2017年8月11日金曜日

『天皇陵の近代史』外池 昇 著

「天皇陵」がどのように形成されたかを述べる本。

天皇陵とは、いうなれば天皇の墓とされた古墳のことである。すなわち、天皇陵というものを考える時、「この古墳は○○天皇の墓である」と決定したプロセスがいかなるものであったかが問題になる。

このプロセスに大きな影響を与えたのが、いわゆる「文久の修陵」と呼ばれるものだった。これは、宇都宮藩(実質的には筆頭家老だった戸田忠至(とだ・ただゆき)が企画)が歴代天皇陵の修復を幕府に対して建白したもので、建白の段階で宇都宮藩は山陵の現状を見たこともなく、いわば机上の空論として修陵を企図したのであった。

それどころか、修陵をしようにも、まず最も重要視された「神武天皇陵」がどの古墳にあたるのかも分かっていなかった。であるから、「文久の修陵」においては、まず天皇陵を治定することから始まったのである。そして、このときの修陵の方針が、拝所の設置や立ち入り禁止措置、周濠の水の利用許可など、後の宮内庁の陵墓管理の原型を形作ることとなった。

それでは、多く古墳が位置する畿内から遠く離れた宇都宮藩が、どうして修陵の建白を行ったのだろうか? 建白では、要するに「国威発揚になるから」といったことが述べられており、修陵事業は幕末の勤王思想の高まりに呼応したものであるらしい。また当時の状況を考えると、公武一体の象徴として天皇陵を利用しようとしたのだろうし、神武天皇の修陵直後には山陵に対して攘夷の祈願祭が行われていることを見ると、天皇陵が祭祀の中心として構想されたのかも知れない。しかし、実際のところなぜ宇都宮藩が建白を行ったのかは謎と言わざるを得ない。

「文久の修陵」では、歴代天皇の陵の比定を大急ぎでやったことから、学術的にあやしい比定がたくさん行われることになった。幕末から明治にかけて、天皇陵の比定は意外と二転三転しているところも多く、一度決まると凍結されたというわけではないが、基本的にはそうした間違った比定はその後も修正されなかった。というか、古墳の被葬者が誰であったかという問題は、古墳自体に墓碑銘などが残されていない以上、決定できるようなたぐいのものではない。にも関わらず、「この古墳は○○天皇の墓である」と決定されてしまうことは、その決定の当否に関わらずゆゆしき問題である。

本書ではこのほか、古墳が周辺の村落にどのように利用されていたか、また山陵にまつわる祟り(穢れ)の問題といったことが取り上げられている。天皇陵は、修陵の前は単なる古墳(というより山)であったのだから、そこに村落があったり、年貢地が設定されていたりした。それを修陵事業によって立ち入り禁止にすることは、村落の生産の場を奪うことにもなったのである(しかし、それには意外と軋轢はなかった)。

その他、 陵墓へはたびたび盗掘があったこと、地方官僚(県令)が陵墓に対して抱いていた強い関心といったものにも触れられる。税所篤(さいしょ・あつし)と楫取素彦(かとり・もとひこ)がその例として挙げられているが、これについてはもう少し多くの例と共に詳しく知りたいと思ったところである。宇都宮藩の建白もそうだが、地方政府にとって天皇陵は一体どのような意味をもつ場所であったのか、ということに強い興味を抱いた。

本書では、陵墓そのものの歴史ももちろん、「陵墓がどのように扱われてきたのか」という視点でも歴史が語られ、私にはむしろそちらの方が天皇陵にまつわる問題を考える上で重要なアプローチと思われた。天皇陵とは、日本人にとって何だったのだろうか? なぜ「文久の修陵」は行われたのだろうか? 大急ぎで「神武天皇陵」を創り出したのはなぜだったのだろう?

天皇陵をめぐる諸問題について見通しよく語る良書。

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