗教は、これを例えば「弥勒の世」(富士講、天理教)と繋げるなど、宗教的次元で再構成した。また不二道では「元の父母の創始した世界」に「おふりかわり」するとしたし、如来教のきのは世界の始まりは「泥の海」だったという創造神話を述べた。それまで、民衆思想の間には創造神話が希薄だったのに、幕末になっていろいろな創造神話が生まれてくるのは大変興味深い。

著者は本書を「民俗学的視点から歴史像を再構成する可能性を試みたもの(p.187)」と述べており、特に「民衆宗教の創出されるプロセス」に注目している。特に「日常性の中から、非日常性としての形象が創造されるプロセス(p.189)」を分析したという。しかしながら、私には著者の分析は観念的すぎるように思われ、「民衆宗教」が分析の枠組みの前提となっている点で、最初から結論を決めてかかっているように感じた。

私には、民衆が求めているものはひたすらに(著者の用語を使えば)「日常性」の幸福であり、それは具体的に言えば順調な農業と、家族の健康と、子どもたちの成長であったと思う。それに役立つのなら、神仏と農業技術と生活の知恵には何の違いもなく、完全に同じ次元で見ていたと考えられる。

にもかかわらず、幕末に創造神話をもつ新宗教が生まれてきたのはどうしてなのか。確かにそこには「非日常性」を持つ何かを求める心理があった。つまり、幕末の民衆は、「日常」に飽き足らなくなっていたのだ。どうしてそうなったのか。その点に関して、本書はあまり目を向けていないようだ。それは「民衆宗教」の創出を宗教的次元のみで説明しようとしているからだと私は思う。幕末に民衆の暮らしがどう変わっていったのか、そこを見ないことにはこの動きは説明できないのではないだろうか。

いろいろ考えさせる事例は豊富に提出されるが、民衆宗教を見る目はやや一面的な本。

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2024年5月6日月曜日

『もう一人のメンデルスゾーン——ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルの生涯』山下 剛 著

メンデルスゾーンの姉の生涯を述べる本。

クラシック音楽の歴史において、随一の才能を持っていたのがフェーリクス・メンデルスゾーンであるが、その姉ファニー・メンデルスゾーンも弟に負けず劣らず音楽の才能があった。しかし音楽家として成功した弟と違い、その活躍の場は限られ、家庭人として一生を終えざるを得なかった。本書はこの知られざる作曲家・音楽家、ファニー・メンデルスゾーンに光を当てるものである。

彼らの祖父モーゼスは低い身分のユダヤ人として生まれたが、勉学に勤しみ哲学者として大成した。『モーセ五書』のドイツ語訳をしたのもモーゼスの大きな功績である。彼は子どもの教育にも極めて熱心で、長男ヨーゼフと次男アーブラハムは金融業の世界で目覚ましい成功を収める。このアーブラハムがファニーの父親である。

一方、母親はレーア・ザロモン。彼女は裕福なユダヤ人銀行家の娘であった。アーブラハムはかつてフランス贔屓だった(つまり共和制に憧れた)が、レーアと結婚して社会的地位も安定するとプロイセンに適応して愛国者になった。彼はユダヤ人として最初のベルリンの市参事会員になっている。その背景には、フランス支配下の重税や徴兵、文化統制や検閲により、フランス革命への幻滅があったこと、ドイツ統一を求める民族主義の高まりが指摘できる。この時代、「ユダヤ人解放令」によってユダヤ人は建前としてドイツ人と同様の権利を認められたが、民族主義の高まりの中で反ユダヤの動きも起こってくるのである。

アーブラハムはこうした中、子どもたちに厳格で高レベルな教育を施し、ドイツ人以上にドイツ文化を身につけさせた。さらに子どもたちはキリスト教徒として育てている。ファニーやフェーリクスは利発で、様々な面で優れていたが、殊の外音楽には優れた才能を示し、作曲をツェルターに教わった。ファニーはフェーリクスより4歳年上だったので、フェーリクスよりも早く作曲に習熟した。しかし父親は作曲に熱中するファニーを諫め、「女らしさだけが女性の勲章」と諭している。

ところで、ツェルターはジングアカデミー(ベルリンの民間音楽組織)の監督であり、音楽教育家(マイアベーアの師)でありまたオルガニストでもあったが、驚いたことにレンガ積み職人でもあった。彼は不安定な音楽の仕事の収入を補うため、王立協会アカデミーの教授になった後でも、職人との二足のわらじを履いていたのである。

一方、メンデルスゾーン家には湯水のようにお金があった。旅行をすれば王侯貴族の行列のようなのだ。フェーリクスは父に連れられて見聞を広め、当時神のように崇められていたゲーテにも紹介された。ファニーも追ってゲーテと面会したが、弟と同程度の音楽の技術や才能があったのに、彼女が話題の中心になることはなかった。ファニーはちょっと音楽の得意な娘さんとしか扱ってもらえなかったのである。なおフェーリクスは大学に進学しているが、ファニーは進学させてもらっていない。

そんなファニーが力を注いだのが、メンデルスゾーン家で定期的に行われる日曜音楽会である。これは私的な演奏会であったが、各界の名士が参加し、自作を披露できる場になっていた。ファニーは優れた歌曲を書き、またフェーリクスの「無言歌」にもファニーの作品が紛れ込んでいるのではないかと考えられている。

ファニーは画家のヴィルヘルム・ヘンゼルに求婚される。しかし両親は直ちに結婚を認めず、ヴィルヘルムはその後5年間ローマに留学。その間、彼はメンデルスゾーン家の人々を理想化した肖像画を送って求婚し続けた。留学から帰ると、ヴィルヘルムはプロイセンの宮廷画家に任命され、1829年に結婚を認められた。

この1829年には、フェーリクスが中心となりバッハの『マタイ受難曲』の復活公演が行われているが、これにはファニーも重要な役割を果たした。ファニーは弟以上にバッハを崇拝しており、13歳の時、父アーブラハムの誕生日にバッハの平均律第1集の全24曲を暗譜で弾いている。なお、これは一族に賛否両論を巻き起こしたらしい。あまりにも音楽に入れ込みすぎているというのだ。

そして同年、『マタイ受難曲』の上演が終わると、フェーリクスはイギリスへと旅立った。「ファニーはその後も家族や大勢の友人たちに囲まれていたが、憂鬱に取りつかれ、心には大きな穴が開いたようだった(p.89)」。ファニーにとって、フェーリクスは自分の分身であり恋人のような存在だったのである。この年の1月4日からファニーが日記を書き続けていることは象徴的だ。

ただ、ファニーの家庭生活は幸福だった。25歳の時には男児を出産。バッハ、ベートーヴェン、フェーリクスに因んでゼバスティアン・ルートヴィヒ・フェーリクスと名付けられた。ヴィルヘルムは音楽の素養はなかったが、同じ芸術家としてファニーの創作活動を応援した。逆にフェーリクスは、姉の音楽の才能を大いに買いながらも、主婦の役割に徹するべきだと主張していた。このあたりはとても面白い。

ファニーが30歳の時、父アーブラハムが死ぬ。ファニーの創作は父を喜ばせたいとの思いが強かったので、父の死去はその意欲を減衰させた。またフェーリクスは実家住まいではなかったので、自然とファニーが一族を取り仕切る役目となり、自分自身の時間が持てなくなった。日曜音楽会も中止され、ファニーは作曲の意欲を失った。そこには、結局自分の作品を理解してくれる者が誰もいないという孤独感も伴っていた。フェーリクスに手紙を書いても、そこに温かい言葉はなかった。ファニーは深刻な鬱状態に陥っていく。

ファニーは弟の顔色を窺いながらも、歌曲集を出版。フェーリクスはそれに対してお祝いの言葉一つ述べず、母には「芸術家になるにはファニーには意欲も使命感もない」などと書いている。この時期、彼は彼で追い詰められていたのであるが、姉の才能を理解しながら(彼は「生涯にわたってファニーを音楽の手本として仰ぎ、自作に対する彼女の批評を最高のものと見なした(p.196)」)こういう切り捨て方をしているのは驚きである。父の死後、フェーリクスがアーブラハムの役割を引き継いで、女性を家庭に押し込める言動をするようになっていた。

そんな中でも、1838年、ファニーは生涯で唯一の公開演奏を行っている。上流階級の人たちによる慈善講演会(収益を貧しい人たちに寄附する)である。イギリスの音楽批評誌「アシニーアム」はファニーについて「ミセス・シューマンやミセス・プレイエルと並んで、超一流のピアニストとして世界中に有名になっただろう」と書いている。だがファニーは職業人として有名になるには、あまりに上流階級のお嬢さんすぎた。

33歳の頃、ファニーたちは家族で1年にわたるイタリア旅行に出かけた。ファニーは最初こそ落ちぶれたイタリアの姿に幻滅したが、ローマでフランスの芸術家たちと知り合って意気投合。彼らはファニーに演奏をせがみ、ファニーはバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽の本格的な作品を次々と弾いた。彼らはその素晴らしさに感動し、「ファニーは日に日に心が解放されていくのを感じた(p.151)」。ファニーは人に認めてもらえる喜びを噛みしめた。なおこのフランスの芸術家の中に、『アヴェ・マリア』で有名なグノーがいる。『アヴェ・マリア』(バッハ平均律第1巻第1曲のプレリュードを伴奏にした歌曲)はファニーの影響で作曲されたものである。こうして、たった2ヶ月間であったが、ファニーはローマで人生最良の日々を過ごした。

ローマから帰ると、ファニーは旺盛に音楽活動に取り組み始めた。ベルリンは三月革命前の混乱した政治状況にあり、母の死などもあったが、ファニーには平穏で幸せな日々が続いた。ヴィルヘルムもファニーの音楽活動を励ましていた。また司法官試補コイデルと出逢い、彼がローマでのフランス人芸術家たちのようにファニーを崇拝して、活気をもたらした。コイデルの助言でファニーは歌曲の出版を決めた。その時にフェーリクスに出した手紙にはこうある。「私は14歳の時にお父さんが恐かったように、40にもなって弟たちが恐いのです(p.186)」。フェーリクスは保守化しており、政治的に急進的な青年ドイツ派の作家や女性の社会活動家には嫌悪を示していた。しかし姉の曲集出版にはしぶしぶながら「了承」を与えている。ファニーはフェーリクスからわざわざ了承を得なければならなかったということが、彼らの関係性を表している。

それでもファニーは許しが得られて幸せだった。編集や曲作りに幸せいっぱいに取り組み、次々と作品を出版した。「当時の音楽界は女性に独創性など認めていなかった(p.194)」が、ファニーは作品で反論できることを励みにして意欲に溢れていた。

なお、同じ女性音楽家であるクラーラ・シューマンもファニーを作曲家として認めていなかったというのが興味深い。クラーラはファニーのピアノの腕には舌を巻いていたが、その活動を全面的には認めていなかった。クラーラは貧しい生まれで、幼い頃から演奏活動で家族を支えていた。彼女らは育った環境があまりにも違いすぎて互いにしっくりこないものがあったらしい。

1847年5月14日、意欲的に活動していたファニーは、突然脳卒中で倒れ、その日のうちに息を引き取った。41歳。遺作となったのは、前日に作曲された歌曲『山の喜び』。「そこには、生きていればファニーの前に開かれたであろう広々とした自由な世界が潑剌とした曲調で描かれていた(p.205)」。

フェーリクスは姉の死に衝撃を受けた。彼は姉の創作活動を妨害していたことに罪悪感を覚え、「まるで姉に対する罪滅ぼしのように(p.210)」その遺稿集をまとめた。そして憔悴したフェーリクスは、姉の死から半年後、38歳で亡くなってしまうのである。フェーリクスの亡骸は姉の横に埋葬された。

ファニーは、上流階級に生まれたことでその可能性を狭められた面がある。同時代のクラーラ・シューマンは働かざるを得ない境遇だったために、女性ピアニストとしてヨーロッパ中で活躍できた。だがファニーは女性が外で働くことが「はしたない」とみなされる階級であった。それでも、音楽活動に理解ある夫のおかげで、その枠内では「才能ある女性に許されていた可能性を当時としては十二分に生かしきったとも言える(p.215)」と著者はいう。

とはいえ、ファニーの人生には女性が直面せざるを得ない現実が象徴されている。つまり、人生で一番意欲と能力と体力が溢れた時期に、女性は子育てをやらなければならず、子育てが一段落してようやく自分の時間が持てるようになった頃には、もう以前ほどの能力や体力はなく、人生の可能性が狭まっている、という現実だ。現代では、女性が外の世界で活躍することはそれほど悪く思われていない。それでも、女性は人生のある時期、出産や育児にかかりきりになってしまうから、女性は家庭人となるか、自己実現を図るかで二者択一を迫られてしまう。

ファニーの場合、家庭人となったことは悪くなかった。夫は典型的なビーダーマイヤー型(小市民型)であり、現実的なつまらない面を持っていたが、それだけに妻を愛して家庭を平穏に守った。それがファニーの限界を定めた面もあるものの、ファニー自身も家族を愛して幸せだった。夫を亡くしたクラーラ・シューマンが、子どもを家政婦に預けて演奏旅行で飛び回らなくてはならなかったのと比べると、どちらが幸福というのではないが、やはりファニーは恵まれていたといえる。彼女が「忘れられた音楽家」にならざるを得なかったとしてもだ。

なお、ファニーは手紙を大量に書いており、中断はあるが日記を死まで書いていることから、メンデルスゾーン研究の基礎資料を残してくれた。「ファニーの一人息子ゼバスティアンはモーゼに始まるメンデルスゾーン家三代にわたる評伝を著し、これがその後のすべてのメンデルスゾーン研究の出発点となった(p.216)」 。

非凡な才能を持ちながら、時代の制約からついに活躍できなかった女性を描く力作。

【関連書籍の読書メモ】
『メンデルスゾーン』ひのまどか著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/04/blog-post_13.html
平易かつ内容のしっかりしたメンデルスゾーン伝。

『クララ・シューマン』萩谷 由喜子 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/04/blog-post.html
クララ・シューマンの伝記。世界で初めて、妻・母としてコンサートピアニストの人生を全うした一人の女性の生涯。

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2024年4月29日月曜日

『近代天皇制と伝統文化──その再構築と創造』高木 博志 著

近代天皇制と伝統文化との連関を論じる本。

明治維新以降の近代天皇制においては、前近代の文化を再構築した「伝統文化」を不可欠とした。郷土愛が愛国心に包摂されていったのも、近代日本のアイデンティティの確立にも、国体を体現する伝統文化が大きな役割を果たしていた。

一方で、明治政府は神仏分離政策によって神仏の文化を変容させ、また近世の様々な文化を迷信として退け、破壊してもいた。維新以降の政府が天皇制のよりどころとした「伝統文化」は、自然発生的に形成されてきたものではなく、遡及的に再構成されたものであったのである。伝統文化という概念そのものが、政府に都合よく取捨選択されて生み出されたものなのだ。

第I部 天皇制

「第1章 伝統文化の再構築と創造」では、京都の位置づけの変化を中心として、明治政府の伝統文化政策を述べる。

明治初年においては、政府は開化政策にやっきになっていた。しかし明治10年、約半年にわたり京都に天皇が滞在した行幸を契機として、「世界の「一等国」には歴史や伝統文化が不可欠とのコンセプト(p.21)」が浮上する。

神仏分離以降、等閑視されていた皇室関係寺院や(歴代天皇の陵があった)泉涌寺(せんにゅうじ)も、この頃に保護が始まる。もっとも、神仏分離政策によって皇室祭祀は全て神道によることとされたため、仏式の法要等はあくまでも皇室の私的なものと整理された。

明治16年(1883)には、岩倉具視の「京都皇宮保存ニ関シ意見書」で京都復興策が提起される。そこでは即位式・大嘗祭を京都御苑で行うことを核とし、賀茂祭・石清水放生会・春日祭の「旧儀」を復興するなど古都京都の旧慣保存を訴えた。1880年代は、近代化と歴史や伝統が組み合わされて、国家のアイデンティティの形成が図られる時代だった。そうした情勢の中、明治16年2月には宮内省に諸陵寮が復活。6月には泉涌寺の開山俊芿(しゅんじょう)に大師号が宣下された。

明治19年(1889)、伊藤博文は、所在の分からない山陵があるのは「外交上信を列国に失ふ」と述べ、同年、未治定の13陵が一括して決定された。現在の外交感覚から見て、伊藤博文の懸念は全く理解できないが、歴史と伝統こそ国の立脚するところとの観念があったためであろう。

こうした旧慣保存政策の嚆矢となったのは、明治4年(1871)4月の「大学」からの建言「経歳累世ノ古器旧物敗壊致候モ不顧、既ニ毀滅ニ及候(p.31)」との批判である。この時期、未だ廃仏毀釈は一部で進行中であったし、同年11月の大嘗祭は京都ではなく東京で行われ、依然として前近代の伝統は軽視されていたが、経文・仏像・仏具などが「古器物」として位置付けられた。ただし町田久成などがおこなった翌年の宝物調査でも、仏像はあまり取り上げられなかった。仏像は、信仰がなくては意味がないものとの観念があったのかもしれない。

町田は、社寺の貴重な宝物が国外に流出することを懸念し、宝物の保存に取り組んだ。明治10年(1877)の大和行幸の際、法隆寺から宝物献上の願いが出されたことを契機に、皇室は大量の御物を集積することとなり、御物は一般の文化財と別に秘匿された形で保存されていくことになる。

一方、明治11年(1878)には内務省が社寺の「創立再興復旧」を認める。追って400年前を指標にした古社寺に限定されるが、建造物の保護政策が採られた。さらに翌年、大隈重信は延暦寺の「旧観」保存を訴える。内務省社寺局長の桜井能監も大社寺の法会などの復興を建議している。

こうした趨勢の背景にあったのは、列国との関係であった。列国は近代的な相貌の裏に、王室儀礼を重視するなど伝統文化をアイデンティティにしていた。各国に独自の文化があることが「一等国」に不可欠だと考えられた。特に岩倉具視は東京と京都を、ロシアにおける首都モスクワとサンクト・ペテルブルグの関係になぞらえ、首都と古都の役割分担を構想した。その背景には、京都在住の華族たちを保護する意図や、彼らの意向があった。

しかし、京都の伝統文化は、近世以前のまま保存されたのではなかった。それを象徴するのが京都御所・御苑である。京都御所は近世には庶民にも開かれた場所だったが、外交に活用するための場として再整備された。同時に、東京の皇居も伝統を強調する形で整備された。

この頃の政府は、対外的には伝統と歴史を強調しつつ、同時に近代国家としてのしつらえを整えていた。そんな中でも、私的な領域では実際の伝統が細々と連続していた。宮中でも、仏教信仰は続けられ、とりわけ英照皇太后・昭憲皇后は泉涌寺に帰依した。1895年、明宮(はるのみや=後の大正天皇)が病気になった時は泉涌寺で焰魔天供が執り行われている。さらに1912年、明治天皇の強い意志により、京都の桃山に御陵が造営された。明治天皇の死が、古都京都の変化の区切りとなった。

「第2章 近代皇室の仏教信仰」では、維新後の皇室で続いた私的な領域での仏教信仰とそれを担った泉涌寺について述べる。

中世後期から近世の歴代天皇が葬られたのが京都の泉涌寺である。同寺の月輪陵(つきのわのみささぎ)には、後水尾天皇以降、仁孝天皇までが九重石塔で葬られている。泉涌寺は応仁2年に炎上したが、後水尾天皇の院宣により再興されて近世の御陵所として確立。また慶応元年(1865)の孝明天皇の勅「皇祖御尊敬之訳ヲ以、諸寺之上席たる」は明治以後の地位向上の根拠となった。

しかし慶応2年、孝明天皇の葬儀は火葬の形式を廃し、僧侶を排除した形で行われた。その山陵後月輪陵は円丘で、泉涌寺と分離する形で造営される。明治4年には皇室の神仏分離が行われ、京都御所の御黒戸も廃止。門跡号や比丘尼御所、院家、院室など、皇室が仏教界を後援する枠組みが否定され、大元師法や後七日御修法といった皇室の仏事も廃止された。同年11月には、恭明宮が完成し、御黒戸の位牌等が奉遷され、京都在住の60歳以下の隠居女房・薙髪女官等がことごとくそこへ移り住んだ(明治6年、恭明宮は廃止)。同年、社寺上知令によって泉涌寺の寺領も大きく削減され、財政的に困窮した。

また泉涌寺は真言宗の所管となった。明治9年(1876)には泉涌寺や仁和寺など32寺に定額金が下賜されることとなり、京都の各寺院から泉涌寺に歴代天皇の尊牌が合併された。翌明治10年(1877)、京都府は泉涌寺改革に乗り出し、長老以下、住職9名が罷免された。そして翌年、内務省が真言宗古義派の佐伯旭雅を長老に任じて、旧スタッフを一掃して皇室との関係が再樹立された。この頃から旧慣保存策の一環で、明治初期とは逆に保護が加えられるようになる。特に、未解決であった歴代皇妃・皇親の祭祀を泉涌寺が行ってきたことが、彼らを供養し続ける同寺の存在を重くした。

そして皇室においても仏事が私的な領域で認められた。ここで面白いのは、明治11年(1878)の規定で、歴代の天皇・皇妃・皇子女等は神式で祭ることとするが、宮中の奥向きや英照皇太后宮や旧女官からの神祭の献物は、3分の1は陵墓掌丁に下し、3分の2は泉涌寺の僧侶に配分することとしている点だ。皇室で仏教を棄てなかったのは女性であった

明治16年(1883)、泉涌寺は天智天皇以降の歴代天皇の菩提寺として位置づけられ、宮内省との関係はさらに緊密となった。明治30年(1897)、英照皇太后が死去すると、表向きは神式で葬儀が行われたが、実際には泉涌寺としても密教の引導法要を行った。もちろん国家の側はそれを好ましく思わなかったが、生前、皇太后が仏教に帰依していたことやこれまで仏式で歴代皇族が供養されてきた歴史を楯に泉涌寺側は認めさせた。

明治31年(1898)に死去した山階宮晃親王の場合は、遺言では「真言宗勧修寺之例」で葬儀・供養を行うよう希望されていたが、公的には却下された。だが実際には私的な領域では仏僧が行われた。なお山階宮は40代後半まで僧侶として生活を送ったが、文久4年には宮門跡の還俗推進・門跡廃止論を唱えている。維新後は京都に隠居し、「近世と変わらない神仏習合的な信仰世界に生きた(p.95)」。

第II部 歴史意識

「第3章 奈良女高師の修学旅行」では、奈良女子高等師範学校の修学旅行を取り上げて、近代の修学旅行の意義を述べる。

修学旅行といえば、現在では卒業までに1回だけ行くものとなっているが、1900年代初め、元来の修学旅行はそうではなかった。例えば京極尋常小学校(京都)では、各学年が行くものだったし、梅屋尋常小学校では毎月行われた。春秋の2回、各学年が行く学校もあった。そのように度重なる旅行が行われたのは、実際に歴史の現場を見て回ることに大きな教育的効果があったからである。そして最終学年での伊勢への修学旅行が一般化していることは、それが単なる歴史の勉強ではなく、敬神の観念と結びついていたことも示している。修学旅行は皇室の聖地をめぐるものであった。

そこには、旅行が一般化していく趨勢も影響していた。修学旅行は、多くの階層の子どもにとって初めて行く均質な「旅行」だった。尋常小学校の修学旅行によって日本のツーリズムの文化が広まったともいえる。

本章では、こうした修学旅行の在り方について、奈良女高師の例を通じて分析している。奈良女高師では卒業するまでの4年間に10回以上の多様な修学旅行が持たれた。そこで巡られたのは、神武陵・橿原神宮・飛鳥の古寺、豊臣秀吉関連の史蹟、嵯峨野など古典文学と関連する場所、西陣織・清水焼の工場や試験場など産業関連の場所、神社仏閣といったものだ。それらは、考えなしに巡られたのではなく、教育的意図を持って計画され、文系理系でコースを違えるなど、国家にとって必要な知識を習得するように構成されていた。

「第4章 「郷土愛」と「愛国心」をつなぐもの」では藩祖三百年祭をキーにして地域の歴史が国史に包摂されていく経過を述べる。

日清・日露戦争の時期が、幕藩体制の開始から300年後にあたっていたため、各地で藩祖三百年祭が行われた(著者はこれを「紀年祭の時代」と位置づけている)。この時代に、「郷土愛」と「愛国心」が接続されたと著者は見る。

この時代、(1)「武士道」が国民全体の倫理思想になり、(2)名教的歴史学(道徳のための史学)が確立、(3)国民道徳が広く流布するようになって(例:井上哲次郎)、(4)「国史」と「郷土史」が連動するようになる。つまり、地域の歴史が国家の歴史の中に、名教的なものへと変換されつつ、位置づけられた。

維新政府は、当初「賊軍」への慰霊を認めなかったが、明治7年(1874)にこれを認め、また明治22年(1889)の大赦令で「賊軍」の罪は公的に許された。こうしてかつて賊軍とされた旧藩主家らにとっても、日本国は敵対的なものではなくなっていった。

このような趨勢の中、明治22年の東京開府三百年祭が紀年祭ブームの幕開けとなった。徳川家康への顕彰がおおっぴらに行われ、しかもそれは明治天皇への崇敬と矛盾していなかった。この祭典は地方へと波及し、金沢開始三百年祭、前田利家三百年祭、仙台開府三百年祭、そして平安遷都千百年紀年祭など、国家との関係にかかわらず、各地で紀年祭が催されたのである。

それらの藩祖顕彰活動で強調されたのが、歴代の藩祖が「勤王」であったとの事績であり、国家もこれに応えて旧藩主へと追陞・贈位を行っている。なお、藩祖顕彰においては、それを祀る神社が紀年祭の時代に先立って創建されていた。例えば伊達政宗を祀る青葉神社が1874年に創建され、1914年には県社であった青葉神社を別格官幣社に昇格させようとする動きが現れた。

こうした時代を経て、大正6年(1917)の戊辰政争50周年の各地の記念式典が「賊軍」の慰霊や顕彰の画期となった。

地域の歴史が国家に位置づけられたのは、国家の側からの動きというよりは、地域の側からの自発的な動きと考えられる。しかもそれは他の城下町との対抗的な意識から、競って国家の側に立っていった結果であるように思われる。こうして自然には繋がらない「郷土愛」と「愛国心」が連動するようになるのである。

「第5章 桜の近代」では、近代日本において桜にナショナリズムが託されていたことを述べる。

桜は、近代日本にとって特別な存在だった。しかも在来の山桜やしだれ桜ではなく、一斉にさくソメイヨシノこそが重要だった。ソメイヨシノは、「文明」や「近代」を表すものとして爆発的に普及した。ソメイヨシノは、まず堤防や軍隊・学校、郊外住宅など、近代的な景観とともに植えられる。

本書に述べられる弘前の場合は象徴的だ。弘前では、荒廃した弘前城に旧藩士が1882年に桜を植えたが、城を物見遊山の場にするのかと非難を浴び伐採される。ところが日清戦争後には、陸軍省が軍用地としてきた城址を市や旧大名家に払い下げる動きとなり、弘前城も公園として整備される。その頃には、桜は武士道や男性性の象徴とみられており、弘前城にも日清戦勝記念として植えられて、津軽の御国自慢の表象となっていった。城と桜との組み合わせは全く伝統的なものではないが(伝統的には城と松)、「日本文化」を表すものとして海外へのイメージとしても使われた。

逆に京都では、ソメイヨシノは歓迎されなかった。在来の桜の文化や歴史があったからだ。対外的には日本文化を象徴していたソメイヨシノが、伝統都市である京都では忌避されていたのが面白い。

桜は、コロニアリズムとも関わっていた。朝鮮には盛んにソメイヨシノが植えられたのだ。朝鮮での「1911年から1925年までの記念植樹の面積は8万1212町、本数は約2億4336本にのぼった(p.194)」。昌慶苑(李氏朝鮮時代の王宮を公園として整備した場所)にも、日本の城址に桜が植えられたようにソメイヨシノが植えられ、桜の名所となった。桜によって、朝鮮の王権と朝鮮の文化が上書きされた。朝鮮にも在来の桜はあったが、その価値は日本人からは、取るに足りないものとみなされていた。そして「桜の花は日本文化固有という言説は、桜を同化の象徴とするイデオロギーと表裏一体にあった(p.197)」。

もちろん、朝鮮人からは桜は冷ややかに受け止められていた。だからこそ、昌慶苑の桜は解放後に伐採されたのである。しかし、今ではソメイヨシノが近代日本のナショナリズムを表象していた記憶も薄れ、現在では朝鮮でも桜が植樹され、日本と同様に桜前線が報道されている。

なお、本章を読んで、桜と軍との結びつきに改めて気付かされた。靖国神社や千鳥ヶ淵には桜があり、 特攻機「桜花」があり、軍歌「同期の桜」があるのだ。一斉に咲き、一斉に散るソメイヨシノは、軍隊との相性が良かったのだろう。近代日本を象徴するもう一つのアイテム「制服」にも、そのボタンに多く桜がデザインされていたのはおそらく偶然ではない。

第III部 文化財

「第6章 20世紀の文化財保護と伝統文化」 では、第一次世界大戦後の文化財をめぐる動向を述べる。

1911年、史蹟名勝天然記念物保存協会が発足する。会長徳川頼倫(よりみち)、副会長徳川達孝(さとたか)以下、井上友一、床次竹二郎、九鬼隆一(以上官僚)、山口鋭之介(宮内省諸陵頭)、正木直彦、本多静六、黒板勝美、三上参次(以上学者)などがメンバーであった。それは単に旧蹟を保存するのではなく、欧米の文明を相対化し、日本の「国体」や日本独自の文明を探る取り組みであった。

1919年史蹟名勝天然記念物保存法が貴族院に提出される。内務大臣の水野錬太郎は、史蹟等は「国家ノ精華ヲ発揚スル」ものだと述べ、地方改良運動以来の国民教化と史蹟名勝保存をリンクさせた(※水野錬太郎は、神社合祀運動の時の内務省神社局長である)。つまり、史蹟名勝は、愛国心を涵養し、国威発揚に役立つもの、ナショナリズムの道具として捉えられたのである。

しかし、史蹟名勝への捉え方には2つの立場があった。第1に国民の厚生や観光を重視する本多静六が代表する立場。第2に保存を優先させる黒板勝美・上原敬二などが代表する立場である。 

このうち黒板勝美は、史蹟名勝天然記念物保存法の制度を作った張本人。黒板は国民道徳を重視した歴史家で、「もし黒板勝美が1936年に倒れなかったら、紀元二千六百年事業をはじめ戦時下の歴史学動員の大部分を、平泉よりも黒板が担うことになったであろう(p.215)」と著者は言う。黒板はヨーロッパ留学の際に各国がギリシア文明を盛んに研究していることを目の当たりにし、逆に現地で文化財が保存されていない(各国の博物館で保存されている)ことから、現地保存の重要性を逆に思い知った。

そこで彼は、帰国後の1912年に「全ての史蹟遺物を差別せず、そのままの現状を保存すべき」とする意見書を提出した。彼は東京帝室博物館に全国から仏像などを美術品として集積するのではなく、社寺で現地保存する施設をつくるのがよいと言っている。この構想は日本では実現しなかったが、朝鮮ではある程度実現された。

また黒板は史蹟の開発に批判的で、欧米の物質文明に対抗して、日本ならではの自然と共存した文明のありようを模索していた。黒板の思想には、そういう先進的な面があったが、史蹟名勝の保存は「国民に公徳心を養成し、国土を愛し、家郷を愛」するために行うという思想も併存していた。これはドイツの郷土保護運動の理念が援用されていた。黒板は史実とは異なることを認識しながらも、「名教的歴史」(国民道徳としての歴史)を重視した。

そして、ツーリズムの隆盛を受け、史蹟名勝が活用されるようになる。これは国民に娯楽を提供する意味と外客の誘致の両方の意味があった。1930年前後の世界的な国立公園指定のブームの中、日本でも国立公園が検討された。内務省では、保護を重視する立場と国民的利用(開発)を重視する立場で対立したが、結局、開発を重視する内務省衛生局が主導し、1931年、国立公園法が公布され、最初の12の国立公園が指定された。

このような趨勢の一方で、文化財から切り離され、国民から秘匿されていったのが皇室財産である。陵墓についても桜は相応しくなく、常緑樹を植えるべきだとされ、荘厳な空間、近寄りがたい空間へと変わっていった。明治神宮の造営事業が、「皇室や神社の景観をめぐる大きな画期となった(p.223)」。常緑広葉樹が第一次大戦後の陵墓や社寺、鎮守の森の「創られた伝統文化」になった。

「第7章 現地保存の歴史と課題」では、これまでの論考とはうって変わって、近年における文化財の現地保存について考察される。

かつて先進国に文化財を奪われた国が、近年その返還を求める運動が行われている。ヨーロッパ諸国に文化財を持ち出されたことは、適切な保存が可能になったというよい面もあるが、その文化財が生まれた国・場所で保存される方がずっとよい。

翻って、日本でも地方の文化財は近代に入って中央に吸い取られてきた。埋蔵文化財を担当する職員が都道府県・市町村に配属されるようになったのはようやく1960年代後半であり、それまでは地方で発掘・保存することが不可能であったとはいえ、それは地方からの文化財の略取であった。黒板勝美はこうした動向に批判を加え、現地保存の方が「遺物の価値は最も多く発揮」できると主張し多くの賛同を得たが、文化財保存行政の中央集権的性格は改まらなかった。

現在、国際的にも文化財の返還は必ずしも順調になされていないが、「文化財は本来あった場所において、地域社会の文化とともにあるべき(p.256)」と著者は考える。

「補論 近代天皇制と「史実と神話」」では、神話や名教的な歴史が復活しつつあることへの危惧が述べられる。

天皇制の根幹には神話がある。しかも近年、一度否定されたはずの神話が復権しつつある。さらに、史実でないとされている史蹟が大手を振って史蹟扱いになっているのも昔のままだ。例えば楠木正成の「桜井の別れ」の国指定史跡「史蹟桜井駅址」は解除されていない。

世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」では、構成遺産名に「仁徳天皇陵」があった。これは被葬者は仁徳天皇ではないと考えられており、学術的には「大山古墳」とすべきものだ。「史実と神話」を腑分けする戦後の学知が軽んじられ、神話が政治利用されつつある。

*****

本書は、2009〜2022の論文を再構成した論文集であり、著者にとって18年ぶりの単著となる。そこに通底するのは、近代天皇制がいかにして支えられたかという視点だ。近代天皇制が機能するためには、天皇の権威を演出する必要があった。その演出のために、神話が事実とされ、歴史が国民道徳とされた。しかしそれだけではなく、「皇室財産の秘匿」(国民から隔絶した皇室の象徴)が行われる一方で、同時にツーリズムが大きな役割を果たしたことが意外だった。

修学旅行は皇室のゆかりの場所、皇室の歴史を学ぶものであったし、日本の偉大さを思い知るのが史蹟名勝めぐりであった。そして、史蹟名勝が「桜」で彩られたのが興味深い。桜が近代日本の国家を象徴するものであったということは知っていたつもりであるが、朝鮮における桜の扱いはたいへん興味深かった。

そして、こうした動きの中で、今我々が「伝統文化」だと思っているものが形成されてきた。国家の側によって「何が伝統文化か」が選別されてきたのだ。それは国家が統一した意思をもって選別したのではないが、結果的には、皇室を支えるものが「伝統文化」であり、追っては国威発揚に資するものが「伝統文化」だったのであろう。

すなわち、日本の「伝統文化」そのものが国家によって創られた概念だったということになる。戦後、それとは違った伝統文化が見直されたが(例えば、被農耕民、縄文、悪党・かぶき者など)、日本は再びステロタイプな「伝統文化」に回帰しつつある。

それは、神話と道徳が綯い交ぜになり、王朝風で、常緑樹が植えられた聖域と、桜が植えられた遊興の場がある、中央集権的で均質な空間なのだ。

伝統文化そのものを近代天皇制から反省させる、警鐘に満ちた書。

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2024年4月13日土曜日

『メンデルスゾーン』ひのまどか著

メンデルスゾーンの伝記。

メンデルスゾーンは、近代西洋音楽の歴史おいて随一の才能を持ち、しかも恵まれた環境に生まれた。また彼は非常なる努力家であり、また勤勉であった。その上、大変教養が深く、人当たりもよかった。才能と努力が両立することは第一級の人物にはしばしば見られるが、彼の場合、天は二物を与えずどころか、与えなかった部分がないくらいであった。

にもかかわらず、ユダヤ人の家系に生まれたことで長く正当に評価されず、未だに「メンデルスゾーンは優美ではあるが深みがない」などという言説がまことしやかに跋扈している。これまでメンデルスゾーンの伝記はいくつか出版されたが、悉く絶版となり、現在新刊で手に入るメンデルスゾーンの伝記として本書は唯一のものだ。

フェリックス・メンデルスゾーンは、銀行を経営する家に生まれた。父方の祖父はモーゼス・メンデルスゾーンという著名な哲学者で、父アブラハムは一代でベルリン最大手の銀行を創設したビジネスマン。母レアはキンベルガー(バッハの弟子)に師事したほどのピアノの腕を持っていた。母が主宰するサロンはベルリンでも屈指のもので、哲学者ヘーゲルや詩人のホフマンなど錚々たる顔ぶれが集った。財力と文化的素養の双方を兼ね備えた家庭だったのである。

フェリックスと姉のファニーは母から音楽の手ほどきを受けて上達、クレメンティの弟子ルートヴィヒ・ベルガーに学び、10歳になってからはバッハの孫弟子の巨匠カール・フリードリヒ・ツェルターに作曲と音楽理論を学んだ。その上、音楽以外のあらゆる学課でも、各分野の第一人者が家庭教師としてメンデルスゾーン家に招かれた。絵を教えるための画家までいた。フェリックスは音楽以外の勉強でも特別すぐれていたが、音楽についてはツェルターも認める神童であった。

ツェルターの計らいで12歳のフェリックスはゲーテと面会。ゲーテの面前でバッハのフーガと即興演奏を見せると、ゲーテは「モーツァルトの再来」と激賞した(本書には書かれていないが、ゲーテは14歳の時に7歳のモーツァルトの演奏を実際に聴いている)。ゲーテはフェリックスを大変気に入り、ゲーテ邸になんと60日間も滞在させた。

フェリックスは完全無欠といえるほどの能力と環境に恵まれたが、両親は子どもたちがユダヤ人であることの不利を感じていた。ベルリンではユダヤ人への風当たりが強くなっていたからだ。そこで両親は子どもたちをキリスト教徒として育て、自分たちも追って改宗した。そして、その改宗をきっかけに、ユダヤ的な姓メンデルスゾーンに、ドイツ的な姓バルトルディを追加して、メンデルスゾーン・バルトルディとなった。これには子どもたちは反発したが、アブラハムのやり方は絶対なのだった。

フェリックスの作曲能力を高めたものに、メンデルスゾーン家で行われる「日曜音楽会」がある。アブラハムは宮廷楽団のメンバー十数人と演奏契約を結び、隔週の日曜日に音楽会を開催したのである。フェリックスはそこで、弦楽シンフォニアやピアノやヴァイオリンの協奏曲、大規模な合唱曲を次々と発表し喝采を浴びた。豪華な昼食も出る日曜音楽会はたちまち評判になり、ウェーバー、パガニーニ、シュポア、フンメル、カルクブレンナーなど大巨匠たちも参加した。序曲『真夏の夜の夢』が発表されたのも日曜音楽会である。

フェリックスは、14歳の誕生日に母方の祖母バベッテ・ザロモンからバッハの『マタイ受難曲』の楽譜を贈られた。祖母の妹ザーラ・レーヴィはバッハの長男フリーデマンにチェンバロを習い、また次男エマヌエルを長年経済的に助けていた。メンデルスゾーン家はバッハ一族と結びつきがあり、多数のバッハの楽譜を所有していた(それらはツェルターに預けていた)。バベッテ・ザロモンはツェルターの許可を得て『マタイ受難曲』の写しを作成しフェリックスに与えたのである。フェリックスは『マタイ』を研究し、それがバッハの最高傑作であると確信した。

ベルリン大学の大学生になっていた20歳のフェリックスは、友人たちと協力してジングアカデミー(ツェルターが監督していた)の演奏、自身の指揮で『マタイ』の復活上演を計画した。師ツェルターは賛成しなかったが、しぶしぶ了承した。そんなことが若造に出来るわけがないと思っていたのだ。しかしフェリックスはスコアを完璧に暗記しており、その指揮は的確で、指導力はツェルターを超えていた。バッハがライプツィヒで『マタイ』を初演してからちょうど100年ぶりの復活演奏は、大成功だった。公演にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と皇太子(4世)の顔もあった。

21歳になったフェリックスは、ヨーロッパ各地に顔を売るため(=音楽家としての経験を積むため)3年がかりの旅行に出された(といってもしばしばベルリンに帰還している)。ベルリンでは反ユダヤの風潮が高まっており、新天地を求める意味もあった。ロンドンでは特に歓迎され、一連のコンサートで「メンデルスゾーン・フィーバー」が巻き起こった。

フェリックスは、イタリアには幻滅し、パリでは社交界の人気者にはなったが作曲者・指揮者としてはデビューできなかった。2度目のロンドン滞在ではセントポール大聖堂でオルガン演奏をしているのが興味を引いた。

フェリックスは各地で観光している間も、仕事をせず時間を無駄にしている罪悪感があった。彼は根っから勤勉なのだ。ナポリでは人々が怠惰であることに憤慨している。フェリックスに限界があったとすれば、この勤勉すぎる性格にあっただろう。「旅行の資金は父から十分すぎるほどもらっていたが、気持ちの上では彼はつねに追い詰められていた(p.136)」。

なお旅行期間中、当然に自分に依頼されると思っていた「宗教改革三百年祭」の音楽をユダヤ人であることを理由に外されるという挫折があった。フェリックスは挫折を知らなかったわけではない。彼は挫折のたびに立ち直った。ベルリン帰還後、準備していた「宗教改革交響曲」を売り込んだものの、ジングアカデミーの反応は冷淡だった。フェリックス自身は作曲に専念したかったが、社会的地位を重視する一族は彼をツェルターの後任になるように勧めた。しかし一族の運動も空しくフェリックスは投票で破れた。反ユダヤ人の空気が横溢していたのだ。

フェリックスはデュッセルドルフ市の音楽監督に就任したが、やる気のないオーケストラの団員、気楽で娯楽性の高い音楽だけを好む市民、拘束時間が長く雑務が多い劇場の仕事に辟易し、さっさと手を引いた。

折よくライプツィヒ市から音楽監督とゲヴァントハウス管弦楽団の第五代音楽監督の就任要請があり、入念な条件の調整の後に引き受けた。フェリックスは26歳だった。この頃、ライプツィヒは人口4万5千人の都市である。フェリックスはオーケストラの団員からも市民からも歓迎された。ライプツィヒでもバッハの芸術が忘れられていたため、フェリックスはバッハの復興に力を入れ、また新しい交響曲の発掘、「歴史コンサート」のシリーズのスタートなど意欲的な事業を次々と手がけて多忙な毎日を過ごした。

フェリックスはゲヴァントハウス管弦楽団を市立オーケストラに昇格させ、また団員に年金制度を取り入れることなどに取り組んだほか、ライプツィヒ市に創立する音楽学校の仕事も引き受けた。今やフェリックスは「ヨーロッパ一忙しい音楽家」であった。

その中でも、聖トマス教会でバッハ作品によるオルガン・コンサートを開催しているのは興味を引いた。これバッハ記念碑を建設するための資金集めのコンサートだった。

こうした多くの仕事を、メンデルスゾーン(第8章以降、「フェリックス」から「メンデルスゾーン」に呼称が変わる)は人任せにしないでどれも完璧にこなした。その結果、彼は慢性的な疲労に陥っていった。ただでさえ忙しい中、プロイセン王からベルリンに創設する音楽学校へ協力してほしいという要請を受けた。メンデルスゾーンは反ユダヤ的なベルリンで活動するのは気乗りしなかったが、王の要請を断ることは困難だったのでしょうがなく引き受けた。しかし高額な年俸と名誉な称号があるだけで、メンデルスゾーンは飼い殺しに近い待遇だった。

一方、メンデルスゾーンが心から楽しんだのがイギリス訪問だった。イギリスではメンデルスゾーンの音楽は芸術として愛され、王室とも親しく付き合った。ヴィクトリア女王がバッキンガム宮殿にメンデルスゾーンを招待してオルガンを演奏させたのがその契機だった。彼は、本心ではイギリスに移住したいと思っていた。

ライプツィヒでは、1843年にドイツ初の音楽学校が開校した(現フェリックス・メンデルスゾーン音楽演劇大学)。第一級の教師陣が集められ、メンデルスゾーンは実質上の校長で、科目はピアノ・作曲・歌・器楽合奏を担当した。ただ、メンデルスゾーンは教師は向いていなかった。「なんでそんなことができないんだ!」と生徒を叱責してしまうからだ。要は、彼には凡人の気持ちがわからなかったのだ。

反ユダヤ的で、思うように活動できなかったベルリンですらもメンデルスゾーンの名声は確立したが、35歳頃にメンデルスゾーンは公的な活動からの引退を考え始めた。彼は過労のため健康を害していた。しかし「子どものときから、周囲の期待にこたえるよう努力してきた習性と、社会のために働くべきだという義務感から、彼は仕事を拒否できなかった(p.267)」。

彼は仕事も社交も楽しそうにしていたが、内心では「自分はほんとうは、人間ぎらい、音楽ぎらい、指揮ぎらい、公の仕事ぎらいなのかもしれない(p.270)」と思っていた。彼はうんざりしていたのだ。幸福を感じるのは、親しい本物の音楽家たちと語ったり、作曲している時だけだった。それでも、決して止まらなかったのがメンデルスゾーンの悲劇、といえば悲劇だ。そのような中で、オラトリオの大作『エリヤ』を完成させ、完全な状態で初演したのである。「明らかに体も神経も疲れはてているのに、自分でやらないと気がすまない(p.274)」メンデルスゾーンは、『エリヤ』のパート譜の仕分けまで自分でやっていた。

しかし過労から耳鳴りと偏頭痛がひどくなり、徐々に仕事を減らした。そんな中でもイギリスには10回目の滞在をしている。ようやく帰宅すると、姉ファニーが死んだとの知らせが届いた。メンデルスゾーンは自分の分身ともいえる姉の死に衝撃を受け、深刻な鬱状態に陥った。そして力を振り絞り、ファニーのためのレクイエムとして書いたのが『弦楽四重奏曲第6番ヘ短調』である。その約2か月後、メンデルスゾーンは卒中で倒れ、病に伏してあっけなく死んでしまった。ファニーの死から約半年後、38歳9か月だった。

葬儀では、最後にバッハの『マタイ受難曲』の最終合唱「われら涙して墓の中のあなたに呼びかける。安らかに憩いたまえ」が演奏された。

本書は全体として、10歳の子どもにも読めるように平易で、しかも大人が読んでも面白い。既存のメンデルスゾーン伝を子供向けにリライトしたのではなく、しっかり現地取材して書いている。また先述の通り、現在新刊で手に入る唯一のメンデルスゾーン伝として価値が高い。本書は『メンデルスゾーン——美しくも厳しき人生』(リブリオ出版、2009年)を増補改訂したもので、宗教音楽については星野宏美の近年の業績を参照しているようだ。

なお本書を読むうえでの私の興味は、メンデルスゾーンのオルガン演奏・作曲にあった。彼の時代、ドイツでは宗教音楽が奮わず、教会のオルガンがやや廃れていたようだ。そんな中、メンデルスゾーンはいくつかのオルガン曲を作曲している。ロンドンではメンデルスゾーンのオルガン演奏は歓迎されているが、ドイツではどうだったのか。どうもメンデルスゾーンは、ドイツでは名声が確立するまではオルガン演奏をしていない節がある。

そもそも、メンデルスゾーンは教会の楽師長(なんていう役職が当時あったのかもよくわからない)をしていたわけでもないので、どこでオルガン演奏をマスターしたのだろうか。もしかしたらペダル付きピアノで練習したのかもしれない(シューマンも使っていた、足鍵盤のあるピアノのこと)。本書はオルガンについては深入りしていないので、こうした点は書いていなかった。

平易かつ内容のしっかりしたメンデルスゾーン伝。

【関連書籍の読書メモ】
『メンデルスゾーンの宗教音楽—バッハ復活からオラトリオ≪パウロ≫と≪エリヤ≫へ』星野 宏美 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/06/blog-post_18.html
メンデルスゾーンの宗教音楽をオラトリオを中心に述べる本。メンデルスゾーンのオラトリオを宗教性から読み解く堅実な本。

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2024年4月2日火曜日

『江戸の農民生活史—宗門改帳にみる濃尾の一農村』速水 融 著

江戸時代の一農村の人口の歴史を述べる本。

江戸時代には、戸籍のような役割を持つ宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう、以下「宗門改帳」)が作成された。これは全国で作成されたのであるが、意外と完全には残っていない。ところが、大垣からほど近い西条村という濃尾平野の小さな村の宗門改帳は、江戸時代の後半97年間分(安永2年~明治2年)が一冊も欠けず完全な形で残されていた。本書は、この史料を詳細に分析することで、江戸時代の個人や家族の行動を追跡調査したものである。

宗門改帳は、キリスト教対策のために導入されたが、全国で同一の方式で作成されたわけではなく、幕府直轄地か私領かでも異なっている。その中で大きな違いは、対象を調査時点でそこに住んでいる者とするか(現住地主義)、そこを本貫とする者か(本貫主義)である。なぜこのような2系統が生じたのかというと、人別改め(賦役を負担する者を測定するもの)と宗門改めという、起源の異なる調査がいつのまにか合体されたためと考えられる。現住地主義の改帳の利点は、出稼ぎの様相がわかることで、西条村はこちらである。なお、宗門改帳の原本は領主に差し出されているため、村に残っているものはその控えである。

宗門改帳は、家族(傍系家族や奉公人を含む)を単位としてまとめられており、史料的に若干の制約はある(例えば妻の名前は「誰某女房」となり明らかでないなど)。しかし「江戸時代の日本以外の前近代社会で、世帯、家族、夫婦、個人の出現から消滅まで、その行動をかくも克明に、精確に追うことのできる社会は世界中どこにも存在しない(p.55)」。著者は家毎にデータをまとめ、そこから個人の人生を復元した。

西条村は人口300人余りの純農村であるが、本書で明らかになる意外な姿は、奉公(出稼ぎ)が大変多いことである。江戸時代の農村では、土地に縛り付けられて一生を生まれた村で過ごした…というようなイメージがあるが、実際には人々はダイナミックに移動していたのである。

そして出稼ぎは、西条村の人口の動向に深くかかわっていた。江戸時代には乳児死亡率はかなり高かったと推計される(出生から最初の人別改めまで生存しなかったものは記録されないので正確な死亡率は不明)。それでも江戸時代のだいたいの期間、出生率は死亡率を上回っていた。にもかかわらず西条村では人口減少に見舞われた期間も多い。それは大量の出稼ぎ奉公による人口流出のせいだったと考えられる。

西条村では、11歳まで生き延びた男女のうち、男子50%、女子62%もの人が奉公を経験していたのである。特に文化13年(1816)には、おそらくは洪水被害により農地が減少したため、現住人口の半数ほどが奉公に出た。なお奉公に小作層出身者が多いのは当然として、地主など上層でもその割合は相当高かった。

出稼ぎ先は、京都・大坂・名古屋が多かったが、幕末にはその割合が減って町場(近隣の地方都市)の割合が多くなった。これは商工業の中心が在郷町に移っていったことと関係しているのかもしれない。

在郷町の奉公を細かく見てみると、1年かせいぜい2年で頻繁に奉公先が変わっていることが意外である。雇う方も雇われる方も刹那的な労働形態であったことが予見される。死亡に至るまで長期間、目まぐるしく奉公先を変えた人がいたことは、我々の江戸時代観を揺るがすものだ。この背景には「奉公人の需給を結びつける周旋業者の存在が想定される(p.131)」。個人的には奉公先に寺院が含まれていることが興味深かった。また、奉公先には武家奉公もある。ここで「天領大垣藩預り地の西条村の住民にとって、支配とは関係のない名古屋、彦根等の武家奉公が相当量に達していることは、都市や農村への奉公が藩領域と何ら関係をもっていないことと併せて、この時期の労働移動に、制度的な制限がなかったことを示している(p.135)」。

なお、人口流出の要因は出稼ぎだけでなく結婚や養子もある。ここでも興味深いのは、婚姻により西条村に来た女性は「少数の村に偏ることなく、広い範囲にわたり、藩領に関係なく拡がってい(p.109)」たことである。藩領が、人々の生活実態の中で意識されていなかったことの証左であろう。それでも、都市から西条村に縁付いて来た女性はほとんどなかったということは、現在と似ている。

結婚年齢は西条村では意外と遅いが、結婚年齢に大きな影響があったのが奉公経験の有無である。特に小作層の女子は奉公に行くことが多かったから、結果的に結婚が遅くなった。ただし結婚した後は定期的に子どもが生まれており、間引きや堕胎が行われた形跡はなく、出産力は高かった。なお独身率は低く、ほとんどの人が結婚したが、離婚率は11%と意外と高かった。

それでは個人に着目してライフヒストリーを見るとどうなるか。本書ではいくつかの例が提示されており、うち3例をメモする。

第1に、村最大の地主の家に生まれ、医師となった「利三郎」。彼は地元に近い村で5年、京都で2年修行して帰村し、分家し医師として開業した。人口300人ほどの農村で医師を開業したのは当時としても珍しい。彼は長男ではなかったが、わざわざ医師にならずとも安楽な生活が送れた階層にあった。にもかかわらず長い修行を経て新しい生き方を選んだところに「江戸時代日本のもつダイナミズム(p.161)」を見出すことができる。

第2に小作農「伊蔵」家。「伊蔵」の父は奉公中に35歳の若さで死亡。今でいえば単身赴任中の死亡だ。その後、母は65歳で死去するまで戸主として留まった(本書には詳らかでないが、「伊蔵」の兄(長男)は成人後も家を継いでいない)。明治民法以前の家の在り方として興味深い。予想されるように、「伊蔵」家は貧しく、彼自身も奉公に出て、結婚して子供をもうけてからは娘たちが次々と奉公に出た。しかし幕末になると大都市への出稼ぎが困難になり、多くの子どもを世帯内に抱えることになった。

第3に「重助」夫婦に生まれた娘。この家も貧しく、子どもたちは次々に奉公に出た。面白いのは、「重助」夫妻の死亡後、娘の一人がおそらくは絶家を避けるため奉公から戻ってきたことである。ところが彼女自身、生涯独身で、53歳にして大坂に奉公に出てそのまま死去し絶家となっている。「重助」家には相続すべき財産もほとんどなかったと思われるが、やはり絶家は避けるべきという意識があったのだろうか。しかしその後、養子も取らず絶家しているのでよくわからない。

これらの例からわかるのは、当時の人がかなり広範囲に移動していたこと、奉公とはいえ、暗いイメージばかりではなく、奉公を機縁として結婚し家族を形成したり、都市住民になっていったことなどだ。さらには、婚姻や養子を通じて「士」と「農工商」がまじりあっていたことも注目される。そして養子の慣行が、農民相互間で想像以上に広く行われていたのも面白い。しばしば彼らは、実子がいるのに養子を迎えて家を相続させた。明治民法以前の日本の「農民の家の継承は、はるかに変化に富んだものであった(p.177)」。

江戸時代後期には、日本は気温低下に見舞われて東北太平洋側や北関東で大きな人口減に見舞われた。同時期、同じく人口減少したのが近畿地方である。近畿は京都や大坂を擁し、経済発展していたにもかかわらずなぜ人口が減ったのか。それは、都市への集住が疫病の流行などを背景に平均寿命を短くし、また出生率を低めたのが理由だったと考えられる。北関東などとの人口減少とは全く理由が違うのである。逆に言えば、農村の余剰人口を都市が吸収していたことになる。つまり都市は農村の人口を一定に保つ安全弁の役割を演じていた。西条村の人口分析はこれを鮮やかに示している。

農村から都市へ一定の人口流出があったことは、もう一つの人口学的メカニズムを生んだ。出稼ぎ奉公してそのまま一生を終えるのは小作層世帯民が多く、小作層の家では絶家の割合が多かった。では小作層は少なくなっていったのかというとそうではない。それは、地主層が分家して下方に身分移動することで、常に小作層世帯を供給していたのである。出稼ぎ、小作層の絶家、地主層の分家がうまくバランスを取り合うことで人口と階層割合が一定になっていたのだ。

このことを考慮すると、西日本の各地で幕末に人口増大が続いたのは、近くに大都市がなく奉公先が限られていたことが理由と考えられる。幕末期には西日本の人口増大は限界にまで達していたと思われる(幕末以降の人口増加が低いため)。薩摩や長州、土佐などは江戸時代後半に最も人口増大した地域だった。「人口増大が限度をこえてもたらした社会的緊張が、藩の心ある人々に、危機感を抱かせ(p.203)」、明治維新につながったのかもしれない。

本書は、濃尾地方の一農村の人口という地味な分析を述べたものだが、江戸時代の社会の在り方を考える上でのヒントがたくさん含まれている。特に出稼ぎ奉公についての実態は興味深かった。このような分析が日本各地で行われることでもっと多くのことがわかるだろう。寺院過去帳の分析も見てみたいと思った。

江戸時代の農村の人々がダイナミックに流動していたことを示した良書。

【関連書籍の読書メモ】
『人口から読む日本の歴史』鬼頭 宏 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_1.html
日本の人口の歴史を述べる本。江戸時代を中心として、日本の人口の増加と停滞を概説した良書。

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