2025年9月10日水曜日

『江戸のセンスー職人の遊びと洒落心』荒井 修・いとうせいこう 著

扇子のデザインを語る本。

本書は、東京の扇子の店「荒井文扇堂」の主人・荒井 修 氏の話をいとうせいこう氏が聞いたものの記録である。対話ではなく、荒井氏の話がまとめられており、章末にいとうせいこう氏のコメントが付されるというスタイルになっている。

荒井氏の話は、基本的には江戸時代から続く伝統的な扇子のデザインについてのものだが、荒井氏自身のデザイン哲学もそこに差し挟まれるため、純粋な「江戸のセンス」を述べたものではない。ただ、幼いころから古典文芸に親しんでいたらしき氏の口ぶりは、「江戸の職人ってこんな感じだったのかも」と思わせるに十分である。

私は、「江戸時代のデザインってどういうものだったのだろう」という疑問から本書を手に取ったが、上述のとおり本書は江戸時代のデザインについて歴史的に語るものではないので、本書を読みながら考えたことを中心に読書メモを書くこととする。

「のぞき」という技法がある。全部を描かず一部を象徴的に表現し、大きく余白を残すのが「のぞき」である。例えば、秋の夜の情景を表現するのに、大きく月を描いて、ススキを一本それに重ねる。もちろん月は全部書くのではなく、画面からはみ出す。こういうのが「のぞき」である。

「見立て」という技法がある。物や人物や風景をそのまま描くのではなく、別のものをそれに「見立て」て、象徴的に表現する技法である。「のぞき」も「見立て」も、全部描かない、説明的にしないという共通点がある。つまり、江戸時代には「説明的なのは野暮」という感覚があったようだ。

「のぞき」にしろ「見立て」にしろ、説明的でないのだから、何が描かれているか、意匠の意図はなんであるかを鑑賞者の方が読み解く必要がある。それは単純に花鳥風月が描かれているだけでなく、古典文芸に関する知識を必要とした。と書くと、当時の人は教養人ばかりだったと思いがちではそういうことではない。

例えば人物とともに「ゴゴゴゴゴゴ」と書いたら、若い(概ね40代以下の)人はこれは『ジョジョの奇妙な冒険』が踏まえられていることはすぐわかると思うし、これにわざわざ「※これは『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる擬態語です」などと書いていたら野暮にもほどがあると思うだろう。これと同様に、江戸時代の人は教養人ばかりだったのではなく、人々の間に広く共通の知識が存在し、それを自在に呼び出したりアレンジしたりすることに面白さを感じていた。それは現在の二次創作市場と似たようなものだったのだろう。

江戸時代のデザイン界と現在の二次創作市場には、別の面でも類似がある。それは著作権の扱いである。現在の二次創作市場は、厳密に言えば著作権的にアウトであるが、出版社や原作者が黙認することによって成り立っている。我々は比較的自由に(商業的にならない範囲で)「ゴゴゴゴゴゴ」と書いてジョジョ風の人物を登場させてもよいことになっている。江戸時代の著作権の考え方はこれに似ていた。つまり、版権は確かに存在していたが、デザインそのものを保護する知的財産権の仕組みはなかった。

なので、著作物の複製そのものはできなかったのだが(正確に言えば法律で規制されていたのではなく版元が禁じていた)、そこに表現されたものは比較的自由にコピーできた。こういう、知的財産権の保護が不完全な市場で何が起こるかは興味深い問題である。まず第1に、優れたデザインはすぐに広まった。そして第2に、人々はそれをアレンジすることを楽しんだ。容易にコピーできるからこそ、それを変化させることが主眼になったのである。江戸のデザイン界では、現在の二次創作市場と同じことが起こっていた。

この2点が、現在の商業デザインと決定的に違うところであり、江戸のデザインの多様性の鍵であるような気がする。

そしてもう一つ違うのは、現在の商業デザインは、万人受けする、どんな人にも場面にも合うものを作りたがるが、江戸時代はそこが少し違った。もちろん江戸時代にもシンプルなデザインは存在したが、けっこうドギツいデザインも多かった。それは、江戸時代が大量生産の時代でないことと関係がある。江戸時代のモノは手作りで、注文生産である場合も多かった。だから、万人受けする必要がなく、むしろ注文者の趣味趣向や、使う場面に適したものが好ましかった。そしてそれは、上級に洗練されたものというより、「遊び」がある面白いものが好まれた。何しろ顧客は、しかつめらしい武士ではなくて、遊びに生きた商人だったのである。このあたりも、現在の二次創作市場と似ている。

ところで、デザインというと、家具や日用雑貨のデザインから平面デザインまで含まれるが、本書で対象としているのは、モノにあしらわれる図案のことが中心になっている。当然、その多くは荒井氏の専門である扇であるが、それ以外の話も少しは出ている。そういうものを見ていて思うのが、「江戸時代は、よくこんな不整形な画面に絵をあしらおうと思ったな」ということである。

そもそも、扇からして図案を乗せるのは不向きだ。蛇腹に折られているし、そうでなくても扇形は図案を乗せる画面としてやりづらそうだ。ところが、江戸時代のデザイナーたちは、むしろ長細い画面や不整形な画面にこそ図案を乗せやすかったのではないかとさえ思える。現在の画用紙のようなアスペクト比になっている作品は浮世絵などわずかで、図案の多数はむしろ極端なアスペクト比を好んだのではないか。

というのは、日本の工芸では歴史的に、掛け軸(縦長)、屏風(縦長)、巻物(横長)など、縦長または横長の料紙に描く図案が発達していたからである。そしてこうした長細い(あるいは不整形な)画面であればこそ、「のぞき」や「見立て」のような技法が発達したといえる。西洋絵画のように正方形に近い長方形画面が中心であったら、モノの一部だけ描くのはかえって難しくなるからだ。

このように、江戸時代のデザインは、その市場の在り方と深くかかわっていたと思う。本書には、そうした視点はあまりなく、どちらかというと荒井氏の個人的な経験や創作活動が中心になっていて、それはそれで生き生きした内容なので面白いが、歴史家がそれを解説すればさらに面白いものになったのではないだろうか。

扇子屋の主人の生き生きした話を聞ける本。

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2025年8月24日日曜日

『老子』福永 光司 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収)

老子の思想。

『老子』を通読するのは3度目である。以前は道の思想に憧憬を抱き、無為の世界を体得しようとさえ思っていた。だから以前は、「聖典」へ向かう態度で『老子』を見ていたと思う。今でも道の思想には魅力を感じているが、一歩引いてみられるようになった。そして今回は、今まであまり目につかなかった部分が見えてきた。そこでこの読書メモでは、老子の思想そのものというより、私が今回気になったことを中心として述べたい。

まず注目したのは、老子は「天」を肯定するということ。例えば「人を治め天に事(つか)うるは、嗇(しょく)に若くはなし(=民を治め天に事えるには、つつましやかであるといことが第一である)(第59章)」と老子は言う。

この「天」とは何か? 古来、中国では「天」の祭祀が行われてきた。「天」は至高の存在として祀られたのだが、老子が生きたと考えられている戦国時代には、すでにインテリは天帝や鬼神といったものを信じていなかったとされている(ただし墨子を除く)。だから「天」は実在の何かとしては捉えられていなかったようだ。しかしそれでも「天」は至高の存在として認められていた。老子はこの常識を承認する。そして老子は「天」を人間の力ではどうしようもないものとして認識した。「天下は神器、為す可からざるなり(=天下というものは不思議なしろもので、人間の力ではどうすることもできない)(第29章)」。だから「自然」に従うほかないのである(第29章)。

そして老子は「帝」や「王」や「侯」を肯定する。老荘思想というと、「竹林の七賢」に代表されるように支配機構から背を向けているという印象がある(もっとも、現実の「竹林の七賢」の多くも公職についていたのだが)。だから老荘思想では、支配機構そのものが否定されているかのようなイメージを(少なくとも私は)抱いていた。ところが実際にはそうではない。老子は「故に道は大、天は大、王も亦た大(第25章)」という(この「大」は「偉大」の意味である)。

老子は、王は偉大でなくてはならないと考える。「王を道の最高の担い手として天地と並列するのは、老子思想の特色の一つである(p.31)」。しかしもちろん現実にはそうでない。「朝は甚だ除(よご)れ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚しきに、文綵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余り有り(第53章)」と彼はいう。現代の政治批判と同じようなことがここに言われている。政治は汚職にまみれ、田は荒れて民衆のふところは乏しいのに、政治家たちは虚飾の繁栄を楽しんでいるというのである。だから彼はいろいろと統治機構に注文をつける。『老子』は、隠棲者のための書ではなく、政治論でもある。

その注文は、大まかに言えば「余計なことは何もするな(=無為)」ということに尽きる。人為的なものを廃して(第38章)、刑罰を設けず(特に死刑を否定する)(第72章、第74章)、税金を少なくし(第75章)、戦争は行わない(第31章、第80章)。そして、人々を愚かな状態に留めておく(第3章、第65章)。ここはいかにも老子的な言説である。老子は人間が小賢しくなったことが禍の元だと考える。だからいっそ愚かな方がよい。儒学では人間は勉学に励んで賢くなることが必要だと考える。ところが老子は逆に、勉学などするから争うのだという。だから民衆を愚かにせよというのは極論のようであるが、「老子のいう愚とは無為の道と一体になった無知である(p.76)」。「学を絶てば、憂い無し(第20章)」である。

ともかく、老子は統治機構を表面的には否定しないが、実際には何もしない方がよいという。しかしこれは、無政府主義であろう。このような国家がもしあったら、存続できないことは明白だ。というよりは国家の体を成さない。だから老子の考えはユートピア的な空想だと思える。しかし彼は、おそらく農村に暮らして政治の現実を見ていた現実主義者なのである。『老子』には、しばしば現実主義者の顔が出る。例えば、「是を以て聖人は、終日行(ゆ)いて、輜重(しちょう)を離れず(第26章)」という。「聖人は、終日行軍しても輜重車を手放さない」すなわち、聖人は行軍において兵站(へいたん=物資の補給)を疎かにしないというのである。

そもそも老子は戦争を愚かな行為として否定するが、彼の生きた時代は戦国時代であったので、現実に戦闘が行われていた。そんな中、おそらくは兵站を疎かにした行軍が行われていたのだろう。それで困るのは末端の戦闘員である。老子はこういう下っ端に最も共感しているように見える。彼らは、税金に喘ぎ、為政者が恣意的に定めた刑罰によって捌かれる人間であった。「為政者よ、何もしてくれるな」というのが、老子の叫びなのである。

ところで、老子は自衛のための戦争は否定はしない。「兵は不詳の器、君子の器に非ず。已むを得ずして之を用うれば…(第31章)」といい、「武器は君子の手にすべきものではない」といいつつも、それを使わざるを得ない時があることも認めるのである。つまり一見老子は無政府主義的であるが、いつ他国に攻め込まれるかもしれない戦国時代の現実を見ていた。そしてひとたび戦争になれば「人を殺すことの衆(おお)き、哀悲(あいひ)を以て之に泣(のぞ)み、戦い勝つも喪礼を以て之に処(お)る(第31章)」べきだという。悲しみを以て戦いに臨み、戦いに勝っても葬礼を以て対処する、ということだろう。

では、老子のいうような国家があったとして、それが他国に攻め込まれないかどうか。ここはかなり怪しい。まず、老子は富国強兵を否定する。税金はなるべく取らない方がいい。とすると強大な軍備は不可能となる。刑罰も設けないから、民衆に何かを強制することも難しい。となると他国に攻め込まれるほかなく、しかもその国は弱いから敗北が必定である。となると、やはり老子はユートピア主義者なのだろうか。だが老子は「弱い」ことに積極的な価値を見出す。というより、勝利の価値を疑う。そんなもの一時的なものじゃないか、と彼は考える。

老子の哲学は女性的だ、と言われてきた。剛よりも柔、強よりも弱を老子は永続的なものと見る。「物壮なれば則ち老ゆ(=物はすべて威勢がよすぎると、やがてその衰えがくる)(第30章)」。儒教が男性的な思想だとすれば、老荘は女性的思想である。「敗北してよい」とまでは老子は言っていないが、 軍国主義が招くのは農村の荒廃であると彼はいう(第30章)。だから富国強兵は一時的にはうまくいっても、結局はゆきづまる。ではどうしたらいいのか。そこを老子は突き詰めて考える。その答えが、文明そのものを疑えということなのだ。

しかしながら、それは個人の思想としては力を持ち得ても、政治論としては無力である。

老子の時代に活躍した諸子百家と呼ばれる思想家は、みな政治コンサルタントとして活動した者たちである。彼らはどうすれば他国に打ち勝てるかを君主たちに説いて回った。しかし老子はそういう者たちと全然違う。彼の思想は、諸子百家の系譜には位置づけられない。彼の思想は農村に生きる、下っ端の思想である。そこでは社会的価値が顚倒する。官僚よりも農民が、賢い人よりも愚かな人が、強い人より弱い人が、名声を得た人より無名の人が、文明より野蛮がよいとされる。それらは全て、人為的な虚飾にすぎないというのが老子の考えだ。農村の下っ端は、一番文明から遠いからいいのだ。

しかしそういう言説こそ観念論に過ぎないのではないか。むしろ文明が生みだした虚飾の思想に過ぎないのではないか。結局、老子だって「小」より「大」を好む。「小国寡民(第80章)」を理想としながら、無為の道を体得すれば「天下を取る(第48章)」という。老子は「天下を取るなんて価値がない」とは言わないのである(ただし第48章は後次的なものとみる説もある)。彼は敗北主義者のように見えるがそうではなく、天下に君臨する聖人は無為である、無為な人こそ天下を取れる、といっているのだ。

では、その聖人は具体的には何をするのか。どうして天下を取るのか。これは儒教の徳治主義にも通じる問題である。儒教では、徳のある君主がいれば、彼は何もしなくても民衆は彼に靡き、他国もそれを尊重して天下はうまく治まると説く。老子の言説もこれと同じである。無為の聖人は何もしないが、何もしないことで全てはうまく治まる。落ちつくところに落ちつくから、全てがうまくいくのだという。しかしそんなことはありそうもない。

ここに回答を与えたのが、意外なことに法家の人たちであった。つまり、巧妙な法がありさえすれば、君主は何もしなくても世の中はうまく治まると彼らは考えた。だから老荘思想を発展させたのは、無為自然とは最も遠いはずの法家思想の人たちであり、『韓非子』には老子の影響が色濃い(逆に、『老子』の中に『韓非子』の文章が改作されて竄入したと考えられる箇所もある)。しかし法家思想と合体することにより、夢想的だった老荘思想が現実に適用できる政治論となり、長く巨大な影響力を持つことになった。現在伝わる『老子』のテキストは、おそらく法家の人々によって伝えられたものなのであろう。

よって、もともと老子(老聃)が説いた教えは、今の『老子』とは少し違っていたのかもしれない。だがそのエッセンスは明確である。それは、何かをやることに価値があるのではなく、やらないことに価値がある、という無為の哲学である。そして、こんな争いばかりの世界になってしまった原因は、人々があらゆることに手を出してしまったからだ、欲望を実現してしまったからだ、とする今に通じる圧倒的なリアリズムに基づいている。

全ての人為的価値を顚倒させるリアリズムの書。

【関連書籍の読書メモ】
『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_15.html
諸子百家の思想の概観。

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2025年8月20日水曜日

『民間暦』宮本 常一 著

民間の年中行事について考察した本。

本書には、「新耕稼年中行事」『民間暦』「亥の子行事—刈り上げ祭り」の3編が収録されている。

このうち『民間暦(みんかんれき)』は、宮本常一が初めて一般向けに出した単行本である。小学校教員をしていた宮本が民俗学の世界に傾倒し、教員を退職して調査研究の生活に入ったのが昭和14年。そして本書の刊行が昭和17年である。宮本35歳の時であった。本書が彼の「処女作」だ。

本書収録の3編は、どれも事例の羅列という性格が強く、そこからの考察というか、民間の年中行事に対する分析はあまり展開されていない。それは宮本自身が「民間暦」のあとがきで「この書物の論旨のほとんどは柳田先生のお説を復誦しているようなもの(p.287)」といい、「書いていくうちに、概観だけで、予定の紙を要してしま(p.289)」った、としている通りである。

では「民間暦」の本来の目的は何かというと、「この書は、民間において古くから年々歳々日を定めておこなってきた諸々の行事が、いかなる意味を持ったものであるかを、広く全国各地におこなわれている現状に徴してみようとした(p.58)」ものだと宮本はいう。私もこれを期待して本書を紐解いたのだが、先述のとおり、本書は「こういう行事があります」というだけで終わってしまっている。

もちろんその紹介自体かなりの力作なのだが(なにしろ宮本の処女作だ)、私の関心は諸行事の大量の事例ではなく別のところにあった。そこで、通常の読書メモとは少し違うが、私がどういう関心で本書を手に取ったかをまず述べたい。

私は、年中行事というよりも暦の成り立ちそのものに関心がある。それは、私自身が農業をしていることと関係がある。当たり前のことをいうようであるが、農業は季節の移り変わりを基準に組み立てられる。つまり太陽暦が基準だ。近世以前の日本では太陰暦(=旧暦、月の満ち欠けによる暦)が行われていたが、農事に関しては太陽暦による二十四節気が基準となっていた。

ちなみに農業というとのんびりした印象があるが、実際には植物の栽培は季節の移り変わりに敏感で忙しい。例えばかぼちゃの植え付け時期はそれなりに自由度があるが、本当に上手にできる時期を選ぶと植え付けの適期は2週間くらいしかない。太陰暦と太陽暦は平気で3週間くらいズレるので、太陰暦を基準にしては農事はうまくいかない。

つまり農業は太陽暦を基準にしなくては例年通りの栽培ができないところがほとんどすべての年中行事は太陰暦によって日が決まっている。これは農民にとって大変都合が悪い。例えば、ある年は植え付けの前にその行事がある。ある年は植え付けの最中に。ある年は植え付け後に。これは困る。なぜなら、植え付け前や植え付けの最中はとても忙しく、悠長に年中行事などやっている暇がないのである。近世以前の年中行事は、物忌みを伴っていたから「休む」「仕事をしない」日でもあった(そういう日に仕事をすると制裁が加えられることもあったという)。これが農家にとって大変都合が悪いのである。植え付け後に休むならいいが、植え付け前は大変忙しく、休んでなどいられない。

「忙しい時にあえて休むのもいいじゃないか」と思うかもしれないが、農業は適期に精一杯働いた方が後が楽だ。植え付けが3日遅れると後の生産性が変わってくる。植え付け前の忙しい時期に1日(または2日)休むのは非常にストレスなのである。「こんなことをするくらいなら早く農作業を終わらせたい」というのが農家の感覚である。しかしそういう年中行事が近世以以前に行われていた。これが不思議なのだ。

もちろんこの不自然さはいくつかの農事的な行事では考慮されていたように思われる。(これは民間行事ではないが)収穫祭の意味がある新嘗祭は、旧暦11月23日に行われていたが、これは新暦では12月から翌年1月にあたる。収穫祭にしては妙に遅い。新嘗祭がこの時期に行われる理由はいろいろに言われているが、これは旧暦でも確実に収穫が終わった時期であるということもあるのだろう。収穫祭が収獲前に行われたのでは意味がないからだ。

ところが多くの年中行事は、こういう配慮は感じられない。はっきり言って、民衆が行ってきた年中行事のスケジュールは、農業と相性のよくないものだと感じる。そういうものがずっと行われてきたというのは不可解というほかない。こういう疑問の下で私は本書を紐解いた。

「新耕稼年中行事」では、純粋な農事行事が紹介される。これは、「年中行事」とはいうが上述の「年中行事」ではない。つまり「年々歳々日を定めておこなってきた」ものではなく、農業のリズムに従って行われるものである。例えば、ワラ細工とかムギ刈り、いもほりといったものだ。ところがここにも太陰暦行事がある。それは八朔、つまり八月一日である。

この日、多くの地域では「それまでゆるされていたヒルネがもうできなくなる(p.37)」。百姓は昼寝さえ自由に許されておらず、それが権力によって規制されていたこと自体も興味深い(ちなみにヨナベ=夜の仕事も強制であった)が、それはともかく、農業の進行とは無関係に、暦でこういうことが区切られていたのだ。ただし、旧暦8月1日は新暦では8月末~9月末あたりで、どちらかというと農閑期にあたっているのはまだ合理的である。

一方、「民間暦」で取り上げられるのは多くが太陰暦行事である。これらは神仏の祭祀に関係があり、本書ではその骨格を、物忌、みそぎはらい、籠居、斎主、神を招く木、訪れる神、神送り、祝言、年占い、除厄という観点で語っている。太陰暦による(=月の満ち欠けの決まった)日取りに、仕事を休んで物忌み(生活の制限)を行って身を清め、神を招いて飲食をともにし、そして神からの何らかのメッセージを受け取って(=受け取ったことにして)神をまた元に返すというのが年中行事の基本構造であり、またこれを一村単位で行ったこと、つまり共同体の祭祀として行ったことが重要である。

また干支による行事もあった。例えば庚申待、甲子待、正月子の日、土用丑の日、四月卯の日、二月初午、十二月酉の日、七月および十月の亥の日などだ。これらはまた別の思想に基づいていたと考えられる。本書には詳らかではないが、これらの行事は講や個人で行われているものが多い気がする。

本書では、単なる年中行事ではなく、民間暦という「民衆が行ってきた年中行事」を取り上げているが、意外なことに、それらの多くが農事とは直接関係がない。例えば最も重要な年中行事は盆と正月であるが、これは農事とは無関係だ。正月は一年の豊作を願うにしても、農事そのものと関連しているとは言えない。

ところで、今では年中行事といえば年寄りが中心のようなイメージがあるが、若者がその中心的な役割を担っている場合が多い。そして若者中心の行事は、「だいたいはなやかにして興奮を覚えるようなものである(p.177)」。さらには、祭りには子供が中心となるものが存外に多い。「子供が行事に参加して中心となることは、若者たちが参加するよりは、いちだんとくずれかけた形ではなかろうかと思う。大人がおこなうには馬鹿くさいという気持ちがさきにたつようになったのである(p.180)」と著者はいう。

ともかく、信仰の零落によって、祭りは形骸化したり、華美になったり、遊興化したと著者は考える。例えば厳重な物忌み・潔斎を行うことは日常生活(当然農事にも)に支障をきたすから、これを選ばれた専門の人のみにまかせ、大多数の村人は受動的に参加するだけになっていったのだ。そしてその専門の人は、例えば正月の門付のようにやがて職業化していった。

このように著者は行事の変化の原因として「信仰の零落」を据えるが、それはそうとしても、私はそもそも日本の年中行事が農事と直接にリンクしていなかったことがその大きな要因のように感じる。

世界では、夏至・冬至・春分・秋分のような太陽暦行事・祭祀が数多いが、これは明らかに一年の生活リズムと連動し、農業とも深い関連がある。こうした行事の場合、例えば「〇〇の植え付けが済んだら夏至の祭り」とか「〇〇の収穫が済んだら冬至の祭り」といった感覚となり、祭りそのものに向かう態度も毎年等しい。ところが太陰暦行事の場合は、先述のように行われる時期がバラバラである。昨年は収穫後だったが、今年はまだ収穫の最中だ、となると行事に向かう態度そのものが変わってしまう、と農業を生業としている私は思う。

結局、行事から神聖な要素が脱落していったのは、このあたりに本質があるのではないだろうか。生活・農事と遊離した年中行事であったために、形骸化をまぬかれなかったのではないか。

ところで著者は、「民間暦」の出発点として「ずっと以前から子供の生活習俗に興味と関心をもっていた(p.287)」といい、民俗関係雑誌から子供に関する記事を書きぬいていたのであるが、そこには「不思議に年中行事に関する報告が多かった(同)」のだという。どうして日本では子供が年中行事を担ったのか。幼童に神聖性を感じるということもあったのかもしれないが、それよりは、年中行事が生活・農事と遊離していたために「今年は忙しい時期が祭りにあたっているから子供にやらせよう」といった心情になったことが遠因なのではないか。

そういう子供中心の行事の一例が、「亥の子行事」である。本編は「民間暦」のケーススタディにあたる一編で、全国の亥の子行事を比較してその本質を探っている。亥の子行事とは、10月の亥の日(2回または3回あり、その全てで行われる場合もある)に、山の神(または田の神)が家に帰ってくる日などとされ、お祝いをするものだ。10月の亥の子の日には宮廷でも別の趣旨の亥の子行事もあるが、これはおそらく別系統の行事である。また関東では案山子あげが10月10日に行われ(=十日ン夜(とおかんや))、これは亥の子の日ではないのだがやはり「亥の子」と言われている場合がある。著者は亥の子を刈り上げ祭りと見ているが、農事とは直接関係しない。

ここで亥の子と関連して能登地方のアエノコトが紹介されている。この事例が大変興味深い。「そのおこなわれる日は11月5日(現今は12月5日)が多いようであるが、日は必ずしも一定していなかったらしい(p.318)」。これが厳重に行われていた祭りだというのが示唆的だ。農事に強くリンクした祭りは、太陰暦とはリンクしないから日付が一定しない。そしてそういう祭りこそが厳重に行われるのである。ということは、「年々歳々日を定めておこなってきた諸々の行事」は、太陰暦で日が定まっているからこそ形骸化をまぬかれなかったと考えられるのである。そして逆に言えば、形骸化したからこそ長く行事が維持されたのかもしれない。祭りが形骸化し、遊興化し、子供や若者の楽しみになったからこそ年中行事は持続した。これが大人が厳粛に行うものでありつづけたら、全国津々浦々の村で行われたか疑問だ。

なお、行事の元来の意味が忘れられて、奇々怪々な解釈で年中行事が行われるようになったのも、それが生活・農事と乖離したものであったからという気がしてならないのである。

なお、私がここで述べた太陰暦と農事との乖離について、著者はほとんど考察していない。晩年に至って、この問題を著者がどう考えるようになったか興味があるが、さしあたり手元の資料ではわからない。また現在の民俗学ではこの問題がどのように考えられているのか、追って調べてみたい。

民間の年間行事を体系的にまとめようとした宮本常一の意欲作。

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2025年8月16日土曜日

『神国日本』佐藤 弘夫 著

中世の神国思想を考究する本。

中世には「日本は神国(しんこく)である」という言説が常識となった。それはどうしてか。なぜこのような言説が生まれたのか。一般には、神国思想は戦前日本の狂気じみたイデオロギーであったとみなされているが、実際はそういうものではない。ではその実態はいかなるものであったのか。本書は神国思想を丁寧に解明するものである。

神国思想が興隆した平安時代末期~鎌倉時代、日本では浄土教が流行し、日本を末法の辺土粟散とみる一種の自虐国家観があった。日本は仏法の本場インドから遠く、時代は末法で、機根の劣った人ばかりの小さな国だというのである。一方、神国思想では、日本は「神の国」なのだからこの国家観と真っ向から対立するように見える。従来、学界ではこの見方が通説となってきた(例えば、古川哲史など)。しかし神国思想を大きく鼓吹した『神皇正統記』(北畠親房)では、日本の末法辺土観も前提となっている。

また、神国思想では、天皇が超越的な存在にならざるをえないと考えられてきた。しかし中世では不徳の天皇は退位が当然とも思われていた。さらに親房は、天皇となるためには過去世に戒律を受持する必要があると『神皇正統記』で述べている。前世で仏道を真摯に実践したからこそ天皇として生まれたのだ、というのである。

このように、神国をめぐる通説は、神国思想の原典の一つである『神皇正統記』と乖離する。だから神国思想について再検討する必要があると著者はいう。

古代の天皇の神聖性は、天皇号の採用、大嘗祭の創出などから、天武天皇あたりで高められたと考えられる。そして国家が日本全国の神祇を一元的に祭祀に組み込む体制が構築された。しかし律令国家が瓦解し、寺院への国家からの財政支援が途絶えると、寺院は荘園領主として自立することを迫られ、神祇界にも自由競争原理が持ち込まれた。こうして「国家から相対的に独立した有力社家(p.41)」がしのぎを削った。そうした大社を国家がいちおう統合したのが「二十二社制度」である。そして地方の神社は「一宮制」によって似たような秩序を形成した。

そうした制度は、いちおう国家が神社の序列を設けるものであったが、それは絶対的なものではなかったので各社は地位上昇をもくろみ、特に比叡山の日吉山王社は、みずからを伊勢神宮を超える根源的な神社であると主張した。「神道史家の高橋美由紀氏は、天照大神という神祇世界に君臨してきた至高神を相対化し、それを超越しようとする中世神道界の動向を「神々の下剋上」と評している(p.47)」。

また神祇の世界は、荘園経営と深くかかわるようになり、12世紀ごろからは、その領地を「神領」などとして課税を逃れようとしたり、寄進を善行として促すような言説がみられるようになった。神の存在が土地の支配と関連付けて観念されるようになっていったのである。

一方、それに先立つ10世紀あたりから本地垂迹説が広まった。仏の教えは機根の劣った人ばかりの末法辺土の日本には理解されない。だから日本人を救済するため、仏は神として垂迹したというのである。これは本地(仏)の偉大さを述べつつ、実際には神社への参詣や帰依を進めることとなった。

そしてこうした変化と並行して、平安時代中頃から、神の性格が徐々に変化した。その象徴が、天皇による神社行幸と返祝詞(かえしのりと)の制度の確立だ。古代の神はひたすら畏れられる存在だったが、このころには神は対話可能な存在と受け止められるようになった。そして神は「祟る」のではなく「罰」を与える存在として表象された。神は信賞必罰の合理的な存在になったのである。そして本地垂迹説によって、一見無関係に見える神々の世界が、仏を媒介にしてつながり、包摂された。そして道教の神々までも含めた神仏の壮大なコスモロジーが観念されるようになった。こうした中で神国の観念が育っていくのである。

日本を神国とみなす観念は古代までさかのぼる。日本書紀の「神功皇后紀」に、新羅王の言葉として「東方に神国がある」という一節がある。「日本=神国の理念は、神々に対する素朴な崇敬の延長線上に自然発生するようなものではなかった(p.90)」。その背景には統一王権による神々の再編成と、対外関係の緊張があり、当初から「きわめてイデオロギー的色彩が濃厚(同)」だったのである。

「神国」がまとまって使われるようになるのは9世紀後半の清和天皇の時代で、貞観11年(869)、新羅のものと思われる船が筑前に来航した際、諸国の寺社に国土の安穏を祈願した告文に「神明の国」「神国」といった語が散見する。この「古代的」な神国思想は、「天照大神の指揮のもと、有力な神々が一定の序列を保ちながら天皇とその支配下の国土・人民を守護する(p.95)」というものであった。ここでは仏教的要素は見られない。

そして「院政期ごろから日本を神国とする表現が急速に増加し始める(p.99)」。『古今著聞集』、『私聚百因縁集』、『神道集』、『八幡愚童訓』などは神国思想が前提となっており、頼朝も「わが朝は神国である」と述べているが、 なぜ頼朝は神国を強調せねばならなかったのか、奇異に感じるほどである。そして元寇があると神国思想は一層興隆した。神風が吹いたから神国なのではなく、それ以前の敵国調伏の祈祷の段階で神国は強調された。そういう祈祷を行った僧侶に東巌慧安(とうがん・えあん)という人がいる。彼の願文では、日本は仏が神として垂迹しているから神国なのだ、という論理になっている。これが「中世的」神国思想の特色である。

ところで、神国は何よりも国家・国土に対する観念である。では神国思想のいう国土は具体的にはどういう領域なのか。『貞観儀式』所収の追儺祭文には、東:陸奥/西:五島列島/南:土佐/北:佐渡よりも遠方、という国土観が示されている(村井章介)。これはやがて南:鬼界が島(硫黄島?)/北:外が浜(青森県?)へと拡大したが、ともかく日本の国土は人為的に成立したものというよりは、各種の「日本図」で明らかなごとく(例えば日本は独鈷杵の形をしているとか)、宗教的に(さらに言えば仏教的に)意味のある、あるいは予め定まったものとして観念されたのである。

このように、神国思想は末法辺土観を克服するものだったという通説はあたらない。むしろ日本が末法の辺土悪国だからこそ仏が神として垂迹したと考えるのであり、末法辺土観はその前提である。そして神の偉大さは末法辺土の劣った人間への救済者として強調された。神国思想は、「仏教をライバル視し、それに対抗しようとする立場から主張されることはありえない(p.119)」のである。

では、神国思想は蒙古襲来を契機として勃興し、日本を他国より優れた国だとするナショナリズムが内包されていたという通説はどうか。神国思想が前提としていた仏教の世界観では、世界を三国(インド・中国・日本)として把握したが、その上に真理の世界をも措定した。そこには曲がりなりにもインターナショナルな認識があった。神国思想は日本の優越を一方的に主張するものというよりは、仏が神として垂迹した国という特殊性を強調していると思われる。

また、神国思想は、奇妙なことに寺社の強訴に際して院周辺から主張された。著者は「国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるために、院とその周辺を中心とする支配権力の側から説き出されたものだった(p.137)」と考える。「そんなワガママいわないでください。同じ神国に住む仲間じゃありませんか? 」というところだろうか。

面白いことに、専修念仏運動を弾圧した延暦寺も、専修念仏教団が神祇を尊ばないことを神国をないがしろにするものとして批判した。とにもかくにも神国思想は「国家に対する観念」なのである

蒙古襲来に際して神国思想が盛んに鼓吹されたことは、それを象徴している。「日本は神国だから他国が侵略することはできない」と主張されたが、このころの日本は荘園の分捕りによって分裂気味であった。「神国の論理は、内部にさまざまな問題と矛盾を抱えていた日本の現実を「神国」と規定して蒙古に対峙させることによって、そのきしみと裂け目を覆い隠そうとするものだった(p.152)」のである。神国思想が支配者から盛んに言われていることはその証左である。神国思想は、対立する諸権門の融和を企図し、「中世国家体制を正当化するための宗教イデオロギーとして支配権力側から説き出されたものと推定できる(p.157)」。

なお、これは対立する勢力を対象としたイデオロギーであるから、民衆に訴えかけるのではないことは注意が必要だ。

神国思想は天皇を超越的存在に仮構するという通説はどうか。中世では天皇は政治の実権を失っていたが、確かに宗教的な権威は高まっていた。しかしそれは古代のように無条件に現御神としてあがめられるものではなかった。摂関・院政期には天皇がさまざまなタブーから自由になり、神秘性を失ってしまったとも指摘される(益田勝美の説)。そして天皇・院には仮借なき批判が寄せられるようになった。天皇が死後地獄に落ちたという言説もしばしばみられる。「中世社会においては歴代のほとんどすべての天皇について、仏神の罰やたたりを蒙ったというネガティブな噂が存在した(p.171)」。幼童の天皇が続いたことも天皇の形式化の証左である。

しかし同時に、いくら天皇の存在が形式化しても、天皇を超える国家の支配権力結集の核が形成されなかったことも事実である。だから結局「支配秩序を維持しようとする限り、必然的に国王=天皇を表に立てざるをえな(p.187)」かった。つまり、天皇の実権が弱い状態では、その権威のみを強調する神国思想は諸権門にとって都合がよかったのである。

このように、中世の神国思想の通説は主に3つの点で訂正されねばならない。(1)神国思想は蒙古襲来を契機として言われるようになったのではなく、その淵源は意外と古い。(2)神国思想は日本礼賛の論理ではなく、日本を末法辺土の小国であるとする仏教的世界観を前提としており、日本の特殊性を強調する。(3)天皇は神国思想の中心的要素ではない。

本書は最後に、神国思想がどう現代までつながっていくかを簡単に述べている。神国思想は中世後期から変貌していった。その背景には、「彼岸世界の後退(p.200)」がある。それまでは人々は此岸・彼岸の二重世界に生きていたが、彼岸世界のリアリティがなくなり、この世での充実した生活の方がずっと重要になっていった。秀吉や家康も神国思想に言及しているが、そこで仏教的世界観こそ否定はされていないものの、日常の儒教論理の方が前面に出てきている。近世になると、彼岸での救済といった観念が批判され、神国思想から仏教的要素が希薄化して、神国思想は日本の絶対的優位性を主張するものへと転換していった。そのような近世的神国論は、林羅山や熊沢蕃山から見られる。そして「江戸中期以降は神道家や国学者をはじめ、心学者・民間宗教者の著作や通俗道徳書などに広く散見するようになる(p.210)」。そして「だれもがなんの制約もなしに、仏教・儒教・国学などの諸思想に結びつけて「神国」を語ることができるような状況(同)」になっていた。このような中で、神国思想が天皇と強く結びつけられ、明治維新以降に大きく担ぎ出されることになったのである。

本書は全体として、神国思想を中心として中世の思想史を紐解くものであり、神国思想そのものよりも、神国思想を生み出した基盤についてより重点的に語っている。例えば、北畠親房の『神皇正統記』などはもっと内容を詳細に紹介してもよさそうに思ったが、著者の関心は「なぜこういう言説が生まれ、広まったのか」という点にある。その要諦は、神国思想を育んだのは仏教であったということである。そこから仏教的要素が脱落したことで近世の神国思想が生まれ、さらに天皇が中心となることで戦前の神国思想へと変貌した。

なお、本書は学術書ではないため、注がない。全体的に平易な書き方をしてはいるが(というより、そうだからこそ)、注があった方がよいと感じた部分もいくつかあった。巻末に掲げられた参考文献一覧では、神国思想研究を形作った文献がまとめられているので、備忘のため下に年代順に掲げる(出版社等適宜省略した)。

神国思想をキーにして中世思想を紐解く良書。

山田孝雄『神皇正統記述義』1932
長沼賢海『神国日本』1943
田村圓澄「神国思想の系譜」『日本仏教思想史研究浄土教篇』1959
黒田俊雄「中世国家と神国思想」『日本中世の国家と宗教』1975
藤田雄二「近世日本における自民族中心的思考」1993
高橋美由紀「中世神国思想の一側面」『伊勢神道の成立と展開』1994
河内祥輔「中世における神国の理念」『日本古代の伝承と東アジア』1995
佐藤弘夫「中世的神国思想の形成」『神・仏・王権の中世』1998
白山芳太郎「神国論形成に関する一考察」『王権と神祇』2002
鍛代敏雄「中世「神国」論の展開」2003
佐々木馨「神国思想の中世的展開」2005

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。

2025年7月15日火曜日

[論文]「古代中世の葬送と女性——参列参会を中心として」島津 毅 著

古代中世において、女性がどう葬送に参画したかを分析する論文。

平安時代には、母は子の葬送に参列すらしなかったという。例えば美福門院藤原得子の葬列には娘の暲子内親王、姝子内親王は参加していない。暲子内親王は両親から莫大な財産を相続していたにもかかわらず、母の葬送に参列していない。なぜ女性は葬送に参列しなかったのか。

これを検討するため、著者は8世紀から16世紀の葬送事例90(+α)を詳細に分析し、そこに女性がどのように関与したかを調査した。これは記録が詳細に残っているものが対象であるため、王家が半分、続いて公家、13世紀以降は武家も数例ある、といったバランスで、身分の高いものに偏っていることは一応注意が必要だろう。

「第1章 13世紀頃までの葬送と女性」では、女性が葬送に参加していない事情を分析している。

先ほどの90例では、葬送における女性は「8世紀には参列や参会を確認出来たが、9世紀から13世紀半ばまではまったく確認できず、13世紀以降、中下級貴族を皮切りに、14世紀からは王家や室町将軍家にも確認出来る」。

8世紀には女性も葬送に参画していたが、これは当時の女性が夫とは別な「家」の「家主」すなわち「家刀自」であったからと考えられる。家産を所有する妻女が独自に葬送を執り行っていたのである。

ところが、9世紀半ばの嵯峨上皇の葬送の頃からこれが変化し、内親王等の娘の姿が確認出来なくなる。そして皇后や母后の姿も見ることができず、葬送の場から女性が排除されていったと考えられる。「王家の葬送では女性親族が参列せず、荼毘所(火葬場)にいなかったことは確かなようである」。

このように、9世紀半ば以降、王家・摂関家では、妻はもとより母や娘も葬送には参列しておらず、それを「見送るだけ」であった。ただし、中宮などの女性の死の場合、やはり肉親は参列していないものの、女官や女房は参列していることは注意が必要である。

では、なぜ女性は葬送の場から排除されたのか。

まず死穢との関わりだが、荼毘所での同席は死穢にならなかったことが『延喜式』で明瞭である。つまり死穢自体は問題ではない。むしろ葬送を凶事として憚られるようになったことの方が大きいのではないかと著者は考える。「その憚りとは、死体が人を他界へ引きずり込むと信じられていた、穢とは異質な禍々しさに由来するものであった」。これは、著者が『日本古代中世の葬送と社会』で力説した点である。なお、当時の庶民の間では遺棄葬が行われており、葬所には死体が散乱していたと考えられる。こういう場が禍々しいのは当然である。よって遺体そのものというより「葬所へ向かうことが忌避された」面があったと考えられる。

この考えを裏付けるのが、年少者と妊婦が特に参列や参会を制限されていたと記録から読み取れることである。年少者と妊婦は特に死亡率が高かった。よってそういう人を他界へ引きずり込まれかねない葬所がより避けられたと考えられる。

では妊婦以外はどうか。『栄花物語』の書きぶりを見てみると、万寿2年(1025)の藤原嬉子の葬送に母倫子は参列してはいないが、葬送の前に「母倫子は嬉子の遺体の入棺の様子を御帳のなかで泣きながら見、また直接遺体にも触れていた。つまり女性親族にとっても、故人の遺体は愛惜の対象であり、それを穢や禍々しきものとして忌避してはいなかった」ことがわかる。女性も「亡き親族の遺体そのものを忌避することはなかった。よって、一般の女性親族にとり、葬所の凶事性ゆえに葬所へ赴くことが制限されることまではなかったはず」と著者はいい、にもかかわらず現実に葬送から女性が排除されているのはどうしてかと再び問う。

なお、この部分は、若干論理の混乱があるように思われる。というのは、ここでは、「凶事・禍々しい」と認識されていたものが、葬送なのか、葬所なのか、葬所にある腐乱死体なのか、親族の遺体なのか、ということが峻別されずに記述されている。

具体的には、前段(死穢との関わり云々の後)では、葬所・葬送が「凶事・禍々しい」から年少者・妊婦は避けた、と言っているのに、後段では、親族の遺体は「凶事・禍々しい」とされていなかったから凶事性ゆえに葬所・葬送が避けられたとは思えない、という。だが親族の遺体は禍々しくはなかったとしても、葬所・葬送が「凶事・禍々しい」というのは変わらない。そして年少者や妊婦にとっても親族の遺体は愛惜の対象だったと思う。

ともかく、死穢も凶事性も理由にならないとすれば葬送から女性が排除されたのはどうしてか。9世紀後半以降は、「女性は公的な社会から疎外され、私的世界で生きる存在となっていった」ことが要因ではないかと著者はいう。「喪葬令」的葬送は貴族・官人たちの序列を視覚的に示すものだったし、仏教的葬送になっても社会的身分の誇示という葬列の社会的機能は変わらなかった(むしろ強化された)。一方、女性は中世的な「家」が形成されていくに従い、「家」に従属する存在となって、公的立場を喪失した。このように葬送の対外的・社会的性格が確立し、逆に女性が公的行事から排除されたことが女性が葬送に参画できなくなった理由だという。

その証拠に、女性が葬送から排除された後も、女官や女房は参列している。彼女らの参列は公務だったからである。

また皇后の場合は、葬送に参加するにはあまりに身分が高貴すぎ、また天皇とは別個の家政機関としての家を持っていたため、天皇家の「家」を取り仕切ることはできなかったために天皇の葬送に参加できなかったと考えられる(つまり「家」の一員ではなかったから葬送に参加できなかった)。

「第2章 13世紀後半以降の葬送」では、女性が葬送に参加するようになった事情が述べられる。 

14世紀には、室町将軍家・親王等の王家・公家では「母や妻妾そして娘も葬礼や荼毘・埋葬の行われた寺院へ参会」するようになった。こうした変化の先駆けとなったのが文永11年(1274)の藤原経光の葬送である。

ではなぜ女性は葬送に参画するようになったのか。第1に葬所が変化した。寺院が独自に荼毘所や墓地を所有するようになると、鳥辺野のような無秩序な墓地とは違って凶事性がないばかりか「葬送荼毘の場はむしろ往生をもたらしてくれる「結縁の場」に変容」した。葬送は不吉なものではなくなったのである。第2に葬列がなくなった。葬所が寺院内にあるため、入棺・荼毘・拾骨までが寺院内で完結するようになった。この2つの変化によって葬送の在り方が大きく変化し、女性の葬送への制限が取り払われたというのが著者の考えである。

さらには、12世紀以降の「家」の成立によって、妻は家長権に従属しつつも「家」の重要行事を取り仕切る家妻権を保持するようになった、ということもその背景にある。特に葬送は相続慣行の一つとなり、後家にとっては葬送に参画することは重要であった。

では、天皇や上皇の葬送では后や皇女はどう葬送に臨んでいたのか。まず、天皇・上皇の葬所(荼毘所)も泉涌寺などの寺院境内へ移行していた。ただ、王家の場合は古代中世を通じて葬列を伴う葬送が行われている。これは言うまでもなく公的行事としての葬送である。

ここで留意すべきなのは、14世紀以降、后・皇女の位置づけが平安時代とは大きく変わったということである。後醍醐天皇以降、後水尾天皇に徳川和子が皇后して立てられるまで、天皇には皇后が立てられることがなかった。つまり当時の天皇の妻は全て妾である。また皇女も、後小松天皇以降、正親町天皇まで皇女に内親王が宣下されることがなく、多くが比丘尼御所(尼寺)へ入れられた。すなわち14世紀以降、近世に至るまで、天皇家には正式な身分を持った女性が存在しなかったことになる。しかし彼女たちは、葬送に参加していた。「ただし、これらは天皇・上皇の妻妾が女房であったこと、また娘も尼であったことなど、それぞれ参会が職務であったと言うことができる」。天皇家の場合はちょっと独特な事情であったが、女性が葬送に参加するようになったという結果は同じである。

「むすびにかえて」では、結論を要約し、大陸からの影響について問題提起している。

古代中国では、葬送には女性親族が参列参会していた。また宋代には、朱熹の『家礼』の影響が大きくなるが、やはり夫人は葬列に連なり、墓所で葬礼に臨んでいた。日本の中世では『家礼』を全体的に受容していたかどうかは不明であり、中国からの影響があったかどうかは定かでない。しかし日本の葬送は入宋僧を介して大陸からの影響があったことは明らかであるため、葬礼に女性が参会するようになった背景として検討する必要があるとして擱筆している。

本稿は、著者の『日本古代中世の葬送と社会』 において、葬送における女性の扱いを解明することが今後の課題である、としていたことに対応して執筆されたものである。本稿では、同書で提示された葬送の「凶事性・禍々しさ」などが再度論じられるとともに、同書の視角が女性に適用され、葬送における女性の扱いを実証的に解明したものとして価値が高い。

しかし、なぜ女性が葬送から排除されたのか、という理由の考察についてはいまいち腑に落ちない部分があった。

第1に、女性の社会的立場が弱くなったからだと著者はいうが本当か。というのは、摂関・院政期は女性の立場が非常に強く、慈円が「女人入眼の日本国」と書いた『愚管抄』も13世紀前半である。この時期には天皇家では女院号が濫発され、また八条院を初めとして厖大な荘園を持っていた女性は多い。むしろ摂関・院政期は女性の権力のピークであるという観さえある。確かに、女性官位が男性と別枠になったり、朝儀や節会など政治の場から疎外されていったということは事実であるが、単純に女性の社会的立場の弱体化とは見なせないのではないだろうか。

第2に、全てを「家」で説明している観が否めない。女性は中世的な「家」が形成されていくに従い、「家」に従属する存在となって、公的立場を喪失して葬送から排除されたが、家妻権の確立によって葬送へ参加するようになった…というのはいちおう納得できるのだが、排除と参加の理屈の双方が「家」の事情であるというのは、少し奇異な感じがする。そもそも「家」は本来私的な存在であるから、葬送が対外的・社会的性格を持ったとしても、それが公式行事であるとは見なしえない。公式行事から女性が排除されることと、葬送から女性が排除されることは直結しないのではなかろうか。著者の主張はより論証が必要だと感じた。

しかしながら、第1の点も第2の点も、私はまだ「葬送とはつまるところ何なのか?」が未だ分かっていないから、そこから女性が排除される理由がピンとこないということなのかもしれない。例えば、古代中世の葬儀に友人は参加したか? 王家や貴族では「友人」のような素朴な存在はいないと思うが、武士の場合ではどうだったのか。こういう単純なことがまだわからないのである。

ところで、本稿では先述したとおり「凶事性・禍々しさ」が適用される範囲が曖昧であるが、それはともかく、「故人の遺体は愛惜の対象であり、それを穢や禍々しきものとして忌避してはいなかった」と指摘したことは重要に思う。著者は前著『日本古代中世の葬送と社会』において死体や葬送の「凶事性・禍々しさ」を指摘したが、私はこれを興味深く思いながらも腑に落ちない部分があった。親類の死体が禍々しいというのはちょっと不思議だからだ。

本稿の主題からは逸れるが、その点について自分なりに考えてみたところ、葬送・葬所は「不吉(凶)」であり、腐乱死体などは「恐ろしい」と認識されていたが、親類の遺体は「愛惜の対象」であった、と考えるのが、あまり現代と変わらず面白味はないが実態に即したものでないかと思う。平安時代後期以降は、陰陽師が大きな影響力を持ち、吉凶が必要以上にクローズアップされたのであるが、葬送を陰陽師がどう捉え、人々に何を指導したのか気になった。 

古代中世における女性と葬送の関わりを実証的にまとめた論文。

※史学雑誌 第129編第1号 2020 

【関連書籍の読書メモ】
『日本古代中世の葬送と社会』島津 毅 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/07/blog-post.html
日本の古代・中世における葬送の実態を再考する論文集。古代中世の葬送史の新たなスタンダードとなるべき労作。 

『女たちの平安後期――紫式部から源平までの200年』榎村 寛之 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/200.html
女性の存在に注目して平安時代後期を語る本。女院を通じて平安後期を別角度から見る興味深い本。 

『日本史の中の女性と仏教』吉田 一彦・勝浦 令子・西口 順子 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_29.html
古代と中世を中心に女性がどう仏教を信仰したか概説する本。女性と仏教の関わりを学術的かつ平易にまとめた良書。 

2025年7月13日日曜日

『江戸の旅日記——「徳川啓蒙期」の博物学者たち』ヘルベルト・プルチョウ 著

江戸の旅日記から視野の拡大を考察する本。

日本人にとって、旅に出ることは見知らぬものを発見することではなく、歌枕をめぐることで古の旅人たちを追体験することであった。しかし江戸時代になると、旅人たちは新しい「現実」を発見することになる。旅は見聞を広め、自らを相対化し、あるいは「日本」を意識する機会になったのである。

そういう旅人たちが登場したのは、17世紀の終わりあたりからで、吉宗の時代のことである。そのころの一部の紀行文は、純粋な文芸作品であるというより「朱子学、本草学、地理、国学、漢学、文人画などを基礎にした博物学によって構築された文学(p.9)」である。

そういう紀行文では、各地の歌枕で立派な歌を詠むことより散文による事実の記録へと軸足が移っていた。まさにその態度の変化こそが「現実」を発見させることになったのである。本書は、そうした旅の記録について述べるものである。

「第1章 貝原益軒の情報欲」では、貝原益軒の『南遊紀事』を取り上げる。

本草学者で朱子学者であった貝原益軒は、たびたび採草の旅に出かけた。益軒は福岡を本拠に、江戸に12回、京都へ24回、長崎へ5回をはじめとして諸国を遍歴している。よって多くの紀行文を残しているが、中でも『南遊紀事』は彼の主観的な見方が述べられている点で例外であり、そのために「日本の近代紀行はこの作品から出発している(p.24)」とさえいえる。彼は基本的には私見や私情を交えず客観的に見聞を記録したが、「予(われ、おのれ)」はこう思うと付け加えた。一方、珍しい話や伝承なども鵜呑みにせず、史料と比較検討して事実を探り当てようとしている。彼は事実に立脚して自らの考えで見聞を編集したのである。

「第2章 本居宣長の考古学」では、本居宣長の『菅笠(すががさの)日記』を取り上げる。

本居宣長は1772年に大和盆地の陵墓を調査する旅に出た。宣長が現地の人々の話を訝しがりながら調査しているのが面白い。実際、現地の人は宣長へ明らかに間違った情報を教えていた。宣長には、自分が文献を通じて知っていることと、現地人の間違った情報を対照させつつ、「人のいうことなどあてにならない」とわざわざ確認しているような雰囲気さえある。そんな宣長が全幅の信頼を置いたのは文献史料であった。この旅で実地調査しても陵墓の位置についての確信は得られなかったのであるが、簡単に分かったつもりにならなかったことは、実証的な宣長の方法論の証左でもある。

なお、宣長は、のちに『古事記』などの古典を絶対視する方向へ向かっていくのであるが、この紀行文で意外なのは、彼が常に懐疑的であることだ。宣長が古典への妄信に向かったのは、現実の頼りなさ、現実への懐疑が根幹にあったのではないかと感じた。

「第3章 天明の大飢饉をめぐって―高山彦九郎と菅江真澄」では、天明の飢饉を描いた二人の紀行を取り上げる。

1783年~84年、東北地方は激しい飢饉に見舞われた。それを描写したものの一つが、広く旅して多くの紀行文を残した高山彦九郎の『北行日記』である。なお彼は道行の途中に、各地で「孝行」話を採録し、実際に孝行者を何人か訪ねている。彼は「孝行」の思想を追及していた。東北へゆくと、彼は悲惨な現実を目にした。多くの人が死に、300軒あった家が100軒になるなど、被害は彼の想像を超えていた。墓地には卒塔婆が立ち並び、人や家が減っただけでなく「生きるために必要な知識や技術がすべて消え失せてしま(p.56)」っていた。例えば、漁業を生業とする村で、魚を捕る方法がわからなくなってしまった、というようなものである。そして人肉食さえも行われていたような形跡がある。そういう「おぞましい話を、彦九郎は努めて冷静に記述している(p.60)」。

一方、菅江真澄は飢饉の翌年に東北を旅した。真澄は打ち捨てられたままの死人の骨を横目に見ながら進んだ。そして彼は、飢饉を生き延びた人々の話を聞きそれを記録した。彦九郎のそれも同様だが「実際に体験したり目撃したりした人から話を聞き、詳しく描いている(p.66)」というのは、現代から見れば当たり前だが、当時としては極めて新しい傾向であった。彼らの紀行は記録文学になっているのである。そしてそうした見聞を元にして「この二人の紀行作家は、国家全体を強く意識するように(p.67)」なった。この国は根本的に何かおかしいのではないか? 貧困と悪政を実見したことが、彦九郎を尊皇派に駆り立てたように思われるのである。

「第4章 古川古松軒の批判的精神」では、『西遊雑記』と『東遊雑記』を取り上げる。

古川古松軒は、『西遊雑記』で備中から九州を一巡する旅を記録した。そこでは、秀吉の朝鮮出兵を批判したり、薩摩や長崎について詳しく述べているが、そこで当時の日本の法律を批判してもいた。これがいい意味で幕府に注目され(!)、古松軒は幕府の奥羽巡見使に随行するように命じられた。当時は老中松平定信の時代。「公儀を謗るなどけしからん」とならなかったのは面白い。

そして奥羽巡見を記録したのが『東遊雑記』である。『西遊雑記』が私的な紀行であるのに対し、『東遊雑記』は公的な性格を持つが、それでも「古松軒が批判的態度をとるためには、どうしても「公」ではなく「私」の立場で書かざるを得なかった(p.73)」。ちなみに「巡見使」とは、将軍の代替わりの際に各地に派遣され、地方政治の監察を行うものであり、接待などは表向きは禁止されていたが、大集団で移動する大掛かりなものであった。

古松軒は、「殺生石」の伝説など、各地で不思議な話を耳にしたが、彼は非合理的な話や神秘的な話にはいつも批判的で、「ばかばかしい話だ」「くだらない伝説だ」などと切って捨てている。だが、「こういう話を聞いた」としてそれをわざわざ記録しているところに彼の記録者としての面目が躍如してもいる。つまり彼は、合理的批判的精神とともに「なんでも見てやろう」「なんでも記録してやろう」の精神も持っていた。

東北では、言葉が通じないことに驚いたり、地方で貧苦にあえぐ農民の姿を見たり、あるいは現地人が礼節をわきまえないことを嘆かわしく思ったりしている。彼は「未開」な地を訪れた大航海時代のヨーロッパ人のように、現地人を「野蛮」とみなすエスノセントリズム(自民族中心主義)的な部分を持っていたが、その批判的精神は為政者側にも向けられていた。「彼はその地の問題点が領主の悪政によるものと気づくと、誰憚ることない筆致で日記に記している(p.85)」。また、その旅で巡見使の一行が遭遇した滑稽なエピソード(案内人が全く頼りにならない、狂言に出てくるような男であったなど)もそのまま書いているのも、かえって貴重な記録である。巡検使は、こういう率直な書きぶりを期待して、役人でもない彼を同行させたのだろう。

蝦夷に入ると、古松軒は松前や江差などの町の豊かさに驚かされた(当然、これはアイヌとの交易でもたらされた富だった)。古松軒の目はアイヌの人々に注がれ、そして好意的にアイヌの風俗や言葉を記録している。ここではエスノセントリズムはほとんどなく、「日本人の考え方のほうにむしろ批判的で、アイヌを見下すような態度がいっさい見えない(p.101)」。彼の書き方は、アイヌを観察することで日本を相対化したようなところがある。

ちなみに『東遊雑記』では、幕政を批判した林子平の『三国通覧図説』を激しく批判しているが、それは同書が全くいいかげんな情報に基づいていたからであった。例えば「蝦夷、黄金の地」説とか、デタラメな地図とかである。そこではアイヌの風貌なども偏見によって記されていた。古松軒による林子平への批判の力点は、彼が重要であると思っていたことを示している。古松軒は「現実」をありのままに記すことで、「近代的といってよい批判精神」を育んだのである。

「第5章 日本民俗学の父と言われる男、菅江真澄」では、菅江真澄のアイヌ記録を取り上げる。これは単一の紀行ではなく彼の記録全体を対象にしている。

菅江真澄は賀茂真淵の弟子で、尾張藩の薬草園に勤め幅広い博物学的知識があった。さらに彼は画家でもあり、多様なスケッチを遺している。彼は東北や蝦夷の自然や風物を調べる旅に出て、なんと18年間も旅は続いた。その主目的は国内の式内社(延喜式神名帳に掲載された神社)を全て回ることだったという。

真澄は蝦夷滞在中、なるべくたくさんのアイヌ語を身につけようとし、また漁のやり方、家の設えや道具、日常生活を事細かに描写した。そこでは、アイヌの言葉で記録することが明確に意図されており、これは「文化人類学の専門教育など受けたわけもない人のそれとしては驚くべきこと(p.122)」である。

「第6章 新しいビジョンを提示した、橘南橘と司馬江漢」では、西洋思想を通して物事を見た旅人二人を取り上げる。

医者の橘南橘は、医学修業のため諸国を遍歴し、そこで出会った面白い話を記録した。彼の紀行は日記というより奇談集である。特に本章で取り上げられているのはエレキテルや顕微鏡・望遠鏡といった「奇器」の項目である。彼の文章は、奇器を通じて自らの世界観を修正していった当時の人の内面を窺うものである。

一方、画家の司馬江漢は、同時に革命的思想家でもあった。彼は中国画を絶対視する風潮を批判している。物事を客観的に観察するという営みの中で、彼は新たな「現実」に目を開かれていくのである。そして洋画研究を目的とした旅の中で、天文学や地理学の最新知識を身につけようとした。その旅の途中で、彼の地球に関する講釈を聞いていた婦人が「では極楽はどこにあるのか」と聞く場面は面白い。彼が極楽を天(宇宙)にあるとしたところは、新旧の世界観の折衷案の実例として価値がある。

本書の他の旅人は中国思想(本草・博物学)を通して新しいものの見方を身につけたが、橘南橘と司馬江漢の場合は、それを西洋から見出したところに特徴がある。

「第7章 参勤交代という名の博覧紀行—松浦静山」では、松浦静山の『甲子夜話』を取り上げる。

松浦静山は平戸藩主で、「好奇心旺盛という言葉では形容できないほどユニークな大名(p.152)」である。彼の全278巻からなる超大作『甲子夜話』は、多岐に亘る話が収められているが、本章では特に1800年の参勤交代の旅日記である『寛政紀行』が取り上げられている。

彼は一種の「記録魔」で、文人風の流麗な紀行文を書くことよりも、ともかく情報量の多い文章を書こうとしたように見える。ちょっとした事を記録する時も、そこにいた子供たちの名前と年齢を全員きちんと書いている。これは大名が書く記録としては度外れたものだ。だから彼の記録は、民俗学的な記録としても貴重なものに思われる。彼は「何事も批判的に見たりはしていないが、何事にも洩れなく関心を示している(p.163)」。そして大名の内面的生活を窺うことが出来るという意味でも、『甲子夜話』は貴重な存在である。

「第8章 富本繁太夫—19世紀初頭に生きた旅芸人の日々」では、旅芸人が遺した超時代的記録を取り上げる。

 生没年未詳の旅芸人富本繁太夫が書いた『筆満可勢(ふでまかせ)』はあまり知られていないが興味深い作品である。彼は身分の低い旅芸人であったにもかかわらず、流麗な文章を書くことができた。彼も記録魔で、「どんな客の前でどんな浄瑠璃を語ったか、そのときの客の名前とその身分、あるいは語ったのがどういう店のどういう座敷だったかなども克明に記録している(p.167)」。しかも、自分が金に困って泥棒に入った(しかも2回も)ことも書いている。

彼は借金に追われて江戸にいられなくなり、仕方なく旅芸人になった。ところが盛岡では彼の舞台は大人気になり、この分だと生活できそうだと期待する。繁太夫はそんな中で出会った、痴情のもつれのエピソードや、変わった人や変わったもの、下世話な話を書き留めた。それは、身分の低い人たちの人間味溢れるゴタゴタ話であり、「徹底して人間臭い日記(p.175)」である。その記録の態度は「文化人以上に文化人らしい(同)」。どうしてこんな記録が旅芸人に書けたのか、著者は「わからないと言うほかない(同)」と言っている。

また彼は方言についても強い関心があったのか、わざわざ方言リストを作っていたりする。学者でもない繁太夫がなぜそんなことをしたのか、これもよくわからない。「あらゆる時代に何らかの形で必ずつきまとったイデオロギーをまったく感じさせない率直な個人生活の記録であるこの日記は、近代的な無形文化財といってもいいのではなかろうか(p.184)」。

「第9章 新しい美的ビジョン—渡辺崋山」では、渡辺崋山の短い旅の記録『游相日記』を取り上げる。

田原藩(三河国)の貧困な武士に生まれた渡辺崋山は、家禄の低さを補うべく画業を志し、ついで政治運動に身を投じた。家老職を次いだ崋山は「尚歯会」の一員となったがこれが幕府によって弾圧され自害した(蛮社の獄)。本書で取り上げられるのは、彼の江戸紀行である『游相日記』である。

その旅の目的は田原藩の政治状況と密接に関連しているので詳述は避けるが、前藩主の妾であるお銀を江戸から相模に訪ねるものであった。崋山は、お銀に幼い頃から可愛がられた恩があったのである。この紀行では、どこに住んでいるのかもわからない人間を僅かな手がかりのみで訪ねることに興味を覚える。崋山はいろんな人に道や事情を聞いて目的の村まで辿り着く。そして目的の女性を探し出すのである。女性は風貌も名前も変わっており、過去を捨てていた。しかし彼女は崋山を思い出し、二人は劇的な再会を果たすのである。この紀行はたった5日間の短いものであり、新しい現実の発見などもなかったのだが、実際にあったことを逐一記録し、その目的が文学的なものではなく、事実の率直な記録であるという点で、本書の他の旅人の記録と一脈通じるものがある。

「第10章 松浦武四郎の蝦夷探検」では、松浦武四郎の『三航蝦夷日誌』を取り上げる。

豪農の四男に産まれた松浦武四郎は、16歳にして「江戸、京都、大坂、長崎、そして中国からインドまで旅する」と親元に書状を送った、広い世界に呼ばれた人である。実際には武四郎はインドには行かなかったが、蝦夷地を熱心に探検した。彼は生涯で5回も蝦夷地にわたっている。そのうち3回は自費による渡航で、その記録が『三航蝦夷日誌』(全35巻)である。

彼もアイヌの言葉や習慣、風物をたくさん記録しているが、同時に下痢に苦しめられたことやアイヌ式便所の煩わしさを書き留めている。そういうことを記録するのは「極めて現代的な感覚の持ち主だと言える(p.207)」。彼は蝦夷地政策が重要になった幕末、蝦夷地の専門家として幕府に取り立てられ、維新後も北海道の開拓に携わることになった。しかし彼は明治政府の北海道政策、特にアイヌ文化の崩壊や北海道の植民地化に賛同できなかったようで、その職を辞任した。

「終章 江戸時代の旅と啓蒙思想」では、これまで取り上げた旅人の記録を通底する新しい思想について述べる。

本書に登場する旅人たちに共通するのは、現実への強い関心があったということである。しかもその物事の見方はどことなく個人主義的であった。彼らの全部が「私はこう思う」と独自の見解を声高に叫んだわけではないが、「博物学的興味、異文化への偏見なき観察力、批判精神などは個人意識の薄い人には生まれ得ない(p.218)」。つまり、新しいタイプの紀行が現れた背景には、個人主義の発達があったと著者は見る。

そして彼らは、みな近代的な目で「日本を再発見した」。そこにあったのは狭隘なナショナリズムとは違う、啓蒙主義的な国家観であった。そしてそれは、旅をすることで育まれたという面がある。ヨーロッパでも大航海時代に同時並行的に科学の進歩が起こったが、同じようなことが江戸時代の日本でも起こったのである。しかし明治時代になると、そういう啓蒙主義的な思想は衰退してしまった。日本は明治維新によって近代化したと思われているが、むしろ近代思想の盛り上がりは江戸時代にあり、明治時代になるとそれが退いてしまう。「江戸時代の思想のほうが、ヨーロッパ啓蒙主義の諸条件に類似している点が多い(p.228)」のである。

本書は全体として、あまり前提知識を必要とせず、平易に述べられており大変読みやすい。ただし、個人的には年号が書かれていないことはやや不便に感じた。近世史に親しんでいる人にとっては、年号があった方が分かりやすい。

ところで、旅が現実を発見させる契機となり、また新しいタイプの紀行文が登場したことが江戸時代流の啓蒙思想を示唆するものであるのは確かだとしても、その他大勢の旅人たちがどう世の中を見ていたのか、ということが気になった。

江戸時代は、厖大に旅人が存在した時代であった。参勤交代のために武士は定期的に江戸との往復を行ったし、また伊勢参りなど宗教的な目的を名目とした旅は貴賤にかかわらず盛んだった。では、そうした厖大な旅人たちは新たな現実を発見したのだろうか? そういう面もなかったとはいえない。何しろ、江戸時代ではどこかへ旅に出たという見聞は大事なものとみなされていたのである。しかし、全体としてそれが啓蒙思想に繋がったかというと、そこまでは言えないであろう。

厖大な旅人たちの中の、ごく一部の異能なものが遺した記録が本書に取り上げられるようなものであり、そこに現れる近代的知性の輝きは象徴的な意味を帯びてはいても、時代の思潮を表すものとはいえない。本書は時代の思潮を旅日記を通じて分析するものではないから、こういう見方はひねくれているのだろう。本書は旅日記という限定をすることで、江戸時代の新しいものの見方の登場を描くものだからである。

しかしながら、旅日記という限定の中でより重要なのは、板坂耀子が指摘する「歴史の発見」の方ではなかろうか。啓蒙思想による「新しい現実の発見」は、一部の異能にとってしか可能ではなく、結局、人々に共有されたのは「歴史」の方だったのではないか。本書でも暗示されているように、その旅日記の数々は、異能が到達しつつあった啓蒙思想が十分に育たないまま摘み取られてしまったという、悲劇の証拠として見るべきなのかもしれない。

江戸時代の近代思想を旅日記から紐解く平易な本。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の旅』今野 信雄 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_24.html
江戸時代の旅がどんな風であったかを述べる本。江戸の旅の実態をわかりやすく知れる良書。 

『江戸を歩く—近世紀行文の世界』板坂 耀子 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_29.html
近世の紀行文についてのエッセイ的な本。近世紀行文学を著者のエッセイも交えて紹介する、不思議な雰囲気の本。

2025年7月6日日曜日

『タマや(新装版)』金井 美恵子 著

連作短編集。

主人公(夏之)は、恒子という女性が飼っていたタマという猫を押し付けられる。夏之に猫を押し付けたのは恒子の異父弟のアレクサンドル(これはAV男優としての芸名である)だ。

恒子は、妊娠したために猫が飼えなくなった、という。主人公は恒子と関係を持ったことがあった。自分の子ではないと思うが、全くの他人事でもない。そこへ、恒子にぞっこん惚れている冬彦が登場。冬彦は、恒子のおなかの中の子は自分の子であると思っているが、恒子の行方が分からなくなって、アレクサンドルを頼ってやってきたのだ。当時は携帯電話がない時代なので、簡単には連絡がつかない。アレクサンドルは住所不定の男である。なんだかんだあり、夏之の下にアレクサンドルと冬彦が転がり込んで、奇妙な同居生活が始まる。

本書のテーマは、「身持ちの悪い女に翻弄される男」である。恒子はいろんな男と関係しており、そのうちの何人かは認知を迫られて手切れ金を渡したようである。また冬彦は最初気づかなかったのだが、実は夏之と冬彦は異父兄弟だった。彼らの母親も身持ちが悪く、3回結婚していた。

そんな男たちの中、タマは超然と子猫を出産し、子育てにいそしむ。子猫たちの父親は誰なのか? そんなことは誰も気にしない。この対比が小説にスパイスを加えている。

私には、この連作小説の筋が、少し構図的というか、しつらえ過ぎのように感じる。いかにも「ピースがはまっている感じ」なのだ。でも人によっては、それが心地よいと感じるかもしれない。良くも悪くも計算された筋である。

とはいえ、それをわざとらしいと感じるとしても、この小説はめっぽう面白い。

第1に、文体が素晴らしい。ほとんど句点がなく、会話文に括弧が使われないウネウネと続いていく源氏物語のような文体は読んでいてうっとりする。大変凝った文体であるが、すべてが「ぼく」の独白なのでわざとらしい文学的表現などは使用されず、かといって平板でもない。絶妙なバランスだ。

第2に、随所にちりばめられた文学作品へのオマージュが気持ちいい。一見してわかる通り「タマや」は内田百閒の「ノラや」へのオマージュであり、短編の表題も(解説でわかったが) 文学作品のオマージュとなっている。本文の中にも、文学作品を踏まえているのではないかと思う部分がしばしばあった。ちょっとジョイスの『ユリシーズ』を思わせる仕掛けである。

第3に、キャラクターがいい。自分勝手なのになんだか憎めないアレクサンドルと、頭がいいはずなのにどこか抜けている冬彦の組み合わせはいかにも凸凹コンビで面白い。そこへインテリぶってはいるが流されやすい夏之が加わって、なんだか青春ドラマのような3人の関係ができあがる。悪人も善人もない、複雑な人物造形が素晴らしい。

「身持ちの悪い女に翻弄される男」というテーマは今となっては少し時代遅れに感じるが、小説技法というか文学表現は第一級だ。こういう小説は一気読みではなく、毎日少しずつ読みたい。

文学へのオマージュと美文に身をゆだねられる傑作。

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