筑摩 世界古典文学全集を読む

2021年1月29日金曜日

『田中正造の生涯』林 竹二 著

田中正造の評伝。

田中正造は、幕末に栃木県の小中村(現 栃木県佐野市)の百姓の家に生まれる。百姓といっても名主を務めるような家で、父の跡を継いで名主になり、正造はこの小さな村の名主を12年務めた。

彼は小中村の「政治」に責任を負って、藩レベルの政治とは異質のまとめ役をこなした。それは、自治的な慣行や寄合における合意を尊重する、ボトムアップ式のものだった。彼は名主ではあったが身分意識は薄く、村人の代表として領主との対立を辞さず、領内7ヶ村の農民の抵抗運動を組織して、暗君(失政の領主)を退陣させる実績を残した。そのために正造は投獄されたが、これが、権力に決して屈しない、正造の戦いの始まりだった。

正造は、明治11年に政治に一身を捧げようと決心する。きっかけは、土地の投機に成功して3千円という大金を手に入れたことだった。この金は正造に「公共のために尽くす自由」を与えた。正造は、なんと35年間の予算を立て、金を稼がなくても政治活動ができるように計画を立てた。38歳の時だった。

こうして政治家となった田中正造が取り組んだのが、足尾銅山鉱毒事件である。足尾銅山は、古河鉱業が明治になってから政府の後援を受けて驚異的に成長させた銅山である。明治17年には、大鉱脈にいたる坑道が完成し産出量は激増、それに伴って渡良瀬川の鉱毒汚染は酷くなり、流域の漁民は消え失せ、稲は立ちながら枯れるようになった。

しかし驚くべきことに、古河鉱業はそうした汚染を低減するどころか、採掘した捨て石を川に投棄する有様だった。鉱山では、銅を取り出した後の残りの石の処分が問題になる。公式には遠く離れた土地に石捨て場が設けられていたが、そこまで運ぶコストを削減するため、川際にこれを積み上げていた。古河は、暴風雨が来るのを待ってこれをダイナマイトで破壊し人為的に土石流を起こして処分していたのである。

そもそも渡良瀬川はよく氾濫を起こす川だった。しかし自然の氾濫は上流の肥沃な土を運んでくるもので、洪水の後は3年は肥料はやらなくてもよいというほど土が肥えた。だから流域の人々は洪水と共存していたのだ。ところが、古河鉱業によって渡良瀬川は死の川になり、半ば人為的に起こされるようになった頻繁な洪水は人々の生活を追い詰めていった。

田中正造は、明治24年にこの問題を取り上げてから、たびたび議会で政府の姿勢を問いただし、古河鉱業の悪事を暴き、人々の困窮を救うべきことを訴えた。しかし政府は歯牙にも掛けなかった。政府は国民のことはどうでもよく、古河鉱業を守る方がずっと重要だと考えていた。後に首相になる原敬は、古河鉱業の副社長でもあった。政府と企業は癒着して、経済発展のために邁進していた。

明治31年、流域の農民たちは、度重なる洪水に耐えかねて東京に請願・デモ(当時の言葉で「押し出し」)を行うため一万名で大挙して押しかけようとしたが、正造はこれを止め、代表者50名のみを残して帰村させた。そのようなことをすれば大量の逮捕者が出るおそれがあったし、正造は、政治家として言論の力によって事態を改善したいと思っていた。

板垣退助をはじめとした自由民権運動の旗手たちが結局は政権に取り込まれていったのを考えると、田中正造ほど言論の力を信じていた明治の政治家はいなかったかもしれない。板垣たちが政権に近づいたのは、日本では権力を握らなければ結局何もできないという(絶望的なことに現代の日本でもほとんど変わらない)事実があったからだ。権力があれば白も黒にできるが、言論の力では白を白と認めさせることすらできないのである。だが正造は、言論の力を信じ、デモ行進を止めた。

しかし、やはり言論の力は無に等しかった。いくら正造が鉱毒問題を訴えても、足尾銅山の企業責任は議会で取り上げられることはなかった。それどころか政府は、鉱毒について人々が文句を言って「世間をさわがす」ことが鉱毒問題であると見なしていたのである。

事実、政府は鉱毒問題をなきものにしようとしていた。明治24年、梁田・足利郡の有志が『足尾銅山鉱毒——渡良瀬川沿岸被害事情』というパンフレットを出版すると、政府はこれを発禁にした。続いて発刊された「足尾の鉱毒」という雑誌も発禁処分。政府は人民の救済を図るどころか、被害の実情を隠蔽しようとして言論を封殺した。

だから、正造がいくら議会で政府を問い詰めようとも、のれんに腕押しだった。政府はのらりくらりとした答弁で古河鉱業の加害行為を容認していた。

政府は、鉱毒被害に対しては「粉鉱採集器をつけさせるから以後は被害もなくなるだろう」と解決済みの態度を示し、これまでの被害に対しては古河鉱業に幾ばくかの補償を行わせることとした。ところがこれは政府が古河鉱業と結託して行った示談工作であった。被害民たちは、この政府の姿勢を信じて、わずか2ヶ月くらいの間に全被害村で示談契約が古河との間で結ばれた。肥料代の半分にも満たない僅かなお金で住民は買収され、全ての権利を放棄させられた。だが、そもそも「粉鉱採集器」は選鉱機械であって鉱毒の流出を防ぐ装置ではなかったのである。

だから示談が結ばれた後も鉱毒被害が減ずることはなかった。正造は鉱毒被害が解決していないことを訴えたが、政府は「それは既に古河鉱業と住民との間で示談が成立したことで、解決済みの問題だ」として取り合うことをしなかった。

さらに明治33年、いっこうに鉱毒問題の埒があかないことに業を煮やした農民たちは、また大挙して請願に出発する。ところが憲兵を交えた警官隊が彼らを襲い、無抵抗の農民を包囲して殴る蹴るの暴行を加えた。これが「川俣事件」である。51名が凶徒嘯集の罪名の元に起訴され、農民指導者はすべて投獄された(もちろん裁判には政治が介入していた)。これで鉱毒問題を巡る農民の大衆的直接行動は後を絶った。

政府は、人民のための政府ではなかった。政府は人民を保護することはなく、むしろ都合の悪い人民を排除するのが仕事だった。政府は古河市兵衛の代理人に過ぎなかった。正造は議会と政治に絶望し、 議員を辞めた。そして、最後の手段として天皇への直訴を行う。明治34年、正造は拝観人の行列から飛び出して直訴の書状を掲げた。すぐに取り押さえられ、一晩勾留されたが、処置に困った政府は彼を狂人として早々に釈放した。こうして正造の東京での議員生活は終わりを告げ、彼は鉱毒被害の中心である谷中村に入っていくのである。

一方、天皇への直訴は不発に終わったものの世論の注目を浴び、政府はそれを鎮めるために「鉱毒問題調査委員会」を設置した。この時期、榎本農相は現地の惨状を視察して、鉱山の廃止を決めていたと考えられるが、鉱毒問題調査委員会の渡辺 渡(工学博士)はその結論をひっくり返す。彼は長く古河の技術顧問を務めていたのである。そのロジックはこうだ。今の鉱毒予防の措置は十分ではない。つまりいくらでも改善の余地があるから、今すぐに創業を停止する必要は無い、というものだ。

こうして鉱毒問題調査委員会は「予防措置命令」を出しただけで解散してしまった。政治が企業に従属していただけでなく、科学すら企業に従属していた。こうして古河鉱業の責任は一切問われることはなく、後の問題は流域の住民をどうやって納得させるかだけになっていた。

その方法は、渡良瀬川の改修工事であった。国は、巨額の予算を掛けて、度重なる水害を予防するために河川改修を行うことにした。これは本来、足尾銅山がなければ必要なかった工事であるし、それどころか、本当の問題は鉱毒であったのに、それを治水問題にすり替えて解決したことにしようという手段であった。

その犠牲者とも言うべき場所が、正造が入っていった谷中村であった。谷中村は、栃木県によって潰滅させられようとしていた。栃木県は、谷中村の村民を「救済」するため、村を「潴水池(遊水池)」にすることを決定した。明治35年に襲った大規模な洪水によって、村の堤防は破壊されたままになっていた。県はこれを補修しないで放置しておき、村そのものを遊水池にして全村民を移住させ、洪水問題を解決しようとしたのである。明治37年、遊水池設置のために県会で強行採決された予算上の名目は、「堤防修築費」だったにも関わらずだ。

谷中村がこのように権力に翻弄されたのは、村自身に弱みがあったからでもあった。村には明治35年以来、村長のなり手がなく、意思を統一することができなかった。さらに村には、村を売りたがっていた有力者がいた。彼らは、鉱毒で汚染された、洪水の頻発する土地で生きるよりも、むしろそれを売り飛ばす方が得だと考えた。その首魁とも言うべき存在が、安生(あんじょう)順四郎である。彼は権力者に取り入って村の土地の買収の仲介を行い、また混乱に乗じて村の財産を横領して私腹を肥やした。多くの村人たちは、県が公式の買収活動をする前に、「今のうちに売れるものは売っておいた方がよい」という安生らの流す風説を信じて、二束三文で土地を売ってしまった。安生の活躍によって、本来の評価額よりもはるかに低い金額で谷中村の人々は土地を手放した。

田中正造は、明治37年、63歳の時、まさに滅ぼされようとしていた谷中村に入る。その頃の谷中村は、既に村ではなく半ば沼になっていた。明治39年までの間に住民のほとんどは谷中村を捨て、谷中村は廃されてしまった。だが450戸中の19戸、百人あまりの村民が、「無法非道な権力の意志にしたがうよりも、この人間の住むところでない「人外境」に生きる道(p.129)」を選ぶ。正造は、残りの生涯をこの踏みとどまった村民と生きることになる。

明治39年、栃木県は村を遊水池にする事業の遂行のためと称して、村人が血が滲む思いで補修した堤防を壊し(!)、さらに立ち退きに応じなかったとして村人の家を強制的に破壊、しかも破壊費用まで村人に出させた。しかも折悪しく、家屋の破壊の夜、豪雨が降り出し洪水が起こる。最後の住人たちは文字通り無一物となり果て、ずぶ濡れになりながら全くの露宿で一夜を明かした。それでも彼らは全員、平然と元の屋敷跡に粗末な仮小屋を建てて、亡村に座り込んだのである。

田中正造は、もはやこうなれば移転しかないと考えた。村民のために移転先を用意し、移転を勧めた。だがその提案を全員が断る。今さら移転するくらいなら、家を破壊される前に出て行っている、というのだ。正造には、彼らの忍耐強さが理解できなかった。家を破壊されても平然としていて権力に怒っている様子もなく、なぜそうまでして沼となった亡村に留まり続けるのかと。「真相未だ相分かり兼候点これあり候」と正造は書いた。

そもそも、正造は谷中村の人々の戦いを、最初からまるきり理解していなかった。憲法や法律、人権といったことを知らない、無学無知な憐れむべき農民のために、自分が代わりに言論を奮って戦っているのだと、正造はそう思っていた。同志は谷中村民ではなく、東京の仲間であり、自分は谷中村の「保護者」であると考えていた。後に田中正造の伝記を書くことになる、正造の同志・木下尚江は、残った谷中村民を「列伝に値する勇者」だと最大級に称讃し、「非暴力、不服従の戦いの中に世界史的な偉大な啓示」を見ていたのに、正造は彼らを愚民としか思っていなかったのである。「まさしく言語道断ともいうべき正造の不分明」だった。

だが、正造は村民をまるで理解していなかったが、村を離れることはなかった。木下尚江が、村民を最大級に称讃しながらさっさと村を離れていったのとは対照的だ。そもそも正造が谷中村で過ごすようになったのは、最初は長居するつもりはなかったのに、彼らの惨状を見て離れるに忍びなくなったからだった。正造は村人を愚民だと見なしていたが、彼らと共に死ぬ覚悟をし、彼らを無限に愛していた。

そして正造の真に偉大な戦いが、ここから始まるのである。

そのきっかけは、村民の死に立ち会ったことのようである。 明治41年に死んだ村民竹沢友弥は末期の言葉として「仮小屋のなかで死ねるのはせめてもの満足だ」と語った。なぜ原始人のような生活をし、治療を拒否してまで亡村に踏みとどまり、それを満足としたのか。正造は自省せざるを得なかった。こうして「苦学」の日々が始まった。

やがて正造は、村民の生活全てがそのまま戦いであることを理解するようになる。彼は「不断に何の気負いもなく谷中人民が、きびしい戦いに従事しているのを知った(p.168)」。それは正造が取り組んできた言論の戦い、政治的な戦いとは異質なものだった。それは、政治的な手段が全て尽きたところに残された、たった一つの戦い、個人の権利に国家が立ち入ることを拒み通す戦い、自ら選んだ人生を生きるという戦いだったのである。

正造は、「予は目なし、耳なし、愚人中の愚人というべきのみ」と自分の不分明を恥じた。戦っているのは、正造ではなくて谷中村民だったことがはっきりとわかった。正造は、知識人、言論人としての自分を解体し、谷中人民を師として、自己と人生とを根底から問い直すことを始めた。彼は自ら「下野の百姓」と称し、谷中の村人と一緒になって生きた。そしてかつて自らが言論によって同志とともに展開してきた谷中の戦いが虚しいものだったことを悟った。それは「まったく的外れで、無意味で、こっけいな、空騒ぎ(p.159)」に過ぎなかった。

なぜなら、人民を守る意志も、言論を尊重する態度も、国家になかったからだ。政治は、言葉の遊びにすぎなかったのである。政治の退廃は行くところまで進み、天地を破壊してまで私利私欲が追求されるなかで、憲法や人道を持ち出すことに何の意味があるのか。天地が砕けた日本で、どうしたら人は自らを守ることができるのか。村人を愚民と見なした「田中正造」はもういなかった。正造の同志は「日本第一智謀者、日本第一の富有者たる谷中村民(p.191)」であった。

またこの時期、正造は、キリスト教に惹かれていった。日本人が神を持たないことが、日本を亡ぼす最大の原因だと見なし、「天国にゆく道ぶしん」をはじめた。正造は受洗していないのでキリスト者とは見なされていないし、聖書を至上のものとしたわけではないが(むしろ「聖書にくらべて谷中を読むべき也」といった)、その思想はキリスト者のそれといってよい。正造は、キリスト教が国民を救う唯一の力だとし、「目的宗教改革にあって、他は一切無頓着」とした。

やがて正造は渡良瀬川流域を踏破して、治水の徹底的な調査を始める。栃木県は鉱毒汚染から治水に問題をすり替えて渡良瀬川改修工事を行ったため、治水事業にはまやかしがあった。正造は、後世の参考とするため「間違った治水」を記録する事業を始めたのである。それはもはや、政治の間違いを糾弾する行為ではなかった。裁くのは「天」であった。自然の摂理に反した治水はいつかは破綻する。実際、谷中村が遊水池とされても、いっこうに洪水は減っていなかった。言論を武器としなくなった正造は、「摂理」を自らの柱としていたように見える。

そして治水調査の旅半ばにして、正造は力尽き、72歳でその生涯を終えた。奇しくも、35年の予算を組んで政治に発心してから、35年目のことであった。彼は無一文になっていた。

仮に正造がいなくても、おそらく谷中村の人々はそこに居座り続けたに違いない。しかし正造がそこにいたおかげで、黙殺される運命にあった谷中村の人々の戦いは不滅のものとなった。そこに座り込んだ人々は、時勢を読むことができない分からず屋だったのではなく、権力の横暴を深く憎み、非暴力・不服従の抵抗を貫き通した人々だったということが、正造を通して記録されたのである。

本書は、木下尚江の『田中正造之生涯』を下敷きに、現地や存命中の人に取材してまとめたものである。一般向けに書かれたものであるためにやや省略が多く、正造の私的な面(例えば結婚など)については一切触れておらず前後関係がわかりにくい箇所がある。また、その筆致は時に激情に流れ、冷静な評伝とはいえない。

だが、正造の戦いを述べようと思えば、感情の高ぶりを抑えることができなかったのもやむを得ないだろう。正造の戦いは、何かに打ち勝つ戦いではなかった。谷中村の人々と共に生きること全てが戦いであり、敢えていえば継承していくための戦いであった。そしてそれは、田中正造の生涯をかけて、実現したのである。

非常なる熱量を以て語られる田中正造論。

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2 件のコメント:

  1. 天皇直訴までは知っていましたが、その後の生き方が圧巻ですね✨今の悪政への抵抗に、参考になると思いました。

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    1. コメントありがとうございます! 明治の頃も、今も政治の腐敗が変わっていないことに暗澹となりますが、正造の戦いは今でも重要な意味を持っていると思います。

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