2025年11月16日日曜日

『荘子』福永 光司・興膳 宏 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収)

『荘子』の画期的な現代語訳。

私は『荘子』を通読するのは2回目である。初回は20代の頃で、岩波文庫の金谷治訳注のものだった。その時は、なんだか『荘子』がかっこいいものに見えて心酔し、当時漢検1級を取ろうとしていたこともあって、内編の半分くらいを筆写したほどだ(でも内容はあまりわかっていなかったと思う)。

にもかかわらず、諸子百家の思想をもう一度見直したいというここ数年の読書の中で、最後まで手が伸びなかったのが『荘子』である。『荘子』は一筋縄ではいかない著作なのだ。

本書(老子・荘子)は、筑摩「世界古典文学全集」の企画の際は福永光司に全訳が委ねられていた。ところが福永はいつまで経っても手を付けられず、約30年も企画は眠ったままとなった(とんでもない話だ)。そこで筑摩書房編集部の大西寛が動き、興膳 宏に白羽の矢を立てた。興膳は福永の訳注・解釈を基盤に『荘子』を全訳したのである(この訳業の途中、福永は永眠した)。興膳は中国思想ではなく中国古典文学を専門としているため、これまでの『荘子』の訳とはかなり違った生き生きとした画期的な翻訳となった。こうして、筑摩「世界古典文学全集」で一冊だけ欠巻となっていた本書が完成したのが2004年。「全集」がスタートしてから40年の時を経て無事完結したのであった。

ともかく、諸事情があったとはいえ、筑摩「世界古典文学全集」の中で一番の難産だったのが『荘子』なのだ。私の手が伸びなかったのも当然である(!)。

『荘子』は、内篇・外篇・雑篇の3つの部分で構成される。このうち、荘子すなわち荘周(歴史的人物としての荘子を示す場合は荘周ということにする)の著作と思われるのは内篇のみで、外篇・雑篇は後次的に成立したとされる(実際、調子がずいぶん異なる)。『荘子』は、一人の著作というより道家思想家たちが作った説話集という趣があり、その性格は複雑だ。なお、外篇と雑篇の区別は便宜的なものと考えられているので、以下内篇と外篇・雑篇に分けて読書メモを書くこととする。

内篇

内篇は7篇から構成される。劈頭の「逍遥遊篇」の最初、「鯤(こん)」と「鵬(ほう)」の話は、最初読んだときは度肝を抜かれた。北の果ての海に何千里もの大きさがある魚=鯤がいる。そして鯤が変身して、鵬という巨大な鳥となり、南の果てを目指して飛んでいく、というものである。『荘子』を哲学的な著作と思っていた20代の私は、この何がいいたいのかわからない壮大な空想の始まりにすっかり心酔してしまったのだった(ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭と似ている)。

しかし、『荘子』内篇をほら吹き話と思ってはいけない。荘周は、哲学的でもあるが、科学的でもある。鵬の話でも「風も厚く層を成していなければ、鵬の大きな翼を支えることはできない」といい、空気が鳥の体重を支えているという科学的見方をしている。そして意外なことに彼は極めて論理的である

荘周の論敵に、恵子(恵施)という人物がいた。彼は論理学者で、梁の恵王に仕えて宰相にまでなった。恵子は『荘子』の中にたびたび登場して荘周と問答しているが、実は荘周と恵子は親友でもあった。最初、論理学者の恵子と、空想的な荘子が親友だったというのが腑に落ちなかったのだが、内篇をよく読んでみると、二人が気が合ったのがわかる。

例えば「斉物篇」には、有名な「胡蝶の夢」の話が出てくる。荘周が夢の中で蝶になっていた話である。「はて、これは荘周が夢でチョウになっていたのか。それともチョウが夢で荘周になっていたのか」と荘周は問いかける。荘周は、「荘周が夢でチョウになる」ということがありえるなら、「チョウが夢で荘周になる」も等しくありえるではないか、という論理的な思考をするのである。

「斉物篇」では、ある人物の問答で「孔丘も君もみな夢を見ているんだ。いや君が夢を見ているというこの私もまた夢を見ているんだ」とか「いずれか一方が正しくて、他方はまちがっているんだろうか。それともいずれも正しいのか、いずれもまちがいなんだろうか」などという。荘周は、あらゆる論理的可能性を考えてみなければ気が済まない。だから内篇には、議論が行きつ戻りつして何を言いたいのかわからない部分がある。そしてあらゆる論理的可能性を一つ一つ考えていった結果、荘周は「何も断言することはできない」という極めて科学的な結論に達する。すなわち究極の立場は曖昧模糊としている。「私が知っているといっても実は知らないのかも分からん。また私が知らんといっても実は知っているのかもわからん。」

では、すべては相対的でしかないのか。荘周は、少なくとも言語で思考する限りはそうならざるを得ないと考えている。彼の思考の一端は「斉物篇」の論議に現れている。曰く「有ということがあるし、無ということがある。またもともと「無ということ」はないということがある。またもともと「無ということはないということ」はないということがある。(中略)私が述べてきたことが果たして「述べた」ことになるのか、それとも「述べた」ことにならないのかは分からない」。荘周が何を言っているのかわからないかもしれないが(私もわからない!)、まさにこれぞ荘周節である。

荘周のこのような態度は、恵子に大きく影響を受けたのだと思われる。恵子のまとまった著作は伝わっていないが、『荘子』の雑篇(天道篇)には恵子の思想がある程度体系的に紹介されている。恵子の思想を象徴するものに「狗(いぬ)は犬ではない」というものがある。これは、「狗と犬は文字が異なる以上、イヌではない」という詭弁である。恵子の属する論理学派の巨頭といえば公孫竜で、彼は「堅白同異」の説で有名だ。曰く、石の堅さと白さは同時に知覚することは不可能だから、白くて堅い石は存在しない(あるいは堅い石と白い石の2つである)とするものである。これと似た恵子の説に「白い狗は黒い」がある。曰く、白イヌも黒イヌもイヌという点では同じ。ゆえに白イヌ=黒イヌ、というもの。

こういうのはバカバカしい詭弁だが、恵子にはギリシアのゼノンのようなところがあり、「すばやく飛んでゆく矢には、動きも止まりもしない時がある」(無限小の時間に区切れば、動いているにもかかわらず静止している状態がある)とか、「南方には果てがなく、また果てがある(空間は無限ともいえるし、また有限ともいえる)」「一尺の埵(むち)は、毎日半分ずつ分割してゆくと、永遠に分割し尽くせない(物質は無限に分割できる)」など、時として彼は数学的ともいえる論理性を発揮する。こういうところに、荘周は一目置いて居たのではなかろうか。

恵子が死んだ後、荘周は「恵先生が亡くなられてから、私には相方とする人がいなくなってしまった。もうともに議論しあう相手がいないんだよ」(雑篇「徐無鬼篇」)と寂しがっている。荘子は、恵子の荒唐無稽ともいえる論理性を楽しみ、それを逆手に取った空想を展開したり、時に厳密に言葉の在り方を検討したりして、思想を磨いていったように思われる。そして恵子の詭弁が言葉の限界を突いたものであることから、「思考の土台である言葉そのものを疑った方がよい」という考えになっていったのではないだろうか。

荘周の言語に対する思想は、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に近い部分がある。ヴィトゲンシュタインの「語りえないことについては、沈黙するほかない」(『論考』)は、荘周の言葉としても違和感がない。雑篇「寓言篇」にある「ことばで論じなければ一切万物はみな斉しいのだが、その斉しさをことばで論じようとすると斉しくなくなってしまう」とか、外篇「天道篇」の「意味内容にはその拠り所があるが、その拠ってきたるところは、ことばでは伝達できない」などは、言語で議論することの限界を明確に指摘している(ただし、そう言いながら、荘周はたいへん饒舌である)。

しかし人間は言語以外で思考することはできない。「道」が思考を超えたものであればどう肉薄すればいいのか。そこで荘周が注目するのは技術だ。有名な寓話「庖丁解牛(ほうていかいぎゅう)」は「養生主篇」に出てくる。牛を捌く名人の庖丁は、牛の筋肉や腱の隙間にそって刃を入れるから19年も刃こぼれしないということから、自然の摂理に従って物事を進めることの重要性が謳われる。荘周は、言葉よりも技術に信頼を置いている。やはり彼は科学的なのだ。『荘子』には、数々の技術者が登場し、技術を極めることで自然の摂理を体得しうることが示されている。いくら思考をもてあそんでもそういう境地にはならない、と荘周はほのめかす。「ものごとを自然のままに任せて、心を自由に遊ばせ、いかんともしがたい必然に身を委ねて、己の内なるものを養い育ててゆくのが、最良の方法」なのである。そこに言語も勉学も議論も必要ない。

また、『荘子』といえば「無用の用」(逍遥遊篇・人間世篇)が有名である。曲がりくねった木は、役に立たないから木こりに切られることなく寿命を全うする、と荘周はいう。このテーマは様々な題材で変奏して語られるが、言わんとすることは「有用性への疑問」というより、有用と無用は相対的な概念で文脈次第、ということだ。つまり有とか無といったものは、作られた概念にすぎず、万物はすべて一つである(物自体のみがある=これもヴィトゲンシュタイン的だ)。そして荘周は外面的な美醜の無意味さをことさら強調する。もしかしたら荘周自身、風采の上がらない人物だったのかもしれない(荘周は間違いなく貧者であった)。彼は兀者(足斬りの刑を受けた者)とかせむしといった障害者で道を体得している人を幾人も登場させる(中でも魅力的なのは「女偊(女性のせむし)」(大宗師篇)だ)。

荘周は、最高の境地に達した人物を「真人」という。これは儒家のいう「聖人」とは少し違う。聖人は天下を治めるが、真人はあらゆる相対性を超え、自然に従って生きる人間である(ただし荘周はしばしば「聖人」をいい意味でも使う)。彼は儒家が尊ぶ尭・舜・禹などを真人と認めない。「大宗師篇」では、真人とはこういうものだという議論の中で、真人そのものとはしていないものの、狐不偕・務光・伯夷・叔斉・箕子・接輿・紀多・申徒狄が「自分自身の快適さを享受しなかった人々」として列挙されている。これは後の道家に大きな影響を与えた(後述)。

荘周は儒家を強く意識している。『荘子』で主役級に登場するのは孔子である。もちろんその問答は事実ではなく、そこでは孔子は荘周によって役回りを与えられて戯画化されている。孔子にとってはいい迷惑である。しかし一方的に揶揄されたり貶されたりしているのではなく、荘周は孔子という人物に人間的魅力を感じているようだ(一方、意図的に無視されているのは孟子)。『荘子』には明らかに『論語』のパロディになっている部分がある。そして時に孔子は『荘子』的な道を理解し、憧れる人間として描かれる。荘周にとっても孔子は端倪すべからざる人間であった。

そして後の老荘思想といえば、養生や長命、不老不死を求める性格があるが、『荘子』にもその要素はあるものの、むしろ生と死の対立を超越しようとする意識の方が強い。「大宗師篇」では孔子に「彼らは生をコブやイボ同然のよけいなものと見なし、死をできものがつぶれたくらいにしか思っていない」と言わせている。荘周は、病気になったら死を受け入れるのがよいと考えている。それが自然の摂理だからだ。一方で、寿命を全うすることも同様に価値があると見なしている節もある(例えば「無用の用」の木がそうだ)。このどっちつかずな態度は外篇・雑篇ではさらに拡大されることになる(後述)。

内篇での荘周は、他の諸子百家とは少し趣が違う。諸子百家とは諸国を遊説して君主に富国強兵の道を説いた政策コンサルタントであったが、荘周はどうやらそういう活動とは距離を置いていたらしい。というのは内篇では、荘周が君主と問答をする話が一切出てこないのだ。ただ、同じく遊説などしなかった老子は、『老子道徳経』で一切固有名詞を出さず(誰々がこう言った、という話をせず)訥々と哲理を語ったのに対し、『荘子』は明らかに諸子百家的なしつらえで編集され、荘周自身、架空の人物を大量に繰り出して対話と寓話を基本とした戯曲的論述を行う。そう考えると、荘周は諸子百家の著作のパロディとして『荘子』を書いたのかもしれない。荘周は明らかに諸子百家の人々をあざ笑っている

ちなみに、荘周は「天」をあまり意識していない。これも他の諸子百家との違いである。儒家と墨家は特に「天」を重視するが、荘周は「天」を至高の存在としては認めていないようだ。代わりに荘周が強調するのは「造物者」である(『荘子』が初出の単語である)。「造物者」は、「天」のように万物を主宰しているのではないが、自然の摂理を司る。しかし「天子」を指定したりはしない。人間界に介入する「天」ではなく、人為を超えた存在として「造物者」がいるのである。荘周の世界観は、鬼神の存在を前提としていないようだ。

外篇・雑篇

先述のとおり、外篇・雑篇は後次的に成立したもので、内容は雑然としており、思想が一貫していない。そして思想が深化するどころか俗化している部分もある。外篇・雑篇は、荘周に続いた老荘思想家・道家たちが、『荘子』というフィールドを使って玉石混淆の論述を入れ込んだという感じである。よって思想としては大きな価値はないが、文学的にはむしろこちらの方が面白く、興膳宏も面白がって日本語訳を書いているような雰囲気がある。ちなみに内篇にはほとんど押韻がないが(荘周は押韻より論述を重視する)、外篇・雑篇は詩文とも違うラップ的な押韻が頻出している。

まず目立つのは、儒家への批判である。荘周本来の思想では、儒家への批判は絶対的なものではなかったのだが、ここでは儒家のいう徳目(仁・礼・義など)は人為的なものであると一方的に斥けられ、人間本来の性質「性」を尊ぶことが喧伝される。この「性」は内篇には登場しない概念であるが、思想史的には重要である。

外篇・雑篇には多種多様な登場人物が出てくるが、私がとりわけ気に入ったのは盗跖(とうせき:盗人の跖)である。彼は「何をやろうが道がないわきゃねえだろう」と嘯く(胠篋篇)。盗みをやるにも、そこには自然の摂理があるというのである。そして盗跖篇では、孔子を相手に大演説をぶつ。それは、世の中の全てをクソくらえだという、とんでもない演説だ。そこでは道家的なものでさえ笑い飛ばされ、伯夷・叔斉・申徒狄などは「名誉にとらわれて軽々しく死を選び、命の大切さを忘れて寿命をそまつにしたやからさ」と一蹴される。この部分は、興膳も面白くてしょうがないという感じで訳している。世の中のあらゆる権威に悪態をつく盗跖は単なる独善主義者なのだが、ある意味「道」を相対化する存在でもある。「てめえのいってる道なんざあ、からっけつの中身なしで、でまかせのうそっぱちよ」と彼はいう。痛快である。

そして外篇・雑篇の大きな特徴は、荘周の思想と老子の思想がドッキングされていることだ。本来の荘周の思想は、老子と近接はしていても違う部分も大きい。例えば老子は文明を否定するが、荘子は技術を信頼する。老子は国家・政治論を語るが、荘周は政治的なものから距離を置く。この二つの立場が、個人倫理として統合・再編集されたのが外篇・雑篇である。つまり、老子・荘周の思想が「隠者の哲学」として糾合されているのである。これはこれで魅力的な思想かもしれない。

しかし、ここで理想とされている隠者は、どこか小市民的だ。外篇・雑篇には、「陋巷で静かに暮らす賢人のところを王が訪れ、宰相となってもらいたいと頼むが、賢人はそれを断って「政治の話など汚らわしい」と嫌がり自殺・隠遁してしまう」というエピソードが様々に変奏して語られる。先述した狐不偕・務光・伯夷・叔斉・箕子・接輿・紀他・申徒狄は、みな名誉や地位を拒んで自殺したり隠遁した人々である(自殺したのは、狐不偕・務光・紀他・申徒狄)。

自殺や隠遁までしなくても、天下を譲られることを断るというエピソードはさらに多い。例えば尭は許由に天下を譲ろうとして断られ(これは逍遙遊篇にもある)、舜は善巻に譲ろうとして断られる。しかしこういうエピソードをくり返し読まされて思うのは、「荘子的隠者は、むしろ賢王に見出されることを熱望していたのでは?」ということである。

彼らは、自分が賢人であると自認しながら、官職に恵まれず不遇をかこっているように見える。だから、田舎に隠棲している自分たちをいつか王が見つけ出し、抜擢されることをひそかに願っているのである。ちょっとシンデレラ的なのだ。しかし彼らはそうした機会はいつまで待っても訪れないということが分かっていた。そこで、想像の中では「自分は好きで隠棲しているのだから、政治の世界などに引き入れないでほしい」という態度を取ったのである。そして、その態度の行き着くところとして、抜擢されようとしただけでそれを嫌がって自殺までしてしまう。

一方で、荘子的隠者は生命を重んじる(内篇「養生主篇」、外篇「達生篇」)。天寿を全うすることは、一国の主となることより優先される(雑篇「譲王篇)(とはいえ、それと反対の思想も外篇・雑篇にはあるのだが)。にもかかわらず、狐不偕や申徒狄は些細なことで自殺しており、命を粗末にしている(盗跖のいうとおりだ!)。結局、隠遁も抜擢も自殺も、彼らにとって全てが観念的で想像の産物にすぎないように見える。荘子的隠者は、実のところ田舎で隠遁しているのではなく、地方政府で小役人をしているようなイメージがチラつく。

しかし、諸子百家の他の思想が、結局は政治哲学に収斂していったのに対し、老子・荘子の場合は政治とは全く関係ない領域で、個人の生き方を指南した。為政者のための儒学思想に対抗できたのは、個人のための老荘思想しかないのだ。玉石混淆ともいえる多くの人が『荘子』の成立に寄与していることが予想されるが、その裾野の広さこそ『荘子』の力を表している。

では、その個人の生き方指南とは何か。それは極言すれば「自然の流れに身を任せなさい」ということだ。「自然の流れ(=やむを得ざる必然の理)」が則ち「道」なのだ。これは、積極的に世界に働きかける思想ではない。現状肯定であり、敗北を認める思想であり、何もしなくてもすむ思想なのだ。「何も思わず、何も考えなければ、道は知られる。どこにも身を置かず、何も行動しなければ、道に安んじられる」(外篇「知北遊篇」)などというと、一見すごいことを言っているようだが、なんだかニートの思想のようにも感じられる。このように書くと、あんまり『荘子』をネガティブに評価しすぎだと思うかもしれない。

しかし人間の社会は、自分ではどうしようもないことで苦しめられるのであり、世界を変革することは不可能なのであり、一旗揚げれば99%は失敗するのが現実なのだ。だから『荘子』の思想はネガティブな方向に成長していったように見えるが、ある意味では、人間社会のリアリズムを最も体現した思想となっていったとも言える。「生きるということは、暗闇の中にいるようなものだ(生有るは黬きなり)」(外篇「庚桑楚篇」)という。ままならないこの世界でどう生きるか。どう内面的自由を得るか。『荘子』の中心的な命題はそこへ遷移していったのである。

荘周の思想がそのように変奏していった原因の一つは、彼には弟子が少なかったということがありそうだ。『荘子』全篇で、唯一登場する(名前が明らかな)彼の弟子は「藺且(りんしょ)」ただ一人である。荘周その人は、諸国を遊説するでもなく、陋巷にあって貧しく一生を終えたらしい。だから弟子もほとんどいないのだ。儒家と違って、道家の場合は荘周からの師資相承の系譜というものがなく、荘周が残したテキストをたよりとして思想が広まっていった。そのためにテキストの解釈次第で多様な思想が生まれ、それが編集されて生まれたのが『荘子』なのである。それは荘周の思想を基盤としつつも、それとは異質なものを包摂したものなのである。

荘周は「ことばでは伝達できない」と言ったが、その思想は言葉のみによって伝えられ、そして「ことばでは伝達できない」ことを明証するように、変容していった。だがその変容は、必ずしも悪いものとは言えない。思想的には俗化していても、むしろ個人倫理としての力があるのは外篇・雑篇かもしれない。ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を生きる指針とする人はほとんどいないが、『荘子』はたくさんの人の座右の書となってきたのである。

言語哲学を足がかりに隠者の思想に辿り着いた、玉石混淆の説話集。

【関連書籍の読書メモ】
『老子』福永 光司 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収) 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/08/37.html
老子の思想。全ての人為的価値を顚倒させるリアリズムの書。 

【関連書籍の読書メモ】
『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_15.html
諸子百家の思想の概観。

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2025年11月13日木曜日

『北畠親房『神皇正統記』現代語訳・総解説』今谷 明 訳・著

『神皇正統記』の全訳および解説。

北畠親房の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』は、神国思想を鼓吹した書であり、その冒頭「大日本(おおやまと)者(は)神国(かみのくに)也」はあまりにも有名である。

私は原文でこれを通読しようと手に取ったが、最初の方はともかくとして途中無味乾燥な文章が続く部分があり、とても苦労して原文で読む価値はないと思ったので今谷明の現代語訳に頼った次第である(だが振り返ってみると、無味乾燥な部分は思ったより少なかった)。

さて、親房がなぜこの書を著したのかというと、一言でいえば「南朝の正統性を主張するため」とされている。ただし、「誰に向けて」となると学説が盤根錯節としており定説はない。彼がこれを書いたのは延元4年(暦応2年)(1339)、常陸の小田城に籠っていた時である。

親房は村上源氏(村上天皇から出た源氏)の庶流北畠氏の出身である。家格は決して高くはなかったが、彼は源氏長者が帯すべき淳和院(じゅんないん)別当を任じて、大納言まで上るという異例の出世をした。しかし養育を任されていた世良(よよし)親王の病死に殉じ、38歳で出家した。世良親王は後醍醐天皇の皇子である。

出家後の親房の動向はしばらく謎であり、建武の新政の樹立にあたっての関わりは不明である。なお、武将の北畠顕家は彼の嫡男だ。

建武2年(1335)、中先代の乱が勃発し、建武政権は崩壊。南北朝の争乱によって顕家は戦死した。不利な状況を打開するため、後醍醐天皇は義良・宗良の二皇子に北畠親房を添えて東国に派遣する。ところが一行の船が難破し、親房は皇子らと離れて霞ヶ浦の南岸に漂着してしまう。親房が到着したことが分かると敵勢が攻め込んだため、逃亡して移ったのが南党の小田治久(はるひさ)の本拠地である小田城であった。

そして親房はこの小田城にて、簡略な「王代記」一冊を参考に、たった一ヶ月程度で『神皇正統記』を書きあげたのだという(!)。博覧強記の親房をもってしても、このような事情であるから歴史的事実の間違いは多い。多いには多いのだが、大筋ではほとんど淀みなく歴史を物語っているのはさすがという他ない。

その内容は、歴代天皇を軸とした日本の歴史である。

本書は「天」「地」「人」の3部に分かれており、 「天」は日本の成り立ち、世界の起こり、天地開闢よりの神話、神武天皇から宣化天皇までの歴史を、「地」は欽明天皇から堀川院まで、「人」は鳥羽院から後村上天皇までとなっている。このように、親房は天皇の交替を軸に日本史を語るのである(この手法自体は「六国史」と共通している)。

『神皇正統記』の天皇の代数は、95代(後醍醐天皇)までは『本朝皇胤紹運録』と全く一致している。つまりまずは「六国史」に依り、鎌倉以後の天皇についても当時の考えを踏襲している。親房オリジナルは、光厳天皇以下、北朝の天皇を認めないというだけだ。しかしその理由となると、実は本書には明確には書いておらず曖昧だ。三種の神器がキーにはなっているが、それだけで説明されているわけではない。

また、天皇中心史観でありながら、鎌倉幕府(源頼朝と北条泰時)を高く評価しているのも奇異である。これは、親房の先祖を泰時が引き立ててくれたということに基づくと思われる。そして親房は、摂関政治を理想的な政体としている。であれば、親房の立場は後醍醐天皇(天皇親政を理想とした)とも違う。 このように、『神皇正統記』は意外に史観が一貫しておらず、ご都合主義的に評価が下されているように見える。

しかしながら、本書は「読者が留意しないと親房の筆録に引きずられる傾き(p.25)」があり、古来、多くの読者が親房に引きずられてきた。本書で、今谷明は原文に忠実でありながら、そうならないように詳細な註を用意しており、とても助かる。

なお、親房は儒学思想に依って歴史を記述する。神道思想も使われるが、全体的な基調は儒学である。また仏教的な世界観を前提とする。親房の思想は儒学が基調といっても、彼は孟子の易姓革命を認めず、王朝が交替している中国より皇統が続いている日本の方が優れていると考える。

しかし親房は天皇は神聖不可侵とは全然思っておらず、『神皇正統記』ではしばしば天皇に筆誅が加えられる。親房は天皇は「徳」や「賢」を備えるべきだと厳しく要求し、天皇が不徳の場合は皇統が移ることも当然とする(傍系の天皇が断絶するなど)。彼は天皇が直系に継承されることを非常に重視する一方で、血統一辺倒ではなく「徳」を持ち出し、不徳の結果が現実に投影されると考える。この親房の論理からは、後醍醐天皇の吉野没落も不徳により人心を失った結果と考えざるを得ないのだが、親房はそれを無視する。「血」なのか「徳」なのか、親房は都合よく使い分けているように見える。

このように、親房の歴史記述は揺れ動いている点も多いが、先述の通り素直に読んでいると親房の書き方に納得させられてしまう部分がある(1ヶ月で書いただけあって妙なスピード感がある)。そのため、『神皇正統記』は後世に幅広い読者を獲得したから、その批判も多かった。批判的な著作としては、例えば小槻晴富『続神皇正統記』や前田綱紀『正慶乱離志』がある。『神皇正統記』は、逃亡中に短期間で書かれたものとしては異常なほどの影響力を持ったのである。

本書は天地開闢以来の歴史を語る。いちいちそれをまとめると厖大になるので、以下私が感じたことを中心にメモする。 

「天」

親房は「日本」(あるいは「大日本」)という国号について考察した後、天竺(インド)と震旦(中国)の世界創世神話を紹介する。そして「世界の始まりはどこでも違うはずはないが、三国とも違っている」とコメントしている。こういうコメントは現代人にはないセンスで面白い。ちなみに震旦は「乱逆で無秩序な国」といい、妙に中国の評価が辛い。圧倒的な文明国だったはずだが。親房にとっては、文明の程度よりも皇統の連続の方が重要なのである。

次に日本の開闢神話が語られる(概ね『日本書紀』『旧事本紀』『古語拾遺』に基づいているようだ)。親房は神話を神話としてでなく、実際にあったこととして語る。それにしても神々の名前(と漢字)・系譜をよく覚えていたものだと思う。ここでは意外なことに本地垂迹説が語られていないが、「和光同塵の御誓いも現れて(p.67)」という一語がある。「和光同塵」は、仏が(その光を和らげて)神として垂迹する、という意味で使われた(元来は『老子』に出てくる言葉)。

三種の神器についての考察の中で、「この「理(ことわり)[天照大神の神勅]」を悟り、その道から外れることがなければ、内典(仏書)・外典(儒書)などの学問も最後はこれと一致するであろう(p.81)」とあるのは三教一致思想として注目される。なお、高千穂への天孫降臨については、実際の地理との対応はあまり考えていないようなのが近世とは大きな違いである。ちなみにニニギノミコトがやってきたのが「吾田の長狭御崎」で、日本書紀の「笠狭御崎」とは違っている。記憶に基づいて書いているからこういう間違いは多いようだ。

ところでニニギノミコトが天下を治めたのは30万8533年だという。これはどこから出てきた数字なのだろうか。続くヒコホホデミノミコトは何年と書いておらず、続くウガヤフキアエズノミコトは、63万7892年治めたとする。いくら何でも寿命が長すぎ、超古代すぎる。そして、これでは他国の歴史と全く数字が合わないはずだが、親房はいろいろと理屈(屁理屈?)を述べ、「(中国の)盤古の初めは、わが国では彦火火出見尊の代の末ごろにあたることになるのであろうか(p.87)」などと述べている。言っていることは荒唐無稽だが、それを合理的に解釈しようとするのが親房の神話記述の特徴である。

さらに、ウガヤフキアエズノミコトの「77万余年ごろ」に中国では伏羲がいたという。そして、同「83万5667年」には天竺で釈迦が誕生したといい、ウガヤフキアエズノミコトは83万6043年天下を治めたという。先刻は63万7892年だったのに整合していない。このあたりは無茶苦茶である。そして神はこんなにも長命であったのに、神武天皇からは寿命が短くなったのは不審だが「神の道のことは推し測りがたく(p.89)」と述べて言い訳している。

神武天皇以降の歴史では、いちいち「この頃中国では…」と簡単でも中国のことを折に触れて述べている。例えば「神武天皇の御代の初めは辛酉の年で、中国では周の世、第17代の君、恵王の17年にあたる(p.95)」といった調子である。もちろんこの年代は荒唐無稽なのだが、本人としては実証的な態度で書いている。中国は「乱逆で無秩序な国」とはいうが、親房は中国をかなり意識しており、しばしば中国の歴史を引用して様々なことを述べる。ちなみに第7代孝霊天皇の項では専ら中国の歴史が述べられている(このあたりは日本史が空白になっているからだろう=欠史八代)。中世に入っても中国史をいちいち参照する書き方は続く。

なお、神武天皇の項で、「アマノコヤネノミコト」の子孫と「アメノフトタマノミコト」の子孫が神事を司った、とやや強調している。これは中臣氏と斎部氏の祖先にあたる。中臣氏から藤原氏が出たので、藤原氏の神聖性を強調しているものと思われる。 

親房は、妙に天皇の年齢にこだわりがあり、何年治めて何歳で死んだかを全天皇について書いている。「何年治めて」は重要だが(絶対年代がないので天皇の治世を足し合わすことで年代を計算しなくてはならない)、何歳で死んだかにこだわりがあるのはなぜなのか。しかも、第4代懿徳天皇は77歳で死んだとするが、『日本書紀』では享年が記されておらず『古事記』では45歳だし、第5代孝昭天皇は104歳で死んだとするが、『日本書紀』では享年が記されておらず『古事記』では93歳とするように、親房が述べる天皇の享年は記紀と合わない。何に基づいて書いたのだろうか。

第16代応神天皇の項では、はっきりと本地垂迹説に基づいた記述となっている(応神天皇は八幡神として顕現した)。ここで正直の徳が説かれる。曰く「天照大神も、ただひたすら正直のみをその御心となさっている(p.128)。」とし、「もっぱら正直を第一とすべきである(p.129)」という。これは度会神道に基づいているようだ(親房には『元元集』という神道の著作もある)。なお第30代欽明天皇の項でも「八幡大菩薩が初めて垂迹なさった(p.154)」とある。

第23代清寧天皇の項は、しごく簡略にしか書いていないが、清寧天皇は子がいなかったので実はここで系譜が断絶している。これは重要だ。次の第24代顕宗天皇は清寧天皇から見て再従兄弟(はとこ)にあたる(清寧天皇は顕宗天皇を養子にした)。しかしこの皇統の移動の理由について親房は何も語らない

一方、第26代武烈天皇は暴虐で知られ、悪行・不徳のために「天祚(あまつひつぎ)」が長く続かなかったとする。清寧天皇の皇統断絶とは全く違う書きぶりだ。気をつけて読んでいくと、親房は本当にご都合主義的だ。そして(『日本書紀』では血縁関係が書いていない)継体天皇が即位するわけだが、親房は継体天皇までの先祖名をしっかり記している。これが何に基づいたものなのか不明である。そして皇統が攪乱しているにもかかわらず、親房は継体天皇を「真の賢王」と呼ぶ。そして「群臣が探し申しあげ、賢明な方だということで皇位にお迎えしたのだから、それこそ天照大神の御本意と考えられる(p.147)」「皇胤の絶えたときに、賢明な人が皇位に即かれることは、天の許すところである(同)」としている。このあたりには血統一辺倒でない親房の考えが如実に表れている。しかしそれなら、王朝が交替しているといって中国を批判するいわれはないはずである。そこが親房の非論理的なところである。

「地」 

第33代崇峻天皇の項も興味深い。崇峻天皇は蘇我馬子が差し向けた東漢直(やまとのあやのあたい)駒(こま)に弑されたからだ。天皇中心史観で考えると、天皇を殺すということは大逆である。しかし親房は「この天皇には横死する運命の相が現れていた(p.158)」とし、この殺害を合理化(!?)している。

皇統の交替ということでいうと壬申の乱も重要なはずだが、親房は第40代天武天皇を傍系と見なしているのか天武系に対して妙に冷淡である(つまり本来の皇統に戻っただけだと見なす)。また第42代文武天皇の項で年号(大宝)の使用が始まったとしているが、親房はなぜかこれ以降、年号をあまり書いていない。天皇の享年は執拗に記すのに、なぜか年号には関心が薄いらしい。親房は記憶に基づいて『神皇正統記』を書いているので、関心の薄いことはそもそも覚えておらず書けないのかもしれない。記述に非常に粗密があるのが『神皇正統記』の面白いところでもある。

第52代嵯峨天皇の項では、かなり長く日本の仏教の歴史と国家論が展開される。最澄と空海の話に続いて、真言宗・天台宗に触れ、特に真言宗については「わが国は神代からの建国の由来が、この宗の説くところとよく符合している(p.205)」という(ただしどういうところが符合しているのかは書いていない)。真言宗がもっとも日本に相応しい宗教であるという考えが当時支配的だったようだ。次に華厳・三論・法相宗について、次に律宗、最後に禅宗について述べている。そして「教法は「無尽」で多種多様(p.211)」だという。親房は宗義格別の考えである。

次が国家論であるが、親房は人々が飢えないようにすることが基本だという。意外と常識的だ。「さまざまの道を用いて人々の憂いを安心させ、お互いに争いごとのないようにすることを、国を治める根本[と]すべきである(p.213)」という。そして学問や諸芸が必要であることを中国の故事を引いて述べている。この嵯峨天皇の項は、『神皇正統記』の中で異彩を放っている。

第56代清和天皇の項では、摂関家について説かれる。先述の通り、親房は摂関政治を理想的な政体とする。その淵源はアマノコヤネが天照大神に仕えていたという盟約であるが、親房は藤原良房の系統が摂関家として確立したことを重視している。

第57代陽成天皇の項も興味深い。陽成天皇は、侍臣を殿上で撲殺したことで臣下により廃位されたと言われるからだ。ただし親房はこの事件については書かず、「「性悪」で帝王の器にうさわしくなかったので、摂政の基経は嘆いて廃位を決断した(p.228)」と書いている。徳のない天皇は臣下により廃位させられることもやむを得ない、というのが親房の考えだ。

第58代光孝天皇の項では親房の天皇論が開陳される。ここは重要だ。陽成天皇の廃位は「天皇ご自身がなされた科(とが)(p.231)」だといい。天皇は「十種の善を積み、その効力で天子になられた(p.232)」ものだとして、前世からの因縁を強調するが、それでも現世での業績と善悪はまちまちであるから、「本と本として正にかえり、元を元として邪を捨てられることこそ、祖神の御意に適いなさるものである(同)」という。文意が取りがたいが、「皇統が断絶しているように見えても、それは悪逆の報いとして傍系が断絶したのであり、祖神の御意によって正系の皇統に返ったのである」という意味だと思われる。

第59代の宇多天皇の項では、宇多天皇が出家し、真言宗の勧請を受けて法統の正統となったことが述べられている。面白いのは、ここで真言宗についての解説がなされた後、「宇多天皇の御代こそ無為にして治まるという聖代である(p.238)」といっていることだ。老荘思想的なのである。ちなみに、このあたりから歴史記述が詳しくなる。

次の第60代醍醐天皇は「聡明叡哲(p.240)」、第61代朱雀天皇は「政治が間違っていたとは思えない(p.244)」、第62代村上天皇は「名君が出現された(中略)わが国が中興のときを迎え(略)(p.245)」とし、賢帝が続いて出現したとしている。にもかかわらず、朱雀天皇には皇子がいなかったため、同母弟の村上天皇が即位しているのである。これは兄弟間の践祚なので皇統の交代とはいえないが、親房の皇統交代理論に当てはまらない。そこで親房は「「時の災難」であったと思われる(p.244)」としている。しかし「徳」が十分なのに「時の災難」があるなら「徳」は本当に有効なのだろうかと思わざるを得ない。

ちなみに村上天皇の項で、村上源氏の始まりについて述べている。先述の通り親房は村上源氏の庶流にあたる。よって村上源氏に誇りがある(=「天皇の御子孫」だという)が、ここで藤原氏(摂関家)が上位にあるとそれとなく書いてある。親房は摂関家を非常に重視している。

第63代冷泉院は、一種の画期を成している。ここで天皇号が使われなくなり、山陵が置かれなくなっている(宇多天皇から諡(おくりな)も廃止されている)。天皇の性格に変化が生じたのである。親房は「尊号をやめてしまうことは臣子の儀ではない(p.254)」とし、「やはり天皇と申し上げるべきである(同)」とするが、近年の研究では「〇〇院」はむしろ「天皇の聖性をかえって強化する方向にあった(同頁・今谷の註)」とされる。ちなみにこの頃から天皇の出家が普通になる。

ちなみに冷泉院から第67代三条院までは皇位継承がイレギュラーである。親房は第65代花山院については「この天皇にも「邪気」があったという(p.257)(後述)」としているが、それ以外の皇位継承については何事もなかったかのように述べている。親房の「徳」による皇位継承理論は破綻していると言わざるを得ない。親房もそれを感じているのかいないのか、第66代一条院の即位では、花山天皇が「神器を置いて皇宮を出られたので(p.258)」譲位の儀を行ったとし、ここで初めて三種の神器が皇位継承で大きな役割を与えられている。注目の部分である。

第68代後一条院の即位は、冷泉天皇の皇統が断絶し円融天皇の系統に移ったことを意味する。親房は冷泉天皇を正系とみなしているが、これが断絶したのは「元方の怨霊のせい(p.263)」だそうだ。藤原元方の娘が生んだ皇子が天皇になれなかった恨みが「邪気」となって冷泉系を苦しめたのだという。しかし冷泉と円融は同母兄弟である。冷泉系だけに「邪気」の矛先が向かうのは道理が通らない。それに対し親房は「(円融院が)これほどまで悩まれなかったのは、皇位を受け継ぐ御運がおありになったからであろう(p.263)」という。やはり親房はご都合主義的だ。

ちなみに、後一条天皇は、初めて諡号に「後」がついた天皇(院)である。この「後」に何の意味があるのか、親房は何も記していないが、私としては復古的な意味が託されているように思う。追って検討してみたい(ここから、後朱雀院、後冷泉院など白河院の登場まで「後」が続く)。

「人」

周知のとおり、鳥羽天皇以降の皇位継承は非常に混乱している(手間なのでいちいち記さない)。直系相続を重視する親房は、ここからの皇位継承について頭を悩ませたに違いないが、なぜか皇統の断絶・継承についてほとんど議論していない

後鳥羽院の子孫が皇位を継いだのは「これもしかるべき天命だったのだと思われる(p.281)」としているが、問題はなぜそこに天命があったのか、ではなかろうか。もはや「徳」は重要な要素ではなくなっているように見える。それは、天皇自身ではなく、院が執政の中心になったためなのかもしれないし、あるいは武士に実権が移りつつあることを示しているのかもしれない。藤原通憲(信西)の最期を「その行いが天意に背いていたからであるのは疑いようもない(p.287)」とし、源義朝が滅んだのを「名行が欠けていた(p.289)」「義朝自身の不徳・科である(同)」とするなどである。

第82代後鳥羽院の即位は、第81代安徳天皇が神器2種とともに海中に沈んだため、神器なき即位であった。しかも皇統の断絶(当然に安徳天皇の直系ではない)も伴っている。親房の皇位継承理論では容認できぬ践祚のはずだ。しかし親房は「後白河法皇はわが国の本主として正統の位を伝えておられた。また、皇大神宮と熱田神宮の神があきらかに護りなさることなので、天位には何の問題もない(p.299)」と言い切っている。

ところで三種の神器(のうち宝剣と神璽)が海に沈んだのなら、以降の天皇はみな正統とは言えないのか。親房が言うには、海に沈んだ宝剣は代わりのもので、本物(天藂雲剣)は熱田神宮に祀っており、神璽(八坂瓊勾玉)は海から浮かび上がってきたとする。親房は三種の神器が不変であると述べているが、実際にはたびたび作り替えられている。そもそも親房の理屈では、レプリカの宝剣でも即位に有効であるということになり、それならば三種の神器の意味はないことにならないか。しかしこのあたりから親房は神器についてしばしば述べて皇位継承の重要な要素としている。

廃帝(仲恭天皇)の項では、承久の乱が述べられる。後鳥羽上皇が幕府を打倒するために挙兵したがあえなく敗退した事件である。天皇中心史観の立場では、後鳥羽上皇側に正義があったとするのが当然であるが、親房はそう見ない。親房は承久の乱の失敗を上皇の失政に原因があったとし、「(幕府の打倒は)天も許さぬことであったことは疑いない(p.314)」という。そしてむしろ頼朝は善政によって民を救ったとする。

第86代四条院は若くして亡くなったのでここで皇統が断絶した(もはや親房は「徳」がどうのこうのと述べていない)。そこで北条泰時は第87代後嵯峨院を立てたのだが、これを親房は「これは天命であり、正理であった(p.320)」とし、「天照大神の「冥慮」に代わって、泰時がこのように取り決め(同)」たという。この論法だとなんでも説明できてしまうような気がする。ともかく、親房は泰時びいきなのだ。

こうして、ようやく「両統迭立(てつりつ)」に入る。後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)が交互に天皇を出すという異常事態であるが、意外なことに、これについての親房の筆は至極あっさりしている。南北朝の動乱の原因はこの両統迭立にあり、また皇統の直系相続を基本とする親房にとって容認できぬ事態のはずである。にもかかわらずなぜ親房は両統迭立について問題視しないのか。結局、両統迭立の責任を追及すると北条時宗にいきつくが、先述のとおり親房は北条泰時びいきであり、ひいては北条氏びいきである。そのために両統迭立を不問にしたとしか思えない。

両統迭立の中で、親房が特に高く評価するのは後宇多院である。後宇多院は退位後に出家して灌頂を受けており、「あらゆる戒律を残りなく保ち、終始怠ることなく真言密教の奥義を究め、大阿闍梨として灌頂を授けられなさったことはたいそう珍しい(p.334)」という。親房は、真言密教びいきでもある。第95代後醍醐天皇も、真言密教を修行し、灌頂を受けている。もしかしたら親房の真言密教びいきは、後醍醐天皇の存在から逆算されたものなのかもしれない。

さて、問題の光厳天皇の即位についてである。なぜ親房は光厳天皇を天皇として認めないか。後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒を目論んだ「正中の変」(後醍醐は無関係を主張)を経て、「元弘の変」で幕府方に捕らえられて退位を余儀なくされた。『神皇正統記』は(意図的に?)書いていないが、ここで三種の神器は幕府方に没収されている。光厳天皇は、後醍醐天皇からの譲位こそないが、後伏見天皇の「伝国詔宣(てんこくしょうせん)」による正式な手続きで即位している(後鳥羽天皇と同じ)。なお光厳天皇の即位にあたって、親房は三種の神器の有無について何も述べていない。ここが一番意外だった。光厳天皇を認めるか否かが『神皇正統記』の一番のキモであるはずなのに、親房は議論も何もなく光厳天皇を一方的に切り捨てているだけなのだ。

 一方、後醍醐天皇は隠岐国に配流された。その後、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、反幕府方の勢力を糾合し、特に足利高氏の寝返りと新田義貞の力で鎌倉幕府を滅亡させた。こうして後醍醐天皇は再び天皇として返り咲いた(北朝の立場からは後醍醐天皇を重祚したと見なした)。なお書いていないが、この時後醍醐天皇は神器も取り戻したのであろう。

また、ここで北畠顕家を陸奥守に任じて東国に派遣したことが述べられるが、不思議なことに、顕家が親房の嫡男であることは一言も書いていない。親房は『神皇正統記』を、親房の立場からではなく、いちおう客観的な歴史書として書いている(という体にしている)のである。 これは、読んでいるとなんだか居心地が悪い。親房は、明らかに後醍醐天皇の廷臣としての立場で書いているのに、あたかも客観的な歴史書であるかのように装っている。

しかし面白いことに、かといって後醍醐天皇を手放しで賞讃するのでもない。例えば足利高氏を重用したことを「度を超えた御寵愛(p.356)」といい、「たいした大功績もない高氏に、このような恩賞が与えられるのはおかしい(同)」という。恩賞の不公平は建武政権の早期瓦解の要因に挙げられるが、親房もそれを指摘する。また人事は適材適所であるべきなのに、勲功への見返りとして官位が濫発されたとも強く批判している。親房は客観的な歴史書を装うことで、建武政権への批判をしているのである。これは後醍醐天皇の「不徳」であるから、皇統の移動が導かれるように思われる。ところが親房はさんざん建武政権の失敗をあげつらいながらも、それを正統と見なし続ける。

中先代の乱が起こり建武政権が打倒されると、北朝は光明天皇を即位させるが、ここでも神器の有無について親房は一言も述べていない。実際には、光明天皇の即位時には神器はなかったが、その後、後醍醐天皇が花山院に幽閉され、神器も幕府に取り上げられて光明天皇の許に戻ったのである。こうなると光明天皇が正統ということになりはしないか。さらに後醍醐天皇は神器を持ち出して吉野に逃亡したとするが、今谷によれば「後醍醐天皇が神器をすべて持ち出したとは考えがたい。(中略)吉野朝で後醍醐の携帯と称す神器は、南朝において新造したものと推測される(p.380)」という。 

『神皇正統記』は、神器と皇位を強く結びつけた書であるとされる。確かに親房は「内侍所(神鏡)も神璽も吉野にあるのだから、どうして都でないことがあろうか(吉野こそ都なのである)(p.380)」と述べ、神器こそ皇位を表すものだという。ところが、これまで縷々述べたように、決して『神皇正統記』全体がそういう考えで一貫して書かれているわけではない。それどころか親房の皇位継承理論で最も重要なのは「徳」(=善政)であり、神器ではなかった。天皇の地位が執政から遠くなり、皇統が乱脈したことでクローズアップされてくるのが神器なのである。むしろ、南朝の正統性を主張したいがために苦し紛れで出してくるのが神器=皇位の理屈であるように感じた。しかも、注意深く読んでみるとその理屈はすでに破綻しているのだ。

それにしても、『神皇正統記』は本当に南朝の正統性を主張するために書かれたのだろうか?  というのは、南朝の正統性を主張するためには「北朝に正統性がない」ことを論証する必要があるが、実は『神皇正統記』では光厳天皇・光明天皇を切って捨てているだけで、正統性の有無について(神器の有無についても!)全く論じていない。これでは南朝の正統性が明証されたとは言いがたい。そもそも、南朝の正統性を主張するために、神代以来の天皇の歴史を全て書く必要はないように思う。なにしろその皇統は『本朝皇胤紹運録』と全く一致しているのだ。つまりこの本は、本来書かねばならないことが書いておらず、書かなくてもいいことが厖大に書かれているように見える。 

一方で、『神皇正統記』は冒頭に述べたような緊迫した状況で書かれており、漫然と書いたものでないことは明らかだ。しかも南朝の擁護が全面に出ていることも明白である。そこで後半部分をもう一度検証しつつ目を通したところ、親房があえて書かなかったと思われることについて見えてきた。

それは、「伝国詔宣(譲国詔宣)」である。

当時の一般的な相続慣行において最も重視されたのは「譲状(ゆずりじょう)」という証文である。これは、家督保持者から次期当主へ向かって「財産は○○に譲ります」ということを明確にする証文である。中世は証文が重視された時代で、家督継承には家宝の受け渡しも伴ってはいたが、一番重要だったのは「譲状」であった。この一般通念が天皇家にも適用され、天皇家の家督保持者たる「治天の君」(院)が次期天皇を指定する「伝国詔宣」を出すことで即位が可能となると考えられるようになった。

最初に「伝国詔宣」が出されたのは鳥羽天皇である(出したのは白河院)。白河院は5歳の皇子を鳥羽天皇として強引に即位させたが、その時に使われたのが「伝国詔宣」だ。次が後鳥羽天皇の時で、前天皇の安徳天皇が壇ノ浦で神器とともに海中に沈んだため、彼は神器を用いた「践祚の儀」は行えなかったのであるが、「伝国詔宣」で即位できると見なされたのである。これについては、親房も「太上法皇の詔によって後鳥羽天皇をお立てになった(p.299)」とちゃんと書いている。また他にも後高倉院(天皇経験でない治天の君)から後堀河天皇へも「伝国詔宣」が出されて次期天皇に指定されている。そして「伝国詔宣」によって三種の神器なしで即位したのが、北朝の光厳天皇と光明天皇であった。

今谷明も「公卿界でも上皇の「譲国詔宣」をもって皇位継承の象徴とする意識が定着しており(今谷明「14−15世紀の日本」『岩波講座 日本通史』第9巻)p.7」)とし、「上皇の譲国詔宣を欠く践祚例は、院政期に入って一例もなかった(同書p.13)」と述べている。当時の皇位継承の通念において最も重視されたのが「伝国詔宣」なのである

にもかかわらず、親房は後鳥羽天皇の即位以外で「伝国詔宣」については何も語らない。その理由は明らかだ。「伝国詔宣」が有効ならば、北朝の天皇(光厳・光明)を正統と認めざるを得ないからだ。しかも親房は、「伝国詔宣」が有効であることを自覚していたのも間違いない。それは、後醍醐天皇没後、「親房は幕府を油断させ、北朝の帯びていた神器を接収し、光厳・光明・崇光の三院と廃太子直仁親王を南朝賀名生(あのう)に拉致・監禁するという荒業(p.31)」を行っていることから明白である。神器がなかったとしても、上皇が存在していれば「伝国詔宣」によって天皇の即位が可能になるから、「治天の君」になりえる上皇3人を全員拉致して北朝の天皇擁立を防いだのである。

ところが幕府もさるもので、光厳・光明の母である西園寺寧子(広義門院)を「治天の君」にしつらえ、彼女から「伝国詔宣」を出すことで後光厳天皇を即位させた。

これには親房も予想外だったが、これほどまでに強力な皇位継承のアイテムだったのが「伝国詔宣」なのである。してみると、親房が『神皇正統記』でやりたかったことは、「伝国詔宣」の効力を無力化するということなのではないだろうか。そのために、彼は後鳥羽天皇以外では「伝国詔宣」の存在に触れないことで、あたかも三種の神器こそが皇位継承に重要な役割を果たしていたかのように印象操作した。実際に当時の皇位継承に有効だったのは「伝国詔宣」だったにもかかわらず。

しかしながら「伝国詔宣」は院政期に登場するものであり、天皇の歴史全体から見ればごく最近のアイテムにすぎない。一方、三種の神器は神話に登場しているから、悠久の歴史がある。そして「三種の神器」を媒介にして、親房は「神慮」「天意」「神明」をしばしば引き合いに出して、神の意志こそが皇位継承(皇統)を左右してきたとの印象を植え付けるのである。だから日本は「神国」なのだ。これが、親房が天皇の全歴史を神話の時代から長々と書いた理由であるように思う。

そしてその意図は見事に成功した。親房によって、皇位継承の正統性のポイントが「伝国詔宣」から「三種の神器」へ完全にスライドしたのである。

※「伝国詔宣」については、岡野友彦「伝国詔宣——中世院政下の皇位継承」も参考にしました。

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。「愚管抄と神皇正統記—中世の歴史観」を所収する。

『神国日本』佐藤 弘夫 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/08/blog-post.html
中世の神国思想を考究する本。神国思想をキーにして中世思想を紐解く良書。 

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2025年11月10日月曜日

『阿弥陀聖 空也――念仏を始めた平安僧』石井 義長 著

空也の評伝。

空也(903~973)は、鴨長明が『発心集』で「わが国の念仏の祖師と申すべし」と述べたように、いち早く念仏を行い、人々に広めた先駆者である。空也は法然(1133~1212)よりも230年早く生まれ、源信の『往生要集』が書かれる13年前に亡くなっている。

しかしながら、「彼に関する確実な史料も極めて乏しく、仏教者としての彼の評価は、さまざまな解釈が乱立したままの状況にある(p.8)」。例えば浄土教研究の金字塔である井上光貞『日本浄土教成立史の研究』では、空也の念仏は民間呪術宗教と捉えられ「狂躁的エクスタシア(p.14)」とされるなど、呪術的性格が強調された。問題は、何に基づいてそういう判断がなされたかである。空也が自ら記したものは何も伝わっておらず、断片的な史料からそういう評価になったのだというのが著者の考えである。そこで著者は、空也に関する史料を博捜し、『空也上人の研究——その行業と思想』で実証的に空也の姿を明らかにした(著者の博士論文でもある)。本書は当該書を踏まえ、一般向けに空也の生涯をまとめたものである。

著者は空也を「法然等の鎌倉浄土教より二百余年早く易行の称名念仏を選択し、空と慈悲という仏教の根本思想に立って、庶民の魂の救済に身を抛った天才的な真の宗教家であった(p.16)」と評価する。

その根拠とするものは、空也の没後まもなく源為憲(ためのり)によって書かれた『空也上人誄(るい)』である。これを縦糸とし、その他の史料を横糸として本書は記述されている(ただし、『誄』の全文がまとめて掲げられていないのは残念である)。さらに著者は「彼の実践した行動が彼の思想の表現であったという立場に立って(中略)帰納的に探っていく(p.15)」という方法論で史料の行間を埋める。よって、本書には「こういう行動をしているということは、こういう思想であったのであろう」という記載が散見されるが、基本的には史料に基づいている。

なお『誄』の作者源為憲は、当時大学寮文章道の学生(がくしょう)であり、後に『三宝絵』も表している。

空也は延喜3年(903)に生まれた。出自は不明であるが、『誄』では「或曰(あるいはいわく)」として「皇派に出ずる」(=皇胤)とされ、後代には醍醐天皇の皇子であるとか親王の子であるという伝説が生まれた。「彼が皇室ないし藤原上級貴族と何程かの交流があり、その支援を受けたことは事実と考えられる(p.48)」

なお空也の読みが「こうや」であるという説があるが、原本に遡ると根拠がなく、「くうや」が正しいと思われる。

少壮の日には、優婆塞(在家信者)として各地で修業し、道路補修をし井戸を掘り、荒野に捨てられた遺骸を集めて焼き、阿弥陀仏の名を唱えた(「阿弥陀仏の名を唱う」)。この遺骸供養は非常に先駆的だ。「阿弥陀仏の名を唱う」は称名念仏の原型とみなせるので、これが事実であれば称名念仏による亡魂供養として歴史的に重要である。

念仏の初めは、円仁の弟子相応が「円仁の遺言に従って貞観7年(865)に「不断念仏」を行ったのが始まりとされ(p.55)」るが、これは『阿弥陀経』の読誦+前後の「阿弥陀仏(あみだぶ)」という念仏によるものでり、称名念仏そのものではない。いまだ称名念仏が確立していない頃に空也が阿弥陀仏の名を唱えたのは、不断念仏だけでは説明がつかない。

彼は20歳を過ぎて尾張国分寺で出家して沙弥となり、自ら「空也」を名乗った。ただし、これは正式な出家の手続きを経ないものであったようだ。私度を取り締まるべき国分寺で、正式な手続きを経ずに出家したのは奇異である。なお浄土宗・時宗に伝わる伝説によれば、空也は三論宗を学んだという。三論宗は空の思想を根幹とする。著者はこの伝説を蓋然性が高いとしている。

空也は国分寺での象牙の塔的な仏教に飽き足らなかったのであろう。彼は国分寺を出て播磨国の峯合寺(みねあいでら)の道場にこもって数年間一切経を読んだ(法然と似ている)。どうやらここで空也は念仏を選び取ったらしい。斉明天皇7年(661)には、すでに善導の『観経疏』『往生礼讃偈』が伝来しており、これらは奈良時代の正倉院写経所で写経されていたことが知られている。峯合寺の一切経にはこれらが含まれていて、これらを空也が読んだ可能性はある(著者は「まず間違いないことと考えられる(p.68)」としている)。また奈良時代、元興寺(三論宗)の智光は世親の『浄土論』を釈義した『無量寿経論釈』を著している。法然より遥か前に、口称名号の念仏の理論は一応あった。

空也は特定の師を持たず、自ら念仏を選択したと考えられる。そして「尋常(つね)の時、南無阿弥陀仏と称えて、間髪を容れず」という状態になった。後の一遍を髣髴とさせる。

さらに阿波の孤島湯島に行き、数か月参籠し観音の現身を拝した。空也は阿弥陀仏への信仰と同時に十一面観音への信仰を持っていた。なおこれは、親鸞が六角堂(本尊如意輪観音)に参籠して聖徳太子からのお告げをもらったことと通ずる。空也もこの時に自己を確立したのだという。だいたい30歳くらいの時であった。

空也はその後、陸奥・出羽地方へ念仏布教の旅に出た。最澄と論争したことで有名な徳一も陸奥国にいたことが知られているが、東北ではあまり仏教が普及していなかったことが巡錫の理由らしい。ここで空也は、念仏を唱えれば極楽往生できるという易行の教えを説いたと思われる。その後、著者は様々な史料から空也は愛宕山で修業したと推測している。

そして空也は、平安京に入った。天慶元年(938)、空也36歳であったと推測される。空也は市中で乞食し、また貧者や病人に与え、「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた。また常に南無阿弥陀仏と称えていたため「阿弥陀聖」とも呼ばれた。山中から市中に居を移したのは、人々を救いたいという思いがあったために違いない。

ところで、本書では何も問題視されていないが、峯合寺での一切経の閲読やその後の念仏を考えると、『誄』で少壮の空也が「荒野に捨てられた遺骸を集めて焼き、阿弥陀仏の名を唱えた」というのは齟齬がないでもない。峯合寺での一切経の閲読の前に、空也は「阿弥陀仏」と唱えていたことになるからだ。私としてはこれは後付けの伝説ではないかと考えたい。なにしろ源為憲は若い頃の空也を直接は知らないのだ。

ただし、少壮の空也が念仏で亡魂供養をしたというのは事実でなかったとしても、平安京で念仏の教えを説いたのは事実であり、時代に先駆けている。「空也以前にわが国で口称名号の念仏が実践されていた事例は発見でき(p.102)」ないのである。

また空也は平安京東の市門(いちかど)に石の卒塔婆を建て(『打聞集』)、そこに「一たびも南無阿弥陀仏という人の 蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」との和歌を掲げた。この和歌は『誄』には記録されず、藤原公任の『拾遺抄』(空也没後二十数年の撰)に記録されている。これは画期的な法語である。

このころ、空也は興福寺に行って勉学をしたという形跡がある。興福寺の浄名院という寺院には、空也が掘ったという井戸「阿弥陀井」があった(現存せず)。鎌倉時代の説話集『撰集抄』には、空也が空晴という僧侶に経論を学んだことが書かれている。この空晴は興福寺の喜多院にいたという。空也の思想には興福寺の影響があるようだ。

そして『誄』には記されていないが、空也は平安京に阿弥陀仏を祀る「市堂」というお堂を建てたと言われており、平安時代末の絵図にはこれが記録されている。しかし当時の洛内は仏堂の建立が規制されていたはずで、どうしてそのようなことが可能になったのか謎である。また事実とすれば、京内仏堂として最も早い。

本書には記載がないが、確実な史料がある京内仏堂として早いのは、「因幡堂」(伝承では長保5年(1003)開基)、「六角堂」(初見は『御堂関白記』長和6年(1017))、「壬生地蔵堂」(伝承では寛弘2年(1005)開基)の3つだが、空也の市堂はこれらに50年ほど先駆ける。なお市堂の初見史料は、今のところ正応5年(1292)の古地図「東市町正応五年前図」(林家辰三郎が『町衆』で紹介)である。

ともかく、この市堂が京における空也の活動拠点であった。そして空也は天慶7年(944)、勧進(寄付集め)を行って、観音三十三身、阿弥陀浄土変一鋪、補陀落山浄土一鋪を描いて供養した。

天暦2年(948)、空也は天台座主の延昌に推されて、比叡山で得度・受戒した。空也46歳である。光勝という名を与えられたものの、彼は空也の名を使い続けている。著者はこの得度・受戒を、「念仏の道場にふさわしい寺院の創立(p.136)」を目指して官僧の立場を求めた結果ではないかとしているが、得度・受戒後も空也は既成の教団に従属した形跡なはい。

ともかく空也は、得度・受戒の後、葬送の地である鳥辺野につながる六原(六波羅)を拠点として、十一面観音像(六波羅蜜寺に現存)・梵王・帝釈天等の仏像の造立と『大般若経』600巻の書写の勧進活動を始め、仏像群は翌年に完成した。これは、天暦元年(947)からの疫病の流行、旱害・鴨川の氾濫などで亡くなった多くの人の霊を弔うためであったと考えられる。

一方、書写事業は13年後の応和3年(963)に完成し、左大臣(藤原実頼)以下が出席して盛大な供養会が催された。ちなみにこの『大般若経』は、紺瑠璃の用紙に金泥の文字、その文字を猪の牙で磨いて光沢を出し、各巻の軸先には水晶をはめ込むという豪華なものであった。その目的について、供養会で読み上げられた『空也上人の為に金字大般若経を供養する願文』(三善道統撰)では、「一切衆生の成仏得果のため」としている(目的が極楽往生ではないのは興味深い)。

また、この『願文』では、空也の勧進活動について「半銭の施すところ、一粒の捨するところ、漸々(ぜんぜん)に力を合わし、微々に功を成せり(p.235)」と語っている。11世紀には「勧進聖」の活動が活発になり、重源が勧進で東大寺の大仏を再建したのは有名な話だが、空也の勧進活動はそれらに先駆けている。

六波羅の拠点は西光寺と後に命名された。ここは空也没後、中信大法師によって六波羅蜜寺と改名され天台宗に属した。六波羅蜜寺の寺域は広大で、東西・南北がそれぞれ327メートルで南東の一部が欠けて2万8800坪もあったというからものすごい。空也存命中はここまで巨大な寺院ではなかったであろうが、その経済基盤はなんだったのだろう。それについて著者は「既成宗派や国家の庇護のもとに建立されたものでなく、空也およびその勧進に結縁する幅広い人々の西方浄土への祈願を積み上げて私的に草創された(p.157)」ものとする。とはいえ経常収入も必要である。まさか勧進で維持されていたわけではないと思うのだが。

空也は、これらの活動の他にも、説話や伝説・伝承にたびたび登場している。それらに共通する要素を一言でいえば、彼は貴賤分け隔てなく慈しんだ「慈悲の人」であったということである。彼は盗賊にも慈悲の心で接した。それらの伝説が事実であったのかどうかわからないが、少なくとも彼は慈悲にあふれた「伝説的人物」であった。それらの伝説では「呪術的性格」はむしろ希薄で、人間的な慈しみの方が強調されているように思われる。

天禄3年(972)、空也は西光寺で没し、入滅の際には楽の音が聞こえるなどし往生したと信じられた。齢70であった。

空也没後50年以上経って、藤原実資(さねすけ)は、『小右記』に「空也の金鼓(こんぐ)と錫杖を手に入れた」と日記に書いている。実資は『大般若経』の供養会に出席した実頼の実の孫で養子でもある。彼は空也の弟子義観阿闍梨からそれらをもらった。この義観は、諸史料との整合性を鑑みると本当に空也の弟子であったようで、園城寺系の寺院にいたと考えられる。そして6年後、実資は「新阿弥陀」という名前の「阿弥陀聖」にそれらを与えている。

つまりこの頃には、空也の衣鉢を継ぐ「阿弥陀聖」という存在がいた。しかもそれは一人二人ではなく、京中には念仏を唱える阿弥陀聖が数多くいたと考えられる。村上天皇の第10皇女選子内親王(964-1035)の歌に「8月ばかり月あかかりける夜、あみだの聖のとおりけるをよびよせさせて、里なる女房にいい遣わしける一首 あみだ仏(ぶ)ととなうる声に夢さめて 西へかたぶく月をこそみれ」とあるからだ。この歌からは、阿弥陀聖が夜でも大声で念仏(=高声念仏)をしており、しかもそれを宮廷の女性が好ましく感じていた様子が窺える。

また賀茂祭(葵祭)では高声念仏を行う行列があり、それは『文永十一年賀茂祭絵詞』(1247)では「空也上人無極(きわみなき)道心を顕わされんとて。わたりそめられたりけるぞ」とされている。葵祭の高声念仏は(法然や親鸞でなく)空也の念仏だというのである。また『梁塵秘抄』には「聖の好むもの。木の節(椀にする)鹿角(杖につける)鹿の皮(衣とする)」とあり、空也の影響が大きい。ただし、しばしば踊念仏のルーツが空也だとされるがこれは史料では裏付けられない俗説だ。

鴨長明の『発心集』では、天台宗三井寺(園城寺)の千観が、法会の帰りに鴨川原で空也に会い、「来世安心のためには、どうしたらよいでしょうか」と質問したのに対し、空也が「どうなりとも、捨ててこそ」と答えたエピソードが記されている。この答えを聞いた千観は華やかな装束を脱ぎ捨てて、山中にこもって後半生を念仏の普及に投じたという。このエピソードを、著者は応和2年(962)に実際にあったことと推測している。千観は西光寺の北にあった愛宕(おたぎ)寺を再興して天台宗の末寺としており、空也と接していたのは確からしい。

千観は日本で最初の和讃といわれる『極楽国弥陀和讃』を作って庶民に念仏を勧めているが、そこでは「極悪最重下の悪人も 一たび南無と唱うれば 引接(いんじょう)さだめて疑わず」としている。一たびの名号念仏で往生が可能であるというのは、空也の「蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」の歌と同じであり、また千観は自分だけでなく全ての人の往生を願っていたということから、空也の思想を受け継いでいるものと考えられる。

最後に、これは本書では簡単にしか書いていないが、空也が「市聖(いちのひじり)」と呼ばれていたことに注目したい。ここでいう「市」とは、都市のことではなく平安京の「市」(西市と東市があった)である。空也は、市で念仏を勧めていた。なぜ空也は市に現れたのか。鎌倉時代初期の慶政が著した『閑居友(かんきょのとも)』では、空也は弟子たちに「市では心が散ることがなくてすばらしい」と述べたというが、『誄』では「市店に乞食し、もし得るところがあれば、みな仏事を作(な)し、復た貧患に与う」とする。

空也が市に現れたのは、第1にそこに多くの人が集まっていたからであろう。第2に、乞食(こつじき)=托鉢がやりやすかったからであろう。そして第3に、当時の市は刑場も兼ねていたから、罪を犯した人々を救いたいという気持ちがあったからではないだろうか。「蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」の石卒塔婆も、『誄』では「囚門」にあったとしている。おそらく、念仏は悪人こそ救うという観念から刑場の前が選ばれたのだろう。

また、空也が設けた「市堂」も、市にあったから「市堂」なのだ。空也が「市聖」と呼ばれたのは、市には他に聖がいなかったということを示唆する。おそらく聖は山中で修業していて、民衆に教えを説くことはしていなかった。民衆の中に積極的に入っていったことに空也の特徴がある。

最後に、空也の特徴的な事績を改めてまとめると、(1)名号念仏を初めて民衆に向けて説いたこと、(2)念仏を1回でも効果があるとし徹底的な易行を勧めたこと(当時は、多念といって数多くの念仏をしなければならないという考えが普通だった)、(3)京内に仏堂を設けたこと、(4)早い時期に勧進を活用したこと、(5)念仏と観音菩薩への信仰が同居していたこと(親鸞に類似)、(6)念仏だけでなく、慈悲の心から行う社会事業(井戸掘りなど)を行ったこと(行基に類似)、の6点が挙げられる。

なお(1)に関して、『今昔物語集』では空也の弟子とされる慶滋保胤(よししげの・やすたね)は、『日本往生極楽記』で空也の伝を書いており、そこでは「庶民に忌み嫌われていた念仏を、空也が現れて以来世を挙げて称えるようになったのは、空也の衆生化度の力であった(p.26)」と述べている。これを鑑みると、空也は念仏を庶民に受け入れられるものにアレンジしていたのかもしれない。

本書は全体として、史料が乏しく断片的にしか語られてこなかった空也を一貫した視点で統一的に記述しており、一般向けの空也の評伝として高い価値がある。本書に描かれる空也は、法然や親鸞の先駆けであり、浄土教形成においてエポックメイキングな存在である。空也の研究は本書以降もあまり盛んではないが、念仏の祖師としてさらに研究が進むことを期待したい。

初めて空也の生涯を実証的に明らかにした労作。

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